イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったときのことである。彼は上の息子エサウを呼び寄せて、「わが子よ」と言った。すると彼は「はい、ここにおります」と答えた。
イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬか分からない。
さあ今、おまえの道具の矢筒と弓を取って野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
そして私のために私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、私自ら、おまえを祝福できるように。」(1~4)
この時エサウは、ヤコブに長子の権利を売ったことを覚えてさえいないのか、わざと父に「長子の権利は、ヤコブの豆のスープと取り替えました。」と伝えないなら、重大なことで父を騙しているのてあり悪質である。
リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それで、エサウが獲物をしとめて父のところに持って来ようと野に出かけたとき、
リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」(5~10)
このことは単なるえこひいきではなく、二人が胎内にいたときの、主のことばをリベカが覚えていたことによる。
主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。(25:23)
まるでイサクを騙して、エサウの権利を奪うかのようであるが、すべてはみこころに叶っていることであり、イサクがみこころではないエサウに、長子の権利を与えて祝福することを防いだのである。
リベカの言いつけに従って、兄に変装したヤコブは母の作った料理をもって行き、父から長子の祝福を受けた。
「本当におまえは、わが子エサウだね」と言った。するとヤコブは答えた。「そうです。」
そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。わが子の獲物を食べたい。そうして私自ら、おまえを祝福しよう。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」(24~29)
狩から帰って来たエサウは、料理を父に持って行き事の次第を父から聴いた。
エサウは父のことばを聞くと、声の限りに激しく泣き叫び、父に言った。「お父さん、私を祝福してください。私も。」
父は言った。「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった。」
エサウは言った。「あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。」また言った。「私のためには、祝福を取っておかれなかったのですか。」(34~36)
エサウは、ヤコブが二度も奪ったというが、自分が軽んじて売ったことである。
世には取返しのつかないことが色々とあるが、いのちを世のものと取り換えて死を迎えるなら、それこそ二度と救いのチャンスはない。
年寄りでも若者でも死は何時訪れるか分からない。キリストの備えなく神の前に出るなら、神の御子が十字架を負ってたまわった救いを、軽んじたさばきを免れることは決してなく、神と共に永遠に生きる祝福のいのちは失われ、永遠に続く罰が待っているのである。
イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、すべての兄弟を彼にしもべとして与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。わが子よ、おまえのためには、いったい何ができるだろうか。」(37)
たとえ愛する親子であっても、夫婦であっても、親友であっても、神を神としないで軽んじた者を、死から救い出す手だては何も残されてはいない。
それゆえ、命のある間に時を惜しんで、うるさがられようとも嫌われようとも「今、キリストの御救いを信じ、神の祝福を得よ!」と叫び続けるのである。