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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第72回) 家族同伴で赴任したタイ・バンコク



 1993-1995年の2年間、家族帯同でタイの「バンコク」に赴任した。
その当時、トヨタなど著名な日本の企業も既に多数進出していたが、現地では日本から約50名もの社員が一度に赴任する大型プロジェクトとして評判となった。勿論、単身赴任者もいたが半数程度は家族帯同だった。その余波はタイの日本人社会にもインパクトを与え、バンコクの日本人学校やインターナショナルスクールの受け入れや住居探しなどにも影響を与えたほどである。

 確かその当時、バンコクの日本大使館に在留日本人として届出している日本人は1~2万人はいたと思う。登録していない短期の滞在者、3ヶ月の短期観光ビザを繰り返す人たちを入れると5万人以上日本人がタイにいたはずだ。また、バンコクにある「日本人会」にも入会した。バンコク日本人会主催の「盆踊り」には何千人もの日本人やタイ人が集い踊る青の時の活気は今も忘れない。

 私たちは政府関連の仕事であったので正規な労働許可(Work Permit)に基づく1年間滞在ビザが与えられたが、それでも最初は何カ月に一度はイミグレーションに出向き審査を受ける有様だった。正規の手続きでも滞在延長VISA取得は面倒な手続きだった。そんな面倒なビザ取得を嫌がり繰り返し出入国を繰り返す人がいたようだ。観光ビザは最長3カ月だが現地で1回延長できたので最長半年滞在できたので義母はこれを利用して半年間現地で生活を共にすることができた。

 当時、会社から海外赴任を伝えられた時、家族を同伴するか、若しくは単身赴任するか逡巡した。子供は3人で二人は中1と小6、下は幼稚園児だった。私はそれまでに海外生活経験があるが家族は海外経験がなかったので家族を日本に残し、単身赴任した方が簡単だった。
 しかし、子供が生まれて以降も数年に一度の転勤があったが常に家族一緒に新天地に転居した。今回は長男の高校受験が迫ってきていたので今が子供たちに海外生活の経験をさせてやれる最後の機会だと判断した。最悪の場合、家族は先に日本に帰し、私が単身で現地に残る決心もしていた。私は20代後半から転勤族になっていたし、家族はこれまでの国内転勤と同様に家族同伴で海外赴任することに異論も唱えなかったので一安心した。

 一旦、家族同伴で海外赴任することが決まると一挙に忙しくなった。
その中でも会社は東京に集め、特に夫婦で1週間のタイ文化、タイ語の語学研修もしてくれた。
 私は社宅住まいであったが海外赴任だと言っても社宅は明け渡す必要があり、家財の大半はトランクルームに預け、一部は実家に預かって貰った。
 一方、ピアノなどは現地で買うと高いので持って行くことにした。運賃は全部会社が負担してくれ助かった。
 これまで転勤の時、私は家族を残し先に赴任するケースが多かったので引っ越し準備の大半と締めはいつも妻が仕切ってくれた。妻はこれまで数多く転勤に伴う引っ越しをしてきたのである程度は慣れていたが結構大変な仕事である。引っ越し業者との打ち合わせ、お任せコースの引っ越しとは言え品々のパッキング、手配、市役所、学校関係の手続き、友人との別れ等、短期間にやらねばならないのである。

 それまでは国内では転勤時、転居先が決まっている場合は家族と家財と一緒に引っ越したことも多々ある。
しかし、海外転勤の場合そうは行かない。まず、大抵、滞在先が決まっていないからである。今回は現地に赴任して自らが好きな住居を探す方式だった。国内であれば適当に社宅を与えれば良いのだが50名もの社宅物件を一時に探すのは困難である。

 そんなこともあり私は家族転居の時期は少々ずらし、子供たちが第1学期を終えて夏休みの期間にすることにした。そうすれば3カ月の猶予が生まれる。
私は現地赴任後、家族が安全で極力便利な住居を探すことにした。その間、私はホテル住まいで子供たちは1学期を終え、夏休みに入って直ぐにバンコクにやって来た。
 住居は各々現地の不動産会社に希望の物件、エリアなど打ち合わせを行い、物件を探し歩いた。当時、バンコクは不動産バブルで新築のマンションが数多く建てられていたので余程の条件を付けなければ良い物件はゴロゴロしていた。
 私はバンコクの不動産会社が色々と住居を提案してくれたが築は少々古くても安全で生活に便利な地区の物件を探していた。
結果、1件、日本人に人気のあるマンションで近々、退去予定物件があるとの知らせがあった。
 そこは希望に添う最適の物件で、日本人に人気のあるマンションだった。只、その家族の転勤時期未確定だったため退去時期がその時点で確約出来なかった。退去は確実だったが要は時期の問題だけだった。私はその時点では単身赴任でホテル住まいだったし困ることはなかったが私の家族が来る予定の夏休みの期間中に退去完了するかが思案だった。
 物件のマンションそのものは築10年以上経っており、新築マンションと比べれば劣るかもしれないが場所、内容等全然問題なかった。
その当時でさえバンコクでは高層マンションが林立するようになっていたが決めたマンションは12回建ての11階で十分見晴らしも悪くなかった。12階はオーナーの住居だった。

 もし、最悪、マンションの明け渡し時期が少しずれても大幅にずれなければOKと決心し、この物件が空くのを待つことにした。幸いにも結果オーライだった!こちらの希望通り夏休みまでに退去が確定し、インド人のオーナーはそれまでに室内等をリノベーションしてくれることになった。備え付けの大型TVや冷蔵庫、キッチン回りも新品に入れ替えてくれた。

 バンコクの市街地はSoi(小路)が多く、大抵は先が行きどまりになっている。しかし、このマンションは珍しく通り抜けと行きどまり小路の間に建っておりどちらにも行き来できる便利なところである。小さめのマンションだったがマンション内にテニスコート、プールもあり夜でも利用できた。日常生活用品や日本食品が買え、日本人が利用するスーパーや料理店、レストランなども多くあって生活に困ることはなかった。

 そうこうしているうちに3カ月は過ぎ、準備万端の住居に家族全員(この時は義母も一緒)、子供3人も生意気にJALのビジネスクラスでバンコクにやって来た。家族は初めての海外渡航だったのでJALのファミリーサービスをお願いし至れり尽くせりの初渡航だったに違いない。

 子供達が通う「バンコク日本人学校」は小・中学制で当時2000人近くいた。小学生が1500-1600人、中学生が400人程度いて世界の日本人学校で1-2番のマンモス学校になっていた。勿論、先生は日本から派遣された日本人である。下の子は多くの日本人が通う幼稚園に入園した。
 毎日朝夕、スクールバスが各マンションを廻り送迎してくれた。日本人学校はバンコク市内にあったがバンコクの交通渋滞が激しく朝は6時代の時間帯にバスが迎えに来ていた。バス会社は日本人学校のために何十台ものバスが準備し、学校周辺ではスクールバスが渋滞の原因に一役買うなどブラックユーモアにもなっていた。勿論、スクールバスが回って来ない場所に住む人は自前で学校まで送迎しなければならない。そのためある会社の駐在員によっては社用の車と、通学や買い物など家族用の車を持っている人もいた。学費は一人月額5万円程度だったと思う。インターナショナルは10万円以上だった筈である。

 私は現地で通勤用の車を1台あてがわれていたが昼間、家族が外出や買い物などで出かける際は自宅に帰るようドライバーに手配していた。しかし、家族も現地の地理や生活に慣れるに従って近回りはバンコクでは有名なツクツク(3輪の乗合軽タクシー)やそのころ導入されつつあったメータータクシーに乗って出かけるようになった。

 当時バンコクはまだ地下鉄やスカイトレインがなく、主たる交通手段は車だった。車検もなく車も古かったので真っ黒なばい煙をまき散らし、交差点などで待っていたら喉が痛くなり、自宅がある11階のマンションの窓でも朝は綺麗だった窓枠も夕方には黒いすすがつくような有様だった。交通警官はマスクを付けていたが本署に返ると酸素吸入をしていたほどである。当時バンコクは世界1-2位のばい煙の都市だった。現在は昔と比べると隔世の感がある。

 タイは世界有数の食(タイ料理)の国である。街では至る所に屋代が出ており廉価で美味しいタイ料理がいつでも食べられる。一般的には辛いが味は調節もできる。はじめは辛いタイ料理が食べれなかった家族も次第に美味しさが分かるようになり今では大ファンである。

 結果的に2年間のバンコク生活は、家族にとっても良い経験となった。家族であちらこちらタイ国内の旅だけでなく、シンガポールとオーストラリアの海外の旅、文化や色んなタイの美食などを楽しんだ思い出となった。
 タイ料理、タイ飯に関して別に改めて書く積もりである。
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