”スローライフ滋賀” 

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第81回) 20年振りの2度目のバングラデシュ(1994年)

 私が初めて「バングラデシュ」の首都ダッカを訪れたのは丁度50年前の1974年である。初めての海外渡航が「バングラデシュ」だった。
 バングラデシュは元は「東パキスタン」だったが訪問した1971年はパキスタンから独立して数年しか経っておらずまだ混乱の中にあった。
 バングラデシュは私のその後の人生に影響を与えた国になったが奇しくも初回から20年後の1994年に再び訪れることになった。それもあれから30年前になってしまった。
 
 今回のブログは2度目のバングラデシュ訪問のことを書くが以下は初回の訪問時のブログであり参考までに紹介しておく。 
 
【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第2回) 初めての海外渡航はバングラデッシュ、国際線搭乗便はJAL日本航空
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/a822caf385f280c6487d7a4c7a1e7e05

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第3回) 初めての外国タイ・バンコクでのハプニング
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/9856ff34e2f197437587c66ac6467f5e

【国際線フライトと海外の旅の物語】(第4回) 初渡航先「バングラデシュ」の強烈な印象
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/3a9ffb7aecb80be42141d3e2a9ed6660

【国際線フライトと海外の旅の物語】(第5回) 1974年「バングラデシュ」の苦い出来事
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/bafa1bb81fc8f465b3dfffaaf39ca92c

 今回もバンコクからタイ航空機だった。
2度目のバングラデシュ訪問はタイのアマチュア無線団体(RAST)のデレゲーションの一員として参加した。
 昔から主に東南アジアのハムの有志により持ち回りで「South East Asian Net (通称SEA NET)」と称する集まりがアジアの国で行われていた。
 私はタイに赴任後、「RAST」に入会していてバンコク市内のシンハービールビアホールで開催する月例会に参加したり、クラブ局のHS0ACのコンテストオペレーターの一員として仲間入りし活動していた。
 
 赴任期間中の1994年はバングラデシュの無線団体がホストとなり首都ダッカで2泊3日の「SEANETコンベンション」が行われた。当時のRASTの会長からRASTもコンベンションにデレゲーションを送るので私にも参加してはどうかと誘ってくれた。この時、丁度初回訪問から20年振りのバングラデシュになり、隣国でもあるので参加させて貰うことにした。この時のRASTの団員は7-8名だったと思う。
 
 私が初めてバングラデシュに行った時はまだハムの制度がなく運用許可は一般的に認められていなかった。それが1974年から20年後の1994年にはハムの団体も出来、まだある程度限定された人たちであったがハムの運用が許されていることに喜びを感じた。まだ若い人もいたが社会的に認められた人々が主体ではなかったかと思う。
 
 コンベンションはダッカのインターコンチネンタルホテルで開催され、我々も同ホテルに宿泊した。1974年当時、インターコンチネンタルホテルはダッカ(或いはバングラデシュ)で1番の高級ホテルだっと思う。しかし、バングラデシュは世界の最貧国の1つであり、首都ダッカとて困窮した国民が市内に溢れ、この高級ホテルは治外法権の別世界だったような気がする。
 コンベンションでのレセプションでは各国メンバー一同紹介され、各国からプレゼントやダンスなどをするなど和気あいあいの時間を過ごした。
 
 この中でバングラデシュのメンバーとも語り合う時間があり、昔、極例外的に運用が認めれたことがある例を話したことがあったが当時まだバングラデシュ人にまだ許可されていなかったのに例外があったとは信じられないと言った感じだった。
彼らは昔のことをことさらこれ以上触れようとしなかったが1974年以降の20年、政府への色んなアプローチや苦労があって今日の姿になっているのだろうと思った。
 2日目は一同ダッカ郊外に移動し、場所の記憶はないが川でのクルーズを楽しんだ。船上に特別局が開設されていて私も少数ながら電信で運用した。
バングラデシュはまだまだ発展途上だったがホストの皆さんの暖かいホスピタリティに感謝した。
 
 2回目に訪問した1979年当時のダッカは独立して四半世紀が経ち、大きく様変わりをしていた。市内には大きな建物も建ち発展していた。相変わらず人は多かったが人々の衣類や表情も明るくなっていた。
 
 今回の訪問は団員の一員だったので個人の自由行動時間がなく、それでも半日程度だったと思うがダッカの市内に出かける機会があった。
ダッカにはオールドダッカとニューダッカがあったと思うがニューダッカの市街地を散歩、買い物時間に充てた。1974年と比べると店は多く出来ており隔世の感があった。只、ダッカから遠く出なかったのでダッカ以外のバングラデシュの社会を見ることが出来なかったのが残念だった。
 
 この時、お土産にダッカで「ノクシカタ」と呼ばれる伝統刺繍で、緻密な手縫い刺繍の壁掛けに魅了され購入した。バンコクに戻り額装し、バンコクの自宅に飾っていた。しかし、1995年にタイでの仕事が終わり帰国した時、日本に持って帰ったがその後も度重なる転勤のため実家に預かって貰っていた。あれから30年が経ち、実家で眠っていたこれを最近、終活の処分の一部としてお世話になっている病院に寄贈した。その他に寄贈した絵画等共にバングラデシュの「ノクシカタ」の刺繍が日の目を見てこの病院で今後も愛でて欲しいものだ。
 
 日本に帰国して2000年代の初め頃、日本語が流暢で優秀な技術者だったバングラデシュ人の若い部下を持ったことがある。私が初めてバングラデシュに行った時には彼はまだ生まれていなかったが懐かしいバングラデシュの談義をよくしたことを思い出す。そんな彼は日本とバングラデシュのかけ橋になりたいと独立してビジネスを立ち上げたが今も頑張っていることだろう。
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