”スローライフ滋賀” 

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第77回) タイでの日常生活と食生活(その1)

 1993年~1995年の2年間、家族同伴でタイのバンコクに赴任した。今から30年前であっという間の2年間であった。
 家族にとっては初めての海外生活でタイ語も満足にできなくても現地に馴染めだろうか、タイから日本に帰国後学業は遅れないだろうか、タイの食事は大丈夫だろうか、病気になった時十分な医療を受けられるだろうかなど心配事もあった。初めはそんな心配もあったが全般的には杞憂だった。

住生活環境
 大抵の日本人はバンコクの日本人が多く住むエリアのマンションに住んでいた。その主な理由は安全、交通、買い物、レストランなど生活に便利な場所で日本人学校への通学送迎バスサービスがある地域だったからである。
 私たちのマンションは築10年以上経っていたが11階建ての10階(250㎡の広さ)に住み、交通、買い物、外食等に便利な位置にあった。オーナーはインド人で我が家の上の11階に住んでいて色んな相談が出来て都合がよかった。
 同時期に赴任した同僚はめいめい好きな物件を探し住んでいた。私たちのマンションには他社の日本人家族が居たが同僚はいなかった。

 日々の通勤の手段は車で運転手を雇っていた。よって勤務時間帯に自分で運転することはなかった。週末に自分で運転したこともあったが特にバンコクは交通事情が悪く事故も多かったことから週末に車で外出するときは運転手に時間外手当を支払って出掛けた。
 バンコク日本人学校やインターナショナルスクールはスクールバスを提供していたがサービスエリア外に住む人は送迎の手段を自己で確保する必要があった。

 日本人学校は日本の先生が日本から派遣されていた。子供達は少ない時間ながらもタイ語の授業があったが上達はしなかった。また、自宅で英語やピアノの個人レッスンも受けることできた。日本式の塾もあり受験勉強も出来た。
 妻は現地でタイ語やタイ料理のレッスンに通っていた。妻にとって身近な先生はお手伝いさんだった。また、逆に妻がお手伝いさんへの日本食と日本語の先生だった。

病院
↑バムルンラード病院

 バンコク市内には外人が良く利用する大きな病院が2-3(バムルンラード病院、サミティベート病院、ゼネラル病院)あった。これらの病院では高度医療も受けられ優秀な医師がいて安心して受診できた。また、バンコク市内には日本で医学を学んだ開業医院もあった。我が家が利用したバムルングラッド病院には日本語の通訳が常駐し重宝されていた。それらの病院は医師の力量、設備も良く安心出来た。
 病院では治療費などは日本の「海外傷害保険」が適用されるため事実上持ち出し無しだった。子供が入院した時も一切個人の支払いはなく、入院中の食事は某有名日本料理店のメニューから選び、出前をして貰うことがあったがこの分も保険でカバーされていて驚いた。
 アジアの国ではタイのバンコクは日本と同等のレベルがあるとされ定期健康診断も現地受けていた。その他の国は定期健康診断で日本に帰国したり、バンコクに来る人も居た。日本企業は一般的に健康診断を兼ねて年に1度か2年で帰国できる制度が大半だったが、当時我々は年に2度帰国できる厚い制度があった。しかし、健康診断や病院には問題なかったのでタイに滞在の2年間1度も日本に帰らなかった。

お手伝いさん(”あやさん”と呼んでいた)
 バンコクのある日本人の家庭では毎日の食事(日本食)を全てベテランのお手伝いさんにお任せのところもあった。
 我が家のお手伝いさん(”あやさん”)は知り合いの紹介で東北部出身の若い女性を雇った。彼女は初めてお手伝いさんの仕事をするため同じくお手伝いさんをしていた姉を頼ってバンコクに出て来たばかりの新人だった。
 そのため初めはタイ語しか話せなかったのでコミュニケーションが難しかった。しかし、素朴で正直な人だったので直ぐ慣れて行った。お手伝いさんには初めは洗濯や室内の清掃、食器洗い、お買い物などを手伝って貰っていたようだ。

 我が家の食事は基本的に妻が日本食を食作っていたがやがて妻の指導で次第に簡単な日本食はお手伝いさんに任せられるようになった。現に妻が用事で短期間日本に帰った時にはお手伝いさんが毎日食事を作ってくれた。我が家の味付けとそん色ないほど日本食に上達していて驚くくらいだった。

 当時、まだ国民すべてがタイは企業などで雇用できる労働環境が十分確保できていないこともあってお手伝いさんや運転手もれっきとした職業だった。
当時、お手伝いさんは住み込みだったが月給は月1万円程度だった。それでも西欧人やタイ人家庭のお手伝いをするより日本人家庭を希望した。理由は待遇が良い、日本人の人使いは優しいからだと言われていた。現に我が家も年2回、お手伝いさんが帰省する時は心づけと手土産を持参させていた。また生活に必要なものも与えていた。基本的に勤務は月~金だったが週末手伝って欲しい時は時間外手当を支給してやって貰った。手当が入るので気持ちよく働いてくれていた。
 余談になるが日本へ帰国する時、お手伝いさんに離職証明、つまり日本人の我が家で働いていたことの証明をしてあげた。次の働き場所を探すのに有利になるからである。

 お手伝いさんには家の中のことだけでなく、長男が放課後クラブ活動で定時のバスで帰宅できない場合、大きな道のバス停まで長男を出迎えに行ってくれた。
通常は朝夕、送迎のスクールバスがマンションまで来てくれるのだが定時スクールバス以外は各マンションに送り届けてくれない。よってバスが止まるところで下車し、徒歩で帰宅することになる。我が家の場合、5-6分のところがスクールバスのバス停だったが安全確保のため、クラブのある日はお手伝いさんが出迎え行ってくれた。
 しかし、その出迎えが結構大変なのだ。バンコクはほぼ終日交通渋滞で運転時間が読めない。いつバスが到着する分からないので待ちぼうけが当たり前である。
特にバンコク市内は車の排ガスで目や喉が痛くなった。また朝夕でも暑い。交通事情によっては1時間遅れは日常茶飯事である。そんな時でも彼女は我慢強く待っていてくれ有難かった。

 タイは暑いが風があるので体感は涼しく感じる。特に日蔭は。そんな訳で窓を開けると換気が出来気持ちが良いのだが排ガスのカーボンの煤で黒くなるので開けられない。エアコンが必需である。
 エアコンだがタイ人はガンガンに冷やすのには閉口する。我々には寒いのでカーデガンなどを羽織る人も多い。昔はスクールバスはエアコンが付いていなかったらしいが我々がいた頃には全車エアコン付きになっていた。日常生活にはエアコンがないとやれない。 ー続くー
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「海外の旅」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事