偽史倭人伝 ~ Carnea Historia

march madness の次が April Foolなんて小粋ぢゃないか。

山里ドラマの大コケはテラスハウスの呪いかもしれない

2023年05月14日 21時01分19秒 | ◎ツッコミ思案neo
先週の「全力脱力タイムズ」は
例によってまた、編集でつなぎあわせてフェイク発言を作り、ゲストが慌ててみせるという、もはや定番となった流れだったのだが、それを見ていたゲスト山里亮太の
「言わされてるだけ!」
という連呼を聴いていてたら気分が悪くなってしまった。
「テラスハウス」を思い出してしまったのだ。

テラハのあの一件では直接誹謗中傷コメントを書きこんだ末端のものばかりが非難されたが、それぱ裁きとしてはフェアではないと思う。

テラハといえば、映画版まで製作されヒットした原動力にはネットでの盛り上がりがあった。
 この時点で誹謗中傷の類はあったはずで、それでも番組は以降もネットの盛り上がりに頼ってきた。
 というかむしろいかにネットでバズったか自慢していたふしもある。つまりあの番組はフジテレビという在京キー局による炎上商法だったともいえる。

 そうした中で一タレントである山里亮太はコマにすぎないという人もいるかもしれないが、いかなる有事においても「警報ボタン」は最初に気づいた人が押すというのがまっとうな社会の習わしだ。
 かれは恐らくどんな出演者、スタッフよりもことのヤバさに早くから気付けていたはずなのだ。というのも彼は今年の3月まで続いていたTBSラジオ「たまむすび」の火曜レギュラーをつとめていたが、その火曜日にはアメリカ在住の映画評論家・町山智浩氏によるアメリカのエンタメやカルチャーを紹介するコーナーがあり、その中でアメリカにおけるリアリティショーの出演者に自殺者が多いと聞かされていた。その際に山里は囁くような小声ではあつたが確かに
「テラスハウスはだいじょうぶかなぁ」
と反応していたのだ(2015年08月25日放送分)。

 編集など番組の人工的な演出によって意図的に作られた嫌われ者が出演後に地元に帰っても嫌われ者になってしまい悲しい末路をたどるという…。

 山里はテラスハウスにおいては警報ボタンどころか嫌われ者を作る演出をアシストしているようにもみえた。日常の場ではふつうはつっこみとか批判はなにかしら落ち度のあるものに対しておこなうものだが、山里はそうではない人、たとえば「意識高い系」のようなキャラクターをディスるという発明をした。これは卓球ディスり、名古屋ディスりのタモリイズムの継承という日本テレビ界の悪しき流れかもしれない。
 この意識高い系ディスりはすっかり番組に浸透したようで番組終了間際のゲスト、永野芽郁はその日にはじめて見た「社長」と呼ばれる新キャラクターについて
「社長がダメになっていくところが見たい」
と笑顔で言った。

ある条件のもとでは、ごくふつうの人たちが残虐性を発揮してしまうという有名な社会実験のことを思い出してぞっとした。そうした実験は実験室の中だけだが、テラスハウスは、ネットを介して大規模に「ノリ」というかたちで残虐性は感染したのかもしれない。

 画面の中の「ディスりマスター様」が、ここはなんでもありな場所なんだよと「基準」を提示しているんだから全国の下々たちはそりゃそれに続きますというハナシだ。そしてシロウトの模倣は質が低くなるのも当然だ。というかそもそもの山里の「プロのディスり」は殴られてもあまり痛くない絶妙なものかというとそんなこともなさそうだ。
 テラスハウスのファンだという、おのののかは、自分もテラハに参加したいと思ったこともあったが
「スタジオからのトークが怖すぎて、私なんか山里さんにいちはやく目をつけられて、超悪口言われそう。」
なのでムリだと発言している。
 プロである芸能人の基準をもってしても山里のつっこみは「悪口」なのだ。そしてそれがネット民にとっても基準になるのだ。
 この発言はTBSラジオのアクションという番組の中で、辛酸なめ子氏や番組MCの幸坂理加氏、そしてやはり番組MCの武田砂鉄らと行われたテラハ好きの座談会でのこと。
 この中で幸坂氏が山里氏のつっこみにゾッとした例として
「喜び上手、ほめ上手で、Theモテる女の子みたいに見えてた子に対して山里さんは、そういうコのわたしピンク好きなのって発言も、こういうの男は好きだろ?ってみえたと言っていたんです」
などと紹介していた。
 つまりよくあるような、「うまくはいえないけどこの子なんかいや」というのを言語化してくれた…パターンではなく、新たにツッコミシロを作りだしているのだ。つまり新たに悪者、嫌われ者のたまごを作りだしているともいえる。(ある意味天才発明家だ。)

 そもそもこのギョーカイ人座談会もいかがなものかと。テラハはいわゆるギョーカイ人気が高い番組だったらしいのだが、ファンを公言していた著名人のひとりであった作家の朝井リョウ氏は、事件後に、自身のラジオ番組と週刊誌の連載の中で「自分にも責任の一端はある」と反省の弁を述べた。
 有名人が「祭り」に参加すればシンプルに盛り上げに加担するし、ある意味「お墨付き」を与えることにもなる。朝井リョウに責任の一端があるとしたら、山里亮太が完全無罪なわけはないと思うのだが、彼のズル賢いところは事件明けに出演した番組の冒頭でテラハの話題にふれ、親御さんから連絡をいただいたと発言していた。その内容がどういうものだったかは言わなかったが自分も被害者であり、親御さんもわかってくださっているのだと主張しているように見えた。

 ギョーカイ人気というものが実は危険な方向に影響力があると思えるのは、先述のおのののか氏もふくめ多くのファンが番組の魅力として挙げるのがスタジオトーク、特にYou氏や山里氏のつっこみだと言っていること。
 つまりおの氏は自分なら耐えられないと言っていた山里氏の「悪口」も、他人が浴びせられているのは楽しいと公言してしまっているようものだ。

 結果としてテラスハウスは潜在的に或いは顕在的にギョーカイ人御用達のオフィシャル残酷ショーであり、ある条件下では市井の人々の残虐性を引き出してしまうという社会実験だったのではないか。

朝井リョウ氏はそんなことを言ってはみたものの、その後なにかしらの責任の取り方を示しているはなしは聞こえてこない。結果として発言はただの「ガス抜き」となってしまった。あるいはそもそも「ガス抜き」を狙ったものだったのかもしれない。

 ガス抜きといえば、当のフジテレビのミタパンこと三田友梨佳アナは夜のニュース番組の中で「テラスハウス」の打ち切りを受けて
「番組の打ち切りで終わらせるのではなくて、何があったのか、防ぐことはできなかったのか、●●さんがどれだけ辛い思いをされていたのか、しっかりと受け止め、検証していくことが私達がすべきことだとそう思います」
などと発言していたが、その後のフジテレビの逃げの一手の姿勢を見れば、これこそあきらかにガス抜き狙いだったことがわかる。

 結局のところ東京五輪のときの古代ギリシャみたいなドレスをまとい広告塔となった池江璃花子さんもそうだけど「コマ」とみなされるものは、クレームは受け付けないのにパワーだけは発揮するという恐ろしい仕掛けがそこにはある。
 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という言葉がある。これはやんごとなき人はそれに相応しい義務もあるということなんだけど、その理屈でいえば影響力、動員力を発揮した時点でコマはコマでは終われないはずなのだ。
 テラスハウスのテーマ曲にも使われていたテイラー・スウィフトさんはまさにノブレス・オブリージュを体現しているアイコンといえるけど、なんとも皮肉なはなしだ。
 
 山里亮太はその後もサクセス街道驀進中で、自身をモデルにしたドラマがこけるなどはおそらくは「誤差」の範囲で、そもそも本人たちは精神的にも物理的にもダメージはないだろうし、逆に好感度の高い水卜アナなどが絶賛した発言などプラス要素だけがカウントされて、ギョーカイ人気は高かったなどというポジションにおちつき、エンタメ史にその名を刻んでしまうのかもしれない。








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