時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

韓国、ロシアはどこへ行く?

2022年03月08日 | 時のつれづれ・弥生 

多摩爺の「時のつれづれ(弥生の20)」
韓国、ロシアはどこへ行く?(韓国大統領選挙と、ロシアのウクライナ侵略戦争)

保守と革新ががっぷり四つに組んだ、韓国の大統領選挙が・・・ 大詰めを迎えている。
隣国とはいえ他国のことなので、どうでも良いと言ってしまえば、それまでだが、
少し前なら、ワイドショーに韓国人の大学教授などを呼んで、報道されていたはずなのに、
全く報道がないわけじゃないものの、ウクライナとコロナで・・・ すっかり影が薄くなっている。

保守系候補が勝てば、少しは日韓関係にも改善が期待できるのだが、
竹島問題にしろ、慰安婦問題にしろ、徴用工問題にしろ、
韓国のトップはいつも、我が国は歴史問題が直視できないと揶揄するが、
事実は全く逆で、思い込みが激しく、熱くなり易い国民性ゆえに、
政権が変わったところで・・・ 戦後から70年以上もかけて植え付けてきた反日教育により、
国民の意識が、いきなり変わることは期待できないだろう。

私はフェリーによって半島との交流がある、本州の最西端の町で育ったこともあって、
生活圏内に在日の方が居ることは普通であって・・・ 違和感は、さほど持っていなかった。

小学校は新興の住宅街にあったことから、在日の方々は比較的に少なかったが、
旧市街を含む4つの小学校から集ってくる中学校は、一つの学年で13クラスもあったマンモス校で、
どのクラスにも2~3人程度は、日本語を話して、日本人と同じ氏名を名乗りながら、
もう一つの名前を持つ在日の生徒がいて・・・ 普通に学んでいた。

荒れた学校ではなかったが、昭和40年代には・・・ 貧しさ故からのトラブルが少なからずあって、
年に2~3人は鑑別所や少年院に送致されていて、そういった生徒のなかに在日の生徒がいると、
とっても恥ずかしいことなんだが・・・ 陰口をたたいたこともあった。
たぶん、子供の目には見えない、親から聞きかじった、辛すぎる闇があったんだと思う。

もう半世紀以上も昔のことになってしまい、私たちの世代が話さなければ、
いまの現役世代は知ることがない、偏見や差別が・・・ かつて、この国にも普通にあったのである。

だからといって・・・ 彼ら彼女らとギクシャクしているような学校ではなかったし、
そんなことを、いちいち気にしても仕方がないといった風潮もあったように記憶している。

ただ一つだけ、強烈に記憶に残っているのは、卒業と高校入試を間近に控えた3年生の1月、
クラスのやんちゃな男子が、半島の子供たちが通う学校の生徒を、繁華街で殴ってしまい、
それに腹を立てた半島の子供たちが通う学校の生徒たちが、数人で校門の付近で待ち伏せを始めて、
警察が駆けつけたことがあって、このことだけは未だに忘れることができない。

それが原因で、行方不明になったクラスの同級生は、海水浴場の海の家に雲隠れしていて、
なん日か後に発見され、事なきを得たものの、
これは、正直言って、ショックというより、彼らの行動力と、団結力にビビりまくっていた。

仲が良かった在日の生徒のなかには、国立の大阪大学に進んだ優秀な同級生もいた。
社会人になったある日、昼メシを食べに行こうと思って、会社を出たところ、
ランニング1枚で、真っ黒になって段ボールを軽トラに積んでいる彼とバッタリ会ったときは、
本当にビックリしたが・・・ 彼はニッコリ笑いながら、
大学を卒業した後、親の稼業を継いで廃品回収業をやってると応えてくれた。

また、会社の飲み会の後、先輩に誘われて入ったスナックで、話し相手をしてくれた色白の超美人は、
中学校時代に「可愛いな。」と思っていた・・・ 隣のクラスの女子だった。
その後、職場の飲み会などで、なんどか通うようになったとき、
ある日突然、先輩から「あの娘、在日だから・・・ 」と耳打ちされ、
一瞬のうちに・・・ さまざまな思いと、複雑な感情が、脳裏を駆け巡ったことを思い出す。

中学校時代は、みんな仲良くしていて、なんとも思ってなかったが、
大人になって再会した、彼や彼女たちは、なんて表現したら良いのか分らないが、
けっして光が当たることがない、社会の片隅で裏方の仕事をやってるにも拘わらず、とっても眩くて、
愚痴一つこぼさないで、額に汗する健気さに・・・ 気恥ずかしさがこみあげてきて、
「あいつら、オレより大人だな。」と思った日のことが忘れられない。

私の知ってる在日の人々は、そういった人々が多かったが、
だからと言って、国としての韓国や北朝鮮が、これまで言ってきたこと、やってきたことに、
問題がなかったとは・・・ 思っていない。

人が良いから、国は悪くないといった考え方を認めてしまったら、
ウクライナで殺戮を繰り返すロシアも・・・ 認めざる得なくなってしまう。

本を正せば・・・ 権限を行使するトップや、法律を作る議員を選んだのは国民である。
よって、間接的かもしれないが、国民に責任がないとは思わない。
いくら思想教育を受けたからと言っても、物事の善悪までわからなくなってしまったら、
それこそ、なんでもありになってしまうだろう。

この国の名門、慶應義塾の創始者であって、思想家でもある福沢諭吉は、
新聞の社説に寄稿した「脱亜論」で・・・ 次のように述べている。

「 左(さ)れば、斯(かか)る国人に対して如何なる約束を結ぶも、

  背信違約は彼等の持前(もちまえ)にして、毫(ごう)も意に介することなし。 」

1万円札のオジサンは、背信違約こそが朝鮮半島の人々の特徴であり、
約束が約束として機能しないと言っている。


100年以上も前のこととはいえ、そこまで言ってしまったら、明らかにヘイトであって、
いまの世の中で通用するものではないが・・・ 「そうだよな。」と思うことがあるのも否定できず、
国民の考えと、トップの考えは別物だという声もあるが、こういった考えを認めてしまえば、
選挙で選んだ責任の放棄であり、しいては人としての善悪を放棄することにも繋がりかねない。

さて明日は、これからの5年間を託す・・・ 韓国大統領選挙である。
だれが選ばれても、日韓関係が激変することはないと思うが、
その結果には、一番近い隣人だけに・・・ 注目だけは、しなきゃならないだろう。

いま、韓国の人々や、ロシアの人々の良識が問われている。
小さな声からさざ波を起こし、大波へと繋げ・・・ 変わること、変えることができるか否か、
自由が認められながらも、他国への誹謗中傷を利権とし、ビジネスにしてしまった韓国と、
自由を封鎖し、正しい情報を都合良くねじ曲げようとするロシアで・・・ 良識が問われている。

「心が変われば、行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、運命が変わる。」という言葉がある。

私は両国の国民に対して・・・ 他意があるわけではないし、
ヘイトクライムなどは、もってのほかであり、ふざけた行動だとも思っているが、
外国で声を上げ、世界を巻き込んだ行動を拡大することは、素晴らしいことだと思うものの、
その国に住む人々が、錆び付いてしまった頭を切り替えようとせず、進化することを求めなければ、
国は成長しないだけじゃなく・・・ 劣化の一途を辿ってしまうだろう。

韓国の国民は、だれを大統領に選ぶのだろうか?
そして、ロシアの国民は、瓦礫の山と化したウクライナを、この先どうするつもりなんだろうか?
負のスパイラルに陥ってることに気づいてほしいし、脱却してほしいと願ってやまない。

ロシアが仕掛けたウクライナ侵略戦争は、もはや元に戻れなくなってしまった。
このまま行くと・・・ 勝敗に関係なく、
復旧や復興をするとすれば、コストの総てはロシア国民が負担することになるが、
デフォルト(経済破綻)が目の前にあり、おそらく復旧や復興をするつもりなどないのだろう。

さて、どうするつもりだ?
韓国とロシアに暮らす人々の良識が・・・ いま問われている。


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4 コメント

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Unknown (uncle-ken2055)
2022-03-08 10:18:18
けんすけ

真っ当なご意見と思います
素晴らしいご意見に感銘しました
私の考えと同じで嬉しく拝見いたしました。
Unknown (wada67miho。)
2022-03-08 10:21:14
多摩爺さま

僕は今でこそ関西ですが、生まれは小倉。両親は山口県出身です。お書きになっている韓国朝鮮人に対する差別よく分かります。日本人の根っ子には今でもあるのでは。
記者時代でも「実は○○は在日」とか、若い記者でも言っているのを聞いて、嫌な気がしましたもの。
今回のロシアの侵略でウクライナ人の恨みは永遠に消えないでしょう。同じように、34年間日本に併合されて、名前まで奪われた韓国朝鮮人の恨みも。
それを日本の保守派の皆さんのように65年の日韓条約で解決済みのみでは"解決"しないのでは。それにあの条約はパクチョンヒ独裁政権と結んだもので、国民には還元されていないし。
僕も解決済みだとは思いますが、ある程度は仕方ないなと、大らかに見ています。
まあどこも隣国同士は仲が悪いもんです(笑)。
Unknown (多摩爺)
2022-03-08 11:10:58
けんすけさん、コメントを頂戴し恐縮です。

私が育った町が港町だったので、特別だったのかもしれませんが、
昭和30年代40年代は、在日の方々や、同和の方々が住む地域への偏見があったり、
繁華街の駅前では傷痍軍人がアコーデオンを弾いて物乞いをしていたり、
お隣の北九州から、縄張りを広げてきた暴力団の組事務所に出入りする若者も多く居て、凄い時代だったと思います。
50年の月日が町をすっかり変えてしまいましたが、心の中にある記憶は消えることがないようです。
Unknown (多摩爺)
2022-03-08 11:26:38
wada67mihoさん、コメントを頂戴し恐縮です。

長くなるので書くのを止めましたが、中学校1年生の夏休みを終えて、登校したら私の前の席と後ろの席の男子が居なくなっていました。
先生は転校したとは言わず、当分出てこないから前に詰めて座るようにと言ってましたが、
彼らと同じ地域に住んでる生徒の情報によると、前の子は万引きの常習犯で、夏休みに複数回捕まったらしく鑑別所へ送られ、
後ろの子は、兄弟げんかのもつれから兄の背中を刺してしまい少年院に送られたようです。
万引きの子は同和地域に住み、障害を起こした子は在日で親は組関係者でした。
私は傷害事件を起こした子とは、夏休みの前に些細なことで言い合いになっていたので、背筋が凍るような思いをしました。
差別はもちろんダメですが・・・ これが現実なんです。
嘘のような話が現実にあったんですから、昭和30年代40年代(戦後10年から20年)は、思い起こしても凄い時代でした。
その時と比べたら・・・ いまは本当に平和ですが、平和を維持するためには、物騒な議論もしなきゃならないようです。

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