武弘・Takehiroの部屋

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革命と不倫

2024年05月08日 02時49分02秒 | 人生

<以下の記事を再録します。>

ある方とブログで会話をしていたら、私が何かの拍子で「革命と不倫は似ている」と言ってしまった。革命と不倫の愛は全く別次元のものだが、心理的な側面は非常によく似ているという意味である。 世界には理想に燃えて行動している革命家も少なからずいるだろう。その人たちに対して失礼な言い方をしたのであれば許してもらいたいが、それはそれとして、革命がなぜ不倫に似ているかを説明したい。

革命も不倫の愛も、既成の社会秩序から見れば「反社会的行動」なのである。それがどんなに純粋で崇高なものであろうとも、両方とも社会秩序に違反し背くものである。したがって、既存の権力や体制から厳しく糾弾されるだろう。 ところが、革命も不倫も弾圧されればされるほど、激しく燃え上がるものである。それは両方とも強い情念によって支えられているからである。
私も昔(学生の頃)、いっぱしの革命家を気取って過激な学生運動に身を投じたことがある。すると、心理的にハラハラドキドキの連続だった。自分では身を犠牲にしてまでも正義を貫くという強い決意がありながらも、官憲の弾圧や妨害は凄まじいものがあった。まだ“下っ端”だったから検挙・逮捕されることはなかったが、デモや抗議行動などでスリルに満ちた日々を送っていたのである。
一方、幸か不幸か不倫の愛というのはしたことがないが、関係者の話などを伝え聞くと、これもハラハラドキドキ、スリルの連続らしい。いつばれる(露見する)かどうか不安な気持を抱えながら日々を送っているのである。それはそうだろう。やってはならない人倫に背くことをやっているからだ。しかし、そうした中で人間の情念は妖しく燃え上がっていくようだ。
正義の戦いである革命と、男女の不倫の愛は余りにもかけ離れているが、人間の情念の観点から見ると非常に共通するものがある。どちらも“秘密裏”に事をなそうとしているのだ。革命運動には「秘密結社」というものが付き物である。 
私も若い頃、表向きは「○○文学研究会」とか「××運動発表会」と装った過激派の集まりに参加したが、機関紙に文章を載せる時は全て偽名で発表するのである。そうした行動がなんともスリルに満ちているのだ。今から見れば、何だ“革命ごっこ”かと思ってしまうが、その当時は真剣そのものであった。
同様に、不倫の愛もそうだろう。男女二人が逢瀬を重ねる時、ホテルなどに宿泊する場合は偽名を使うに決まっている。革命家と不倫の男女の「偽名」はまさに共通しているのだ。ご承知の人は当然いるが、ロシア革命で有名なレーニン、スターリン、トロツキーなどは全て本名ではなく偽名なのだ。余談だが、日本でも幕末の動乱期には、革命の志士・坂本龍馬は才谷梅太郎などの偽名を使っていた。日本共産党のかつての革命家たちも数多くが偽名を使っている。

このように、革命家と不倫の男女は共通する点が多く、世を忍びながら明日の栄光と勝利を目指しているのだ。しかし、世の中は厳しい。当たり前である。既存の社会秩序や体制を壊そうとする者は必ず弾圧され、命を落とすことがしばしばある。同様に、道ならぬ恋に逢瀬を重ねるようであれば、それは社会道徳に反するものであり厳しく糾弾されるだろう。
革命も不倫も要は“秘め事”である。露見すれば厳しく罰せられるからだ。しかし、秘め事のロマンというのはなんとも魅惑的なのだ。そこに人間の情念が渦巻く。危なければ危ないほどスリルに満ちたものになる。まさにハラハラドキドキの世界なのである。私はなにも不倫を賛美しているわけでは毛頭ないが、革命運動との心理的な共通性を述べたまでである。
最後に、ブログでもそうだと言いたい。大多数の人が本名を明らかにせず、ハンドルネームという「別名」を使って活躍している。それはたいへん結構なことだが、別名とは要するに偽名と同じである。革命家や不倫の男女と同様のものだ。だからロマンもありスリルもあるのだろう。大いに楽しんでもらいたい。(2009年4月1日)


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