ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

ウォーナー伝説 (2) 「ウォーナーの謎のリスト」 というヘタレ映画

2018-05-05 03:44:16 | 書評

ウォーナー伝説 (2) 

「ウォーナーの謎のリスト」 というヘタレ映画

 

つい先日地元鎌倉を歩いていると、以下のようなポスターを見つけた。

 

 

 「ウォーナーの謎のリスト」 というドキュメンタリー映画の上映会の案内ポスターなのだが、当の映画監督の講演つきで500円だそうだ。金高謙二という監督は、新藤兼人監督の助監督をしていた人物だそうだ。師匠と同じく社会派意識が高いようで、社会派のドキュメンタリーを得意としているようである。

故新藤兼人監督は典型的な日本共産党シンパで、“反戦平和” のプロパガンダ的映画をいくつも作っていたが、この弟子も同じ道を歩んでいるようだ。

 当のドキュメンタリー映画のポスターは以下のものである。

 史実に反した “都市伝説” の “既成事実化” の試みがこのようにして繰り返され、大衆の頭脳にさらに浸透していくのであろう。“反戦” “平和” のためならば、史実に反した “でっちあげ” も、むしろ大いに利用していこうと思っているフシがある。

「ウォーナーリスト」 なるものを スピルバーグの 「シンドラーのリスト」 にひっかけて “反戦平和” のプロパガンダに使ってやろうという意図が透けて見える。

ウォーナーという人間を、大戦下に “かけがえのないもの” を少しでも救おうとした“恩人” “日本人好みのヒーロー” に祀り上げ、日本人に対するGHQの染脳を永遠化しようとしているように思える。

 

(実はこの記事はここまで書いて、あとは映画を観てから手直しして書き足そうと思い、ほぼ1週間棚上げにしてあった。しかし、実際に映画を観ると、以上のわたしの “予断” はことごとく的中したことがわかったので、ここまではそのまま訂正も変更もなしで、以下に書き足して完成した)

 

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想像だけでものを言うのはまずい。どれどれ、その映画を実際に観てみよう!

ということで、2018年5月3日、GWの真っただ中、その映画上映会に足を運んだ。

 

上映前にパンフレットを購入したが、どうやらわたしが1番のようで他には誰もいなかった。平積みのパンフレットのあるそのテーブルの横に監督らしき人物がデンと座って、サインペンを手に待ちかまえているのだ。パンフレットを購入すると自動的に “監督サイン入り” になる段取りらしく、断りようもなくサインされてしまった。 

 

 

観終わって、吉田守男教授の説を超えるものがほとんどない

はっきり言って、“ウォーナー伝説” に関しては、予想を超えるものや重要な新事実は何もない映画であった。歴史学者吉田守男教授の、史実に基づいた “ウォーナー伝説=プロパガンダ” という主張をくつがえすに足るものは何もなかった。これはある程度は予想していたとはいえ、がっかりである。

「ウォーナーの謎のリスト」 というふうに “謎” をつけて気を引こうとしているようだが、“ウォーナー伝説” が “でっちあげ” であることは明白なのである。 “謎” なのは、むしろこうしたすでに決着のついている話を蒸し返している “動機の怪しさ” である。表向きは “真実の追究” であるが、実際は “政治的利用” とも思えてしまう。

“ウォーナー伝説” が事実であったことの証明としては明らかに失敗しているので“謎の” を付けてお茶を濁しているかのようだ。

 

吉田守男教授の 「日本の古都はなぜ空襲を免れたのか」 の1冊の威力は途方もないものであるとあらためて思う。

四半世紀経って、ウォーナー伝説を蒸し返す映画が出てきても、ビクともしないのだ。無数の証拠に裏づけられた説は錆びることがなく、いつまでも鋭い切れ味を保っている。

“恩人ウォーナー” の “美談” が GHQによる “でっちあげのワナ” だったことを丹念に証明して、“ウォーナー伝説” に決着をつけているのだ。

そのせいなのかどうかはわからないが、“ウォーナー伝説”の蒸し返しのこの映画の中にも、パンフレットの中にも “吉田守男” の名前は一切出てこない。この監督にとっては、この歴史学の教授の本はどうも具合が悪いらしく、映画の視聴者にはあまり読んで欲しくないものかもしれない。しかし、“ウォーナー伝説” をテーマにするいじょう、彼の実証的な調査によって明らかになった多くの事実は避けては通れないはずである。

たとえば、京都が空襲されなかったのは、京都が原爆投下予定都市であったためという事実は映画中でも言及されるが、それが吉田守男教授の地道な調査によって明らかになったことに一切言及がないのだが、先人の貴重な業績を利用しながらアンフェアな印象が拭えない。

京都があまりにも優先順位が高すぎて空襲されなかったのに対し、奈良と鎌倉は軍施設もなく爆撃目標として優先順位が低かったために空襲の順番が回ってくる前に終戦になったことを資料に基づいて明らかにしたのも吉田守男教授のこの本である。

この監督は吉田守男氏の “ウォーナー恩人説=GHQプロパガンダ” 説を受け入れられないようだが、吉田教授の業績をさんざん利用しながらほとんど敬意を払っていないように思える。 

 

“ウォーナー伝説” の徒労な蒸し返し

しかし、この映画にはごくわずかな期待もあったので、これには多少ガッカリであった。すでに明らかになっている事実をくつがえすのでなければ、“ウォーナーの美談” を蒸し返すことにどれだけの意味があるのだろうか。

31人もの人間へのインタビューにどれだけの意味があるのか疑問に思わざるを得なかった。

せっかくインタビューしたんだから使おうと思うのかもしれないが、インタビューしてみて、重要でないもの、決定的な証言を含まないものは切り捨てる英断が必要ではなかろうか。わざわざ海外まで出かけて行ってインタビューしたからといって何度も同じ人間の主観的な駄弁を聞かされるのには閉口した。そもそもすでに “ウォーナー恩人説” に染脳されているような人たちにインタビューしてどれだけの意味があるのか?

証言者が多ければ多いほど “ウォーナー恩人説” の真実性が高まると思っているようであるが、全然そうなっていないのは、元々無理なことをめざしているからである。

 

たくさんの証言を積み重ねながらも、けっきょく 「かもしれない」 とか 「とも考えられる」 と言った煮え切らない運びでいつまでも引っ張られるのだ。実際、証拠のかけらもない個人的な意見や、印象や、他者からの伝聞といったものが多く、はっきりとした客観的な事実が一向に浮かび上がってこないのだ。

謝礼をもらう以上はインタビュアーを喜ばすようなことを言ってあげなくちゃという動機が見え隠れする証言者が一人や二人ではないのだ。とにかく、ダラダラと2時間近い映画で、隣の席の人は何度か眠っていたが、無理もない。場内は8割がた埋まっていたが、その多くは高齢者である。彼らのほとんどは “ウォーナー伝説” を頭から信じて生きてきた人々と思われる。そしてこの日は “ウォーナーさんの美談” がいかに映画化されたかを楽しみに来たにちがいない。

 

 

漱石の弟子だったという エリセーエフ というロシア人の話が出てくる。こういう人物がいたということじたいはたしかに面白い。だが、そこまでだ。

日本文学に通暁していたこの学者が戦時中にマッカーサー将軍に進言してくれた “おかげで” 東京の神保町は爆撃されなかったという展開になると、ちょっと待ってくれと言いたくなるのはわたしだけであろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

地元では今でもそう言い伝えられているという “民間伝承” であり、しょせん “ウワサ”、今風にいえば “都市伝説” どまりの話にすぎないのだ。まともに扱う価値がどれだけあるのかすら疑わしいものである。外国人というだけで有り難がって特別視するのも日本人特有の傾向かもしれない。

けっきょく、何人インタビューしても、決定的な、建設的な証拠は何一つ出てこないのだ。出てくるわけがない。ただの “恩人伝説” なのだ。

 

しかし、証拠がなくてもナレーターは、「大いにあり得ることだ」 とか 「エリセーエフならそうしてもおかしくない」 などと言いながら視聴者を強引に引っ張っていこうとする。

ここでも “ウォーナー恩人説” と同様のパターンが繰り返される。これだけたくさんの “おかげさま伝説” を信じるひとたちがいるという事実があるいじょう、その “おかげさま” は事実に違いないという推論がなされてしまう。それらの “証言者の伝聞” に悪意やウソがなければ、その内容は真実に違いないという取材姿勢にホトホト呆れてしまう。

 しかし、この取材姿勢は監督のナイーブさに起因しているのでは決してない。そんな単純な人物ではない。“ウォーナー” や “エリセーエフ” を何とか再利用して “反戦平和のヒーロー” として使ってやろうという政治的な動機(魂胆)にすべて起因しているように思える。史実的に無理があっても、“反戦平和のヒーロー” を創出するためならかまわないと思っているフシがある。“平和カルト” の宣伝材料としての利用価値に目を付けたのであろう。

この監督はウォーナーだけしか知らなかったら映画にしようとは思わなかっただろう。同様にエリセーエフだけだったら映画にできるとは思わなかっただろう。どちらの “恩人説” もそれぞれまったく成立しないものなのである。

ウォーナーは歴史学者吉田氏によって “作り話” であるという決着がついているし、エリセーエフについては何の証拠もなく、神保町界隈の古書店の店主たちのあいだの噂があるだけなのだ。当然だろう。裏付ける証拠などかけらももないのだ。伝聞だけなのだ。

そこでこの監督は、別々では全然 “売れない” ウォーナーとエリセーエフの二人をうまく “抱き合わせ” にすれば “売れる” だろうと考えたのであろう。

そうして “日本の文化財を救った二人の外国人” として売りこもうとしたのである。それがこの 「ウォーナーの謎のリスト」 というヘタレ映画である。ポスターには思わせぶりにこう書いてある。 「日本を愛した男たちがいた。」 と。日本人には実に “心地よい響き” ではないか!

それぞれ何の証拠の無い話でも “抱き合わせ” にすれば、世間のひとは信用するだろうと考えたのかもしれない。

ドキュメンタリー映像作家というのはそういうものなのであろうか?

 

 映画のあと休憩を挟んで、金高監督による講演である。

 

講演では、鎌倉西口にあるウォーナー碑の写真と並んで 「文化は戦争に優先する」 というカギ括弧つきの活字の一文がスライドで大きく映され、金高監督は 「ウォーナーのこの言葉が石碑に刻まれています」 とマイクで観客に言った。 しかし、ウォーナーは、こんな言葉はどこにも言っていないのだ。石碑を建立した鎌倉の一般社団法人 鎌倉同人会が勝手につけたスローガンなのである。

 

 この監督が “史実” をまったく無視し、“反戦平和” という政治的お題目に引きずられた先入観で語るのは映画の中だけではないようだ。

 

 

“泥棒の論理” 

映画の中では、ウォーナーが大戦前に中国の敦煌で無断で壁画を剥がしてアメリカに持ち帰り、自分の大学の収蔵品にしてしまったという、よく知られた裏付けのある事実にも触れられた。

   右の仏像はウォーナーが大戦以前に敦煌から盗み出したもの。

 2か所の白っぽい四角の部分は、ウォーナーが剥がした跡。

 

 仏像も剥がした壁画もウォーナーの出身大学のハーバード大の美術館に今でも臆面もなく展示されている。

 文化財の盗掘や盗難は20世紀でも多かったが、身元の知られた考古学者が略奪していて、しかも本人は事実を認めながらも開き直っているウォーナーのような厚かましいケースは稀である。

  

金高監督はこれについて講演でもふたたび触れ、「当時はそうしたことは珍しくなく、岡倉天心も似たようなことをしていた」 と映画では語られていないことを言った。岡倉天心もやっていたのだから、ウォーナーの罪も帳消しになると言いたいのだろうか?どっちも “泥棒” ということになるだけだろう。

「ウォーナーだけがやっていたのでなく、当時はいろんなひとがやっていた」 とも言った。つまり、ウォーナーによる中国での “文化財の略奪” という犯罪行為を 「他の人もやっていた」 ということで “正当化” しようとしているのである。日本の文化財を空襲から守ったとされる “恩人ウォーナー” の “名誉” を守るために、この残念な “汚点” について、講演で何としてでも正当化したいらしいのだ。そのために持ち出した話なのだ。おそらく講演のたびに話しているのであろう。

“反戦平和のヒーロー” のしたことなら、文化財の略奪くらいご愛敬だと言わんばかりである。実際、考古学者ウォーナーを、映画「インディ・ジョーンズ」 の主人公になぞらえて “ヒーロー扱い” するありさまである。

さらには、「大英博物館なんか外国から盗んできたものばかりですからね」 とまで言う始末である。ということは、自分がウォーナーと同じ立場だったら、同じように盗んだだろうと言っているのに等しい

「自分だけじゃないさ、みんなやっていることさ」 とか、「放っておけばどうせ盗まれるか壊されるかするんだから、その前に自分が “救出” してやるのさ」 などと自己正当化しながら盗む人間であるということだ。

こうした “泥棒の論理” を公然と口にする人物の信頼性には大いに疑問が生じる。自分はそうするだろう、という個人的なケースだけでなく、文化財の略奪という犯罪行為を公然と正当化しようとし、是認している無責任さに気づいていない。「ウォーナーのした文化財の略奪は犯罪であり、間違っている」 とはっきり明言せず、うやむやにしている。表現者としての責任を自覚していない。

ワイロだって、セクハラだって、脱税だって、「自分だけじゃないさ、みんなやっていることさ」 と自己正当化しながらやるタイプの人間はいるものだ。正しいことなのか悪いことなのかよりも、まわりがやっているかどうかで決まるのだ。そういう人間は自分の良心で決めるのではない。作家的良心、表現者としての良心とは無縁の人である。

  

ウォーナー伝説 (1) 目の前にある “歴史偽造”

ウォーナー伝説 (2) 「ウォーナーの謎のリスト」 というヘタレ映画

ウォーナー伝説 (3) 心地よいプロパガンダ

“歴史偽造”の現場: ウォーナー博士の法要 & 追記: 事後報告

 

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10 コメント

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見方がかたよっていませんか? (フーミン)
2018-05-05 19:37:56
去年たまたま友人に誘われてこの映画を観ました。素晴らしい映画だ思いました。プログラムにサインしてもらいましたし、握手もしてもらいましたよ。えーと、ザウルスさんの意見はすごくかたよっていませんか。この映画はいろいろなことを明らかにしてくれてとても勉強になりました。ここの記事ではとても一面的な見方をしていると思います。
ウォーナー伝説がかりに事実でなかったとしてもいいじゃないですか。誰も困らないでしょ?誰にも迷惑かけていないと思いますよ。いろんな見方があっていいと思います。この監督さんはこの監督さんの言いたいことがあるんですから、それはそれで尊重すべきでは?
フーミン さま (ザウルス)
2018-05-05 20:35:38
握手してもらえてよかったですね。どんな監督にもファンはいるものです。
おっしゃるように 「この映画はいろいろなことを明らかにして」 います。しかし、いちばん大事な点は 日本の古都を空襲から救ったのはウォーナーだったという“ウォーナー伝説”“ウォーナー恩人説”が真実かどうかという点です。
この映画は “ウォーナー伝説” が真実だったことを明らかにしようしましたが、見事に失敗しているのです。エリセーエフや朝河貫一の話を持ってきて “ウォーナー伝説” をテコ入れしようとしましたが、成功していません。なぜならば、どちらの人間も “ウォーナー伝説” に直接関わっていないからです。

「誰も困らないでしょ?誰にも迷惑かけていないと思いますよ。」   とのことですが、軽々しくそんなことを言うものではありません。その主張は 「誰も困らないウソ、誰にも迷惑をかけないウソならかまわない」 と言うのと変わりません。ウソはウソというだけで “有害” です。必ずひとを誤らせることになります。言っている当人自身の精神も蝕みます。

“ウォーナー伝説” は作り話のウソだ、というこの記事の主張はこの伝説を信じてきた多くの人にとって “不快” に響くかもしれません。しかし、あなたは “客観的な真実” と “心地よいウソ” のどちらを選びますか?

わたしも 「いろんな意見があっていい」 と思います。しかし、間違いがあれば、互いに直していくことによって、より建設的な意見の交換になると思いませんか?大事な点についての誤りやウソを “尊重” するのが誠意ある態度でしょうか?
人格をうたがう (Unknown)
2018-05-06 12:27:58
ひとが一生懸命に作った作品を「ヘタレ映画」などと呼んでいいものでしょうか?人格を疑います。
人格 さま (ザウルス)
2018-05-06 12:44:06
ひとが作るものはすべて高貴な立派な動機によるものだとお考えでしょうか?
自分の利益や自分の名声のためという動機があることは言うまでもありませんが、政治的、宗教的、民族的な宣伝のために作られる作品は無数にあります。映画の場合、そうした作品はプロパガンダ映画と呼ばれます。プロパガンダ映画は “ヘタレ映画” ということです。
どうしてそう言えますか (Unknown)
2018-05-06 13:48:48
この映画がプロパガンダ映画だというのはザウルスさんがひとりで勝手に決めつけているだけでしょう?
人格 さま (ザウルス)
2018-05-06 14:08:12
この映画をプロパガンダ映画と呼ぶ根拠は記事の中で十分すぎるほど挙げています。

整理して言えば、民族主義的なプロパガンダと政治的プロパガンダの2つの面を持っています。より具体的には、日本人の選民思想、民族的ナルシシズムを利用して、反戦平和という政治的理念に誘導するためのプロパガンダ映画です。

GHQが占領統治を容易にするために使った “ウォーナー伝説”という作り話を映画化し、別の政治的目的のために再利用していると言えます。
作り話を事実と思わせようとしているという点で悪質です。ク○映画と言うべきところを抑えて、ヘタレ映画と呼んでいます。
Unknown (リストはでっち上げと最初は思っていたひとり)
2018-05-07 10:35:41
同じ会場で映画を見ておりました。

吉田氏にインタビューしなかったのは?と質問された方ではないかと思われます。亡くなられていたのでできなかった。そのお弟子さんに聞こうと思ったけども、断られたとおっしゃっていました。

このお弟子さんのお名前ってわかりますか? またどのような書籍や論文を書かれているかなど、ご存知でしたらおしえていただればと思いました。

また、お弟子さんがインタビューを受けなかった理由は、どんなことが考えられると思われるでしょうか? 
Unknown さま (ザウルス)
2018-05-07 12:09:52
歴史学者吉田守男氏が存命かどうかは大した問題ではありません。生きていなければ取材できないというだけのことです。
吉田氏の “弟子” がまったく同じテーマを研究しているとはかぎらないでしょうから、インタビューに応じなくてもなんら不思議は有りません。“弟子” と呼ばれることじたい不本意かもしれません。

問題は吉田氏の業績です。金高監督はこの映画の製作において、吉田氏の業績には多大な恩恵をこうむっていることは吉田氏の本を熟読している人間には明白です。

にもかかわらず、映画の中で名前すらも出さず、かなり資料的には詳細な映画のプログラムにも吉田氏の名前が見つからないのは意図的に隠しているとしか思えません。
「研究者だから名前は出す必要はない」 という説明はまったく説得力がありません。作家であれ研究者であれ、恩恵をこうむっていれば故人であっても研究者であっても何らかの謝意を表わすものです。

ふつうの人間であったらするのが常識のことをこの監督がしなかったのは、うっかりだからでも、忘恩だからでもなく、吉田氏の業績が自分の映画にとってはあまりにも不都合であったからではないかと想像されます。

この監督は自分の映画で “ウォーナーの美談” を “事実” として主張しています。しかし歴史学者吉田教授は20年以上前に “ウォーナーの美談” はGHQによる “作り話” であることを膨大な資料を元にj証明しているのです。
“ウソ” を “事実” と主張する人間は世の中の人々が真実を知ることを常に恐れるものです。吉田氏の名前を隅から隅まで隠したのはそのためです。

Unknown (通りすがり)
2018-05-07 15:43:06
ケチョンケチョンですね。ごくろうさま!
通りがかり さま (ザウルス)
2018-05-07 16:17:42
これでも抑えているんですけど。
職業的に嘘やまやかしを垂れ流す人間には、一般人に対してよりも厳しくなるのは仕方がないとは思いませんか?なぜって、ひとを騙して金を儲けながら、ちやほやされているんですからね。
ましてや、ドキュメンタリー映画監督ともなれば、“真実” を明らかにするのが仕事と世間では思われていませんか?そうならば、嘘やまやかしを垂れ流すのは “背信行為” ではないでしょうか?

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