今日はやたらまじめに書いてみます。
つい数年前まで、私は本当にいろいろなものに囚われてました。
俗の糸とでも言うのでしょうか、言い方を変えれば、どこかへ落ちてしまわないように施された安全ネットに。
私は元来臆病な人間なので、それはもう「このネットから落ちたら終わりだ!」と思いこんでいたんです。
あの時はまだ糸の中のことしか知らなくて、たまに糸の出自を疑問に思うことがあっても、それを口に出したりはしませんでした。一体だれが作ったのか? どこから来ているのか、この糸はホンモノなのか・・・
ちらりと頭によぎったとしても、それを深く考えようとはしませんでした。
ところが、ある仕事を辞めたことで私はネットから落ちました。
最初はもうパニックです。
どれだけ泣いたかわからないし、精神的にも肉体的にも弱っていたので、今ではあのころの事を思い出そうと思っても、正直、記憶がほとんどありません。
しかし幸いなことに、ノートにメモをたくさん残していたので、その時の凝縮された思考だけは、今でも手元にあります。
なぜか私はびーびー泣きながらもペンをとり、のたうちまわりながらも、この苦しみの時期には終わりがあることを知っていました。
これは不思議と言われるかもしれませんが、私の中では必然です。
私の脳が知っているのではなく、遺伝子にでも刻み込まれたかのようなあたりまえの予感でした。
さなぎからかえった蝶が、誰に教えられなくてもすぐに花に向かえるように、理由を必要とせず、ただ分かっていました。
その後、現在に至るまで、私は少しずつ、少しずつ、力を取り戻します。
これにはものすごい時間を必要としました。
大丈夫だと思えるまでにゆうに一年はかかった気がします。
今ではすっかり、以前よりも自由に、そしてタフになることができました。
落ちてしまわなければきっと気付くことができなかったでしょう。
ネットからははずれても、ぜんぜん大丈夫!
狭いのは人のあいだで、私が思うよりずっと、この世は懐が広かった。
この発見をしてからというもの、まさに生まれ変わったように、私ははっきりと自分の意思を持つことができました。
私は、私の中のものにとくべつ、敏感になりました。
そしてこれまで、言葉につなげることができなかったものが輪郭を現し、それを試行錯誤しながらも、すくい上げることができるようになった。
まだ、とりこぼしてしまったり、形をくずしてしまうことがほとんどですが、それでもそうしたいと思っていることが、しようと思えばできる自分が、最高に嬉しかったんです。
誰のせいにもせずに、生きていくということはとてもシビアですが、それは同時に自分次第で、どうにでもなるということでもあります。
それって最高に素敵なことだと思いませんか?
私はそう思っています。
今は、先が見えないだとか、何が起こるかわからないと言われますがそれは本来、当たり前なことなのではないでしょうか。
先が見えないことと、悪いことをイコールでつなげるのはおかしい、それにとてももったいない。
確かに不安はあります。けれど、数秒先が蛍光灯で照らされてると安心することの方が、なにかがおかしいし、こわい。
それでいいのかと問いたくなります。
自分ではダメだと思っていても、やってみるとけっこうどうにかなるものです。
例え失敗しても、学習すればいいだけのこと。
重要なのは意思。
意思を持つ覚悟ができれば、大丈夫だと私は信じています。
それが今のわたし。
つい数年前まで、私は本当にいろいろなものに囚われてました。
俗の糸とでも言うのでしょうか、言い方を変えれば、どこかへ落ちてしまわないように施された安全ネットに。
私は元来臆病な人間なので、それはもう「このネットから落ちたら終わりだ!」と思いこんでいたんです。
あの時はまだ糸の中のことしか知らなくて、たまに糸の出自を疑問に思うことがあっても、それを口に出したりはしませんでした。一体だれが作ったのか? どこから来ているのか、この糸はホンモノなのか・・・
ちらりと頭によぎったとしても、それを深く考えようとはしませんでした。
ところが、ある仕事を辞めたことで私はネットから落ちました。
最初はもうパニックです。
どれだけ泣いたかわからないし、精神的にも肉体的にも弱っていたので、今ではあのころの事を思い出そうと思っても、正直、記憶がほとんどありません。
しかし幸いなことに、ノートにメモをたくさん残していたので、その時の凝縮された思考だけは、今でも手元にあります。
なぜか私はびーびー泣きながらもペンをとり、のたうちまわりながらも、この苦しみの時期には終わりがあることを知っていました。
これは不思議と言われるかもしれませんが、私の中では必然です。
私の脳が知っているのではなく、遺伝子にでも刻み込まれたかのようなあたりまえの予感でした。
さなぎからかえった蝶が、誰に教えられなくてもすぐに花に向かえるように、理由を必要とせず、ただ分かっていました。
その後、現在に至るまで、私は少しずつ、少しずつ、力を取り戻します。
これにはものすごい時間を必要としました。
大丈夫だと思えるまでにゆうに一年はかかった気がします。
今ではすっかり、以前よりも自由に、そしてタフになることができました。
落ちてしまわなければきっと気付くことができなかったでしょう。
ネットからははずれても、ぜんぜん大丈夫!
狭いのは人のあいだで、私が思うよりずっと、この世は懐が広かった。
この発見をしてからというもの、まさに生まれ変わったように、私ははっきりと自分の意思を持つことができました。
私は、私の中のものにとくべつ、敏感になりました。
そしてこれまで、言葉につなげることができなかったものが輪郭を現し、それを試行錯誤しながらも、すくい上げることができるようになった。
まだ、とりこぼしてしまったり、形をくずしてしまうことがほとんどですが、それでもそうしたいと思っていることが、しようと思えばできる自分が、最高に嬉しかったんです。
誰のせいにもせずに、生きていくということはとてもシビアですが、それは同時に自分次第で、どうにでもなるということでもあります。
それって最高に素敵なことだと思いませんか?
私はそう思っています。
今は、先が見えないだとか、何が起こるかわからないと言われますがそれは本来、当たり前なことなのではないでしょうか。
先が見えないことと、悪いことをイコールでつなげるのはおかしい、それにとてももったいない。
確かに不安はあります。けれど、数秒先が蛍光灯で照らされてると安心することの方が、なにかがおかしいし、こわい。
それでいいのかと問いたくなります。
自分ではダメだと思っていても、やってみるとけっこうどうにかなるものです。
例え失敗しても、学習すればいいだけのこと。
重要なのは意思。
意思を持つ覚悟ができれば、大丈夫だと私は信じています。
それが今のわたし。