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南京の人口は20万人から25万人にどうやって増えたか-その8

 田中正明が著書を書いた頃には、まだラーベの日記は発見・公開されてはおらず、人口問題が南京市全体のものか安全区のものか曖昧であったが、今日ではラーベの日記のように人口問題にかかわる他の史料も見つかっており、それら複数の史料を互いにつきあわせ、検討していけば、20万人~25万人に増えたのは安全区の人口であることが分かるのだ。

 
 しかし、この数字を南京全体の数字へと書き換える大きな役割を果たしたのは、田中よりも小林よしのりではないだろうか。
 
 小林は著書の中で南京事件での被害者数について次のように述べている。
 
「東京裁判で捏造された日本の犯罪の一つが南京虐殺である。アメリカが原爆で虐殺した広島・長崎の一般市民三〇万人と釣り合うくらいの日本人の戦争犯罪が欲しかったのだろう。
 三〇万人大虐殺というが、南京には当時、二〇万人しかいなかった。
 三〇万人殺すには原爆を二個落とさねばならない。とても日本軍の銃や銃剣ではムリ。
 南京の人口は、日本軍の南京入城から一ヶ月後に二五万人に増えている。
 外国人ジャーナリスト、日本の新聞記者もそこにいっぱいいたのにだれも虐殺など見ていない。」(注1)
 
 この小林の著書は多くの若者に受け入れられ、この著書に書かれていることも若者たちには無批判に受け入れられていった。
 
 しかし、ここにはおかしな点がある。
 
 第一には、前回まで述べていたが、「二〇万人」、「二五万人」というのは南京全体の人口ではなく、安全区の人口であるということ。
 
 第二に、「三〇万人殺すには原爆を二個落とさねばならない。とても日本軍の銃や銃剣ではムリ。」とあるが、ここもおかしい。なぜなら、「三〇万人」を殺すのに何も原爆を使う必要はないからである。例えば、中国の古代では、楚の項羽が20万人もの秦兵を殺害している。しかし、これには原爆は使われてはいない。また、ルワンダの内戦では50万人とも100万人ともいわれる人々が虐殺された。しかし、これにも原爆は使用されていない。また、クメール・ルージュ(ポルポト)による虐殺も100万人以上といわれているが、これにも原爆は使用されてはいない。つまり、「三〇万人」を殺すのに、何も原爆という兵器を使用しなくても可能であるということなのだ。
 
 第三に、「外国人ジャーナリスト、日本の新聞記者もそこにいっぱいいたのにだれも虐殺など見ていない。」とあるが、日本の新聞というものは、明治の初期より讒謗律や新聞紙条例、やがては出版法などというものがあり、内務省や軍部の検閲により都合の悪い記事を掲載することはできなかった。また、外国人に関しては、リアルタイムで南京事件のことが新聞や雑誌に掲載されており、「外国人が見ていない」とはおかしい。これら海外の記事は日本にも入ってきているが、すべて内務省の検閲によって記事差し止め処分を受けている。(注2)
 
 そして、ここで今回使用した史料についても触れておく必要があるだろう。
 
 第一に、田中正明が南京の人口が増えたとした「公文書」であるが、ティンパーリーの『戦争とはなにか』に収録されているものである。このティンパーリーについては、北村稔や東中野修道が、国民党の宣伝工作員であり、ティンパーリーの著書はプロパガンダであり信用できない、としている点である。しかし、これはおかしい。なぜなら、ティンパーリーが国民党中央宣伝部顧問に就任したのは『戦争とはなにか』を書いたときよりも後のことであるからである。また、ティンパーリーの著書が信用できないのであれば、南京の人口が20万人から25万人に増えたというのも信用できなくなる。なぜなら、この説はティンパーリーの著書に収録されている文書を根拠としているからである。
 
 第二に、ラーベについてである。東中野修道は内藤智秀の『史学概論』を根拠に、ラーベの日記は三等史料で信用性に欠けると指摘しているが、実は内藤の著書を読めばわかるのだが、内藤の史料区分の定義にあてはめればラーベの日記は三等史料ではなく、二等史料であって、史料としての価値は十分高いものである。しかし、現在の歴史学では、そのような史料区分にこだわるのではなく、史料批判という作業を綿密に行い、一つの出来事・事象について複数の史料を比較検討し、検証していくのである。たとえ史料価値が低いものでも、こちらの技量によっては十分史料として生きてくるのである。中には「偽文書」という偽物の史料があるが(近代史の例としては「田中上奏文」)、これも偽物だから価値がないのではなく、いつ・どこで・誰が・何の目的でこの文書を作成したのかを突き止めることで、その「偽文書」は立派な史料として生きてくるのである。
 
 南京事件は、当初「そんなものはなかった」、「まぼろしだ」という全面否定の論説が上がっていたが、様々な史料の発掘(日本側、中国側、その他欧米諸国など)により全面否定が難しくなり、やがて虐殺された人数や便衣兵の問題などへと、その論点がシフトしていった。しかし、国際的にも認知され、日本の外務省のサイトにも明確に記述されていることなどから(注3)、部分否定であっても難しいであろう。虐殺された人数をめぐっては、近年の虐殺事件であるルワンダやクメール・ルージュ(ポルポト)による虐殺数でさえ正確に把握することは困難な状況である。まして南京事件は、1937(昭和12)年末から翌38(昭和13)年初頭にかけての出来事であるため正確な虐殺数の把握は殆ど無理であろうと思う。だからといって「南京事件はなかった」というものではないのである。
 
 日本側の文書は、その多くが敗戦直後に焼却処分されている(南京事件に関していえば、特に外務省)。そのためどれだけ実態に近づけるかは分からないが、多くの文書史料や証言などを検証し、それを構築させていき、これからも南京事件をより明確にしていく作業が必要であろう。
 
 
 
 
(注1)小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎 1998年7月10日)44-45頁
(注2)当ブログ記事「南京事件の海外での報道-1」  http://blog.goo.ne.jp/01780606/e/399eab9c661c3fe10fe156b2eb14d4ff
 
(注3)外務省「歴史問題Q&A」  http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/
 
「河村・名古屋市長の「南京事件」に関する発言」  http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/hodokan/hodo1202.html#4-A
 
 
 
この稿終わり
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