「社会外之社会」-その4
〈解説〉
娼妓の前借金について
然らば彼等貧民の父兄が涙を呑んで其最愛の娘妹を此苦界に沈むるは、果して若干の金員を得んが為めなる乎。
統計の証する所に依れば、其の最も多きも六百円を出でず、其最も少なきは僅かに五十円に過ぎざるなり。
嗚呼、彼等は五十円より六百円に至る少額の金員の為めに其最愛の娘妹を奴隷の境界に陥れ、三年、五年、八年、十年を経て遂に之を救ふこと能はざるなり。
読者諸君は定めし疑ふならん、此五十円より六百円に至る僅少の負債は、何故五年、八年、十年の苦役中に之を払ふを得ざる乎。
此疑問を研究したる者は明らかに貸座敷が如何に娼妓を虐待し、如何に正しからざる利益を占むるかを知るを得べし。
事実に於て娼妓等は何れも其の年季中に借金を増すの姿をなせり、如何に全盛の娼妓も貸座敷営業者の飽くを知らざる欲望を満足せしむる迄に稼ぐ能はずして娼妓は常に軽からぬ負担を荷はせられて発砲の呵責に堪えざる時は「倉替え」と称して、他の遊廓の貸座敷業者に転移するを常とす、かく転移して其行末は実にミゼラブルの境界に陥るなり。
娼妓の前借金は多きも六百円を出でず、少なきは五十円に過ぎず、而して其の年期は近来大概六ヶ年にして、偶ま短かき者も三ヶ年以下の者は有らず、此の奴隷に均しき浅間しき境界に三ヶ年乃至六ヶ年を沈むる幾多の婦人は、皆五十円乃至六百円の一時金を得んが為めにして、シカモ其の年季中に之を払ひ得ずして遂に年季を延ばす者、十中八九は然らざるなし。
昨年一月の毎日新聞を読みたる人は、吉原其他各地の遊廓に於て情死又は刃傷沙汰の頻々と起りしを記憶せらるゝならんが、其中に就て一月六日に情死を遂げたる吉原遊廓京町一丁目稲毛楼の娼妓玉川事橋本ふさの如きは明治廿八年十二月十日より三十四年十二月迄、六ヶ年の年季を務むる契約にて、前借百五十円に其身を売りし者なり。
彼女が昨年本所の荷場船頭太田政四郎と云へる無分別の痴漢と情死したる事情を聞くに政四郎は敢て之を望みしに非ずして、彼女より之を要求し、愚かなる政四郎は唯冥途への随行を命ぜられし者なり、然らば彼女は何故に此の如く死を決するに至りたる乎。
当時毎日新聞が報道したる所に依れば、彼女は二十八年十二月以降此苦るしき役務に服したるも、不幸にして其前借金の少しも減ぜざるのみならず種々の入費に追はれて三十年の五月二日には更らに百円を前借して三年の年期を延期し、其苦界を脱する希望を達する迄には前途尚遼遠なるに失望し、遂に此の死を決するに至りしなり。
彼女の昨年死する時は年齢尚二十三歳なり、彼女が其身を売られし時は年齢方さに十九歳ならざる可らず、嗚呼、僅かに百五十円の金の為めに十九歳の少女を此の境界に沈め、其の浅間しき役務に服する四五ヶ年にして尚其前借を払ふ能はず却て益々其の借金高を増加し、其年期更らに予定の六ヶ年を増して三ヶ年を加へ、遂に之れが為めに失望して自ら死を決するに至らしむるが如きは、豈社会の一大惨事に非ずや。
聞く所に依れば毎年十二月は娼妓が「鞍替え」をなすの時期にして、女衒の最も多忙なる時期なり、而して此「鞍替え」をなさんと欲して適当なる所を見出す能はざりし娼妓は、一月に於て死を決するに至る者多しと、思ふに本年も亦此一二月の間に於て情死沙汰の起る者少なからざるべく、且つ此等の情死をなさんと欲する娼妓は目下其情死の相手を捜索せるならん。春の景気に乗じて遊廓に浮かれ込むの痴漢共は彼の鞍替えをなし能はざりし決死の娼妓共より冥途随行員を命ぜられ、彼の政四郎の如き愚かなる最期を遂ぐるの虞ある者と謂ふべし。
娼妓が稼ぐ所の金高は随分巨額の者にして、遊蕩の為めに産を破ぶり身を誤まる者誠に少からず、此の巨額の収入ある稼業をなして、尚僅かに五十円より六百円に至る前借金を其の三年乃至六年の長日月間に払ひ得ざる者は何の故ぞや、楼主の貪ぼる所多くして娼妓の得る所誠に僅少なればなり。(出典 谷川健一編『近代民衆の記録3 娼婦』新人物往来社 1971年6月10日 142-143頁)
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