STAY GREEN~GREENのブログ~

陸軍第一六師団輜重部隊

場所:伏見区深草越後屋敷町

最寄り駅:京阪電鉄墨染
 
 
 
輜重部隊とは、兵站において水・食料・武器・弾薬などの輸送を担当する後方支援部隊。
 
 
 
輜重部隊は、歩兵などの実際に戦闘を行う部隊と比べて冷遇されていた。これは、日本軍が戦闘における「補
 
 
給」というものを軽視していたことのあらわれである。この「補給」の軽視というものが、戦闘行為での「徴発」とい
 
 
う名の略奪行為を生み出していった原因の一つとなった。
 
 
 
更に「補給」の軽視は、戦争末期に起こったガダルカナル戦やインパール戦での大量の餓死者・病死者を出す
 
 
大きな原因となった。
 
 
 
日本軍将兵の戦病死者の大半は戦闘によって死んだのではなく、餓死、あるいは栄養失調による病死であった
 
 
ことは、日本軍や日本が行った戦争を考える上での重要なポイントである(餓死と日本軍・戦争については何れ
 
 
書く予定である)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
京都市消防学校、京都教育大学附属高校前一帯が陸軍第一六師団輜重部隊跡地であった。
 
写真の門柱は消防学校にあったものだが、消防学校が移転するにともない、解体される予定であったが、市民
 
による保存活動と京都教育大学附属高校の好意によって附属高校前に移された。
 
この部隊は作家水上勉が入隊。その体験を元に「兵卒の鬣」、「馬よ花野に眠るべし」、「墨染」などの作品を書
 
いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
写真は「保存する会」によって建てられた解説碑。次のように書かれてある。
 
「陸軍第十六師団輜重部隊遺跡
 
この周辺と京都教育大学附属高等学校や、西隣にあった京都市消防学校は、一九〇七(明治四〇)年に設置さ
 
れた旧陸軍第十六師団輜重部隊の跡地です。
 
輜重部隊とは、弾薬や食糧などを補給する任務をもった部隊で、多くの軍馬が使われていました。作家の故・水
 
上勉は一九四四(昭和一九)年にここに入隊し、馬以下に扱われた兵士たちの苦しみを描いた「兵卒の鬣(たてが
 
み)」「墨染」などの名作を発表しており、この周辺は日本の戦争文学の史跡でもあります。
 
二〇〇九(平成二一)年に京都市消防学校が上鳥羽に移転するにあたり、敷地内に残っていた輜重部隊の南門
 
の門柱や歩哨兵のいた哨舎などが、市民の募金活動と京都教育大学の敷地提供のご協力により、この場所へ
 
移されることになりました。
 
京都府出身の兵士たちが入隊した第十六師団は、中国での南京戦やフィリピンでのバターン戦、レイテ戦など
 
に参戦し、現地の人々にも甚大な被害を与える一方で最後は全滅しました。
 
私たちは、この門柱と歩哨舎が戦争の悲惨な歴史を語り伝え、平和を求める記念碑となることを強く願うもので
 
す。
 
二〇一〇年五月
 
陸軍第十六師団輜重部隊の遺跡を保存する会」 
 

コメント一覧

京都のGREEN
>こんばんは
Unknownさん、コメントありがとうございます。

>昨今の右翼チックな大多数には見てはならないものとされているようです

それは残念です。これもれっきとした歴史的事実なのですから、こういうところからも学ぶべき点は多くあると思うのです。
こんばんは
 こういう歴史は大事なのですが、昨今の右翼チックな大多数には見てはならないものとされているようです。彼女・彼らこそが見て大好きな日本軍が失敗を再び犯さぬようやらせておかなくてはならないはずなのですが。ある程度、兵站を現実的に考える新日本軍では、起こってはならないはずですが、昨今の右翼チックな大多数は兵站の事も一切考えていないために”中共撃つべし”と息巻いていますから、またやらかすのでしょう。全く情けない大多数です。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「京都市伏見区」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事