昨日の続きです。
人格の根底にある根っこの部分は、変えようがないというのが私の持論ですまでだったかな?
もちろん、人格形成後も十分人間は変われると思っています。
でも、表面上のものであり芯の部分ではないと。
これは悪い意味で言っているのではなく、人生を歩んでいく上で自身の不備な点、
劣っている部分、足りない面を補足、修正、改めていくことは必要なことであり
自分を高めていくこと、向上につながっていくわけです。
表面からではありますが、自分の内面の負の部分を抑制する又は
その努力をすることは事は可能です。
ありきたりの言葉ですが”自分の至らぬ点”を少しでも改善していこうと思うのは
ごく普通の事だと思っていました・・・・が
そのごく普通の考え方。
自分を知ることから始まる事。
インサイドアウトです
出発は内面から 内的要因から始まる考え方
客観的に自分をみつめ(実際には主観ではありますが)問題点を抽出し
改善や軌道修正をしていくわけですが
簡単にいうと
『私は怒りっぽい性格だからイラッと来たら爆発する前に深呼吸をして気を静めよう』
とか
そんなふうに自分の欠点を補っていくのですが、
これが逆の場合、
アウトサイドインという考え方
外的要因が中心だとどうでしょう?
『私がすぐ怒りを爆発させてしまうのは、すべて○○のせい』
○○に夫でも彼でも彼女でも何を入れてもOKです。
”自分の至らぬ点”の原因はすべて私の性格に起因するものでなく
外的要因によってもたらされている
『夫が仕事中心で帰宅しても話も聞いてくれない。
夫が妻の話を聞くのは当たり前なのにもしかしたら外に女でもできたのかしら。
さびしい私は感情を爆発させて夫を責めてしまう。
本当の私は物静かで穏やかな性格なのになんでこんなひどい仕打ちを
うけなければならないのかしら。
こうなったのもすべては彼(妻、社会その他)の態度が原因!私は被害者なの!
だから私は浮気をした(彼を刺した)』
ちょっと中途半端な例ではありますが、
すべての原因を外的要因に求めると・・・解決するわけねぇだろと。
この究極の先にあるものが犯罪者の思考だと思います。
怖いと思いません?
原因が自分以外にある限り結果として
自分の行った行為はすべてその要因がもたらしたものとして正当化する。
情状酌量ってやつです。
そんな論理で殺された人は・・・死人に口なしです
私が代弁します。
『あなたが幼いころに受けた虐待や苦しい生活、
今まで不幸なことばかりだったかもしれないけど
僕を殺したこととどんな関係があるの?』
つづく
私も自分に余裕がないと、ついアウトサイドインの方に傾きます。
気をつけないと・・・。
つづき・・・待っています。
インサイドアウト
内から外へ
簡単にいうと”自分を中心においてものを考える”ですかね。
といっても
自己中心的ではなく、自分に原因あるのではないか
ということから考え始めることでもありません。
考えの中心に自分がある。
自分でものを考えているかどうか。
判断基準が自分なのでブレにくいです。
アウトサイドインは
中心に外的要因があります。
他人の考え、事象、出来事などが中心にあるので、
他人の意見や態度ですぐ反応してしまいます。
気持ちも意見もブレまくります。
極端な話、雨が降りで気持ちが落ち込む人がいますが、
天気は変えられネ~だろうと。
自分がコントロールできないことを思い悩むのは精神衛生上もよくありません。
自分の力の及ばないものには”事実として受け入れる”
”~あってほしい”だとここで思考停止します。
”~ということもある”という事実を前提に考えれば新しい発想も浮かぶかもしれません。
日々、いろんな出来事が起こります。
ネガティブな出来事に対しては、なるべくブレないよう生活していきたいですね。
あ、今回のブログは軽く流して読んでくださいね。
ジャンルも日記ですから。独り言です。