本の話(文藝春秋・7月号)で「黒澤明という時代」小林信彦が連載を始めた。とても良いタイミングだ。さすが文春と言う感じ。昨日、日本映画について少し書いたばかりだ。そして今日、会社で見本誌が積んであるのを見つけた。毎月「本の話」はおもしろく読んでいるのだが、こんな時期、このタイミングで連載が始まるのはとても嬉しい事だ。
映画監督黒澤明、小説家山本周五郎、評論家小林秀雄が神様だった。この三人を見ていればそれでよかった時代が自分の中にはあった。ひたすら憧れ、慄き、平伏した時代があった。それでよかったのだ。その時代に人から何を言われても、頑として守り続けてきたそんな物が、心の中にあった。そのま
ま何十年かが過ぎていった。【キネマ旬報】
そして、「黒澤明という時代」と言うタイトルを見た瞬間から、また心の中にあったものが沸々と湧き出ている。
やはり正しかったなと言う思いだ。ただ今は、凝り固まる程の歳ではない。成る程と納得する歳を得ている。
まあこの辺りになると、きつい表現にもやんわりとした気持ちで、受け答え出来るのだが。やはり良かったのだろう。彼が今後どの様に、書き進めようと、受け入れる事が出来そうだ。やはり、時が経つのは心が穏やかになると言う事なのだろう。
さて、「黒澤明という時代」小林信彦の書き出しを読んだ。非常にテンポが良い。黒澤の時代を、今に感じとる事が出来るのだ。それがまた嬉しい。いつも言うように、映画はファーストシーンで決まると思っている。始めよければ終わりよし、とは言わないまでも、兎も角映画はファーストシーンだ。そんな事からも彼の黒澤論が、今後どの様に展開されるか楽しみになり、期待が出来る。
今までにない「黒澤明」を見せてもらえる様に感じているのだ。もし映画監督であったらこの段階で、「黒澤明という時代」小林信彦の版権を獲得をするのだ。多分、彼のこの作品で、1本の映画が作れるのだ。つまり、読んでいて状況が、目に浮かんでくると言う事なのだ。何時でも、何処でも、どんな表現を使っても、それがなければ詰まらない物になるのだ。