小説を書く(読む)。
最近、電子書庫などという便利なものがあり多くの文庫を目にすることが簡単にできます。
私はと申しますと、本のほうが好きで本屋で書籍を探すのも楽しみの一つです。
“小説を書く”、芸能人の影響でしょうか、最近小説を書くという人が目につきます。自称ストーリーライター、のかたも多くなってきたようです。
ブログを書くのと「小説を書く」のと混同されているのではと思われるような文句がみられそれを小説と言っている芸能人がおられ、小説家をかたられておりますが、時間的な余裕がどこにあるのか、今たしかドラマや映画で忙しいはずなのにこのように沢山の連載できるのかとおもい読んでみました。
「私は映画、歌手のあいまに書く」と最初の出ではじまるのですが、どう読んでもブログでした。
小説ですが、各小説家先生の本を多く読めばなんとなく理解できることですが、条件がいくつかあるという事です。
「小説を書く(小説家になる)かどうかという問題は、作者、作家、自身に、『真理を探りだし』これを人に誉めさせる小説が書けるかどうかということになる」
第一に彼自身(彼女自身)が表現すべき『真理』を所有しているか否か。
第二はそれを小説の形で表現する才能があるか。
第三は時代雰囲気が、もっと具体的にいえば小説の読者の要求が作家の意欲にどの程度に応えるか。しかし従来からある日本の観念や思想の中に、このような側面に応えられるものがあるはずもなく、自分の経験と観察によって探求してゆくほかはない。
だが、それらの探求には生活の安定と十分な時間的余裕が必要である。
そこで、十分な時間があるかです。
芸能活動中にそのような時間があるとはとうてい思えない。
感想は真理とは違うこと言うことです。なにか錯覚しているようにおもえる。
分作意欲が見えない。小説としての形で表現しているというより単なる自叙伝というか自己PRがほとんどのようにおもえる。
週刊誌の“ネタ”で出筆してる本があります。
妊娠・離婚・恋愛、とまあおおい事ですが、恋愛はほとんどが詩か世間ばなしでしょう。離婚はたいていドラマでやるような内容で、脚本としては良いかもしれません。
問題の妊娠ですが、どう読んでも小説化は無理でした。
伝記にもあてはまりません。井戸端会議でもかなり低俗の話ですね。
3文週刊誌でも取り上げないから本で出版するのでしょう。
その人物のネーミングで買う人向けで、内容と言えばあまりにも幼語でした。その人物自体が語れる行動をしているのかどうかの内容でした。
一冊の本にするにはそれなりの真理がいるのです。
真理に事欠くのでは、少なくとも小説とは言えません。
自分のネーミングだけで売るのは、書物としては低俗としかいえない。無名でも真理がそこに見える物は一冊の書です。
それをはじめて小説と言う言葉に置き換える事ができよう。
雑誌とは、見た目が本のような形をしていているものもあります。
自分の妊娠と育児に関して書かれたのは、雑誌です。
小説でも詩でもなんでも無いのです。