東日本大震災ボランティア
2011年03月31日 21時26分08秒 | 日記
被災者内陸移送ボランティア
3月24日~26日岩手県の事業で、被災された方を現在の避難生活から内陸部の環境の整った場所に一時的に疎開して頂き、町が復興し仮設住宅が建設されるまで過ごしてもらう様、移送する仕事の支援を実施、今回はその第一陣として山田町に入った。
前日、山田町の被災状況をPCで検索すると、NGO職員のブログから、まだまだ日常の生活用品が不足している事を知り、家の中で必要と思われる物をダンボールに詰めた、正月の福袋から一度も袖を通していない防寒着、子供達は二人とも家を出ているのでそのタンスから何着か拝借、防寒長靴、おばあちゃんは自分なりに袋に詰め手渡してくれた、会社の同僚からも電話があり朝早く自宅に届けてくれた、皆、何かしたいが何も出来ないでいる、受け入れられるか判らないが、持ち帰る事になっても何もしないより良いと思った。
岩手県庁から宮古に入り山田町に向かった、宮古市内中心部に入るまでは、震災の様子は感じられなかったが、住宅の様子から床上まで水が上がっている事が判った、商店街はいつもより車の渋滞が多く、後で判ったが、山田町などでは商店が全滅して家の残ってる人達はみんな宮古に買出しに来ている。
山田に向かう途中、目の前には創造を絶する光景が目に入る、全てが壊され・流され失われている、ニュースなどで終戦後の日本のようだと言う表現を使用していたが、言葉・文字にし様がない。
最初カメラを向けるのをためらったが、絶対この状況を伝えなければと思い、同乗する職員に撮影をお願いした。
山田町役場に到着、そこで3チームに分かれ各避難所に向かった
今日の目的は、前回応募があった家族と面談して、不安に思っていることはないか、気持ちに変わりがないか確認する事と、次回の募集を周知させる事。各避難所では、保育園では園長先生、学校では先生、漁業組合では組合長さんらが先頭に立ち、避難者をまとめ面倒を見てくれている、顔には疲労の跡が隠せない、きっと睡眠も十分でないのではないか。
その日は役場に帰り、非常食(アルファー米)とカップヌードルを食べ、子供達とのキャンプ以来の寝袋に入り就寝。
朝早く寒くて寝ていられず、5:00には目が覚め、山田町内を歩いた。
山田町としては全体の半分、高田にある住宅は残ったとの事だが、役場の高台から見る限り全壊
ココに住んでいる人の生活が、命が一瞬で奪われた、報道で知るのとは、実際にココで、この空気を吸って、この目で見て感じるものは違う、役場から真っ直ぐ港まで歩いた。
港について、大きな堤防が決壊して、そこから勢いよく津波が入り流れていったのが見て取れた
なぜ、この大きな堤防が決壊したのか、残っている堤防はなぜ決壊しなかったのか
素人ながらその原因が判った
写真から、決壊した堤防は基礎の上にただ乗っかっているだけ、破壊と言うより倒れた感じに見える
施工業者は、どんな津波が来てもこの堤防で守るんだと言う思いをこめて造ったか?
それを監査する、発注側(国、県)は間違いがないかちゃんと監査したのだろうか?
これは人災も有るのではないだろうか?
基礎と堤防は細い鉄筋でのみ繋がっていて、コンクリートは乗っている感じ、ちょうど破壊した堤防は見晴台となり上部の頭でっかちの為転びやすかった。
専門の人に見て頂きたい
駅のある方に向かい歩いた、途中朝早くから、自宅の瓦礫を寄せている人、壊れた家の中を片付けている人が見えた、この中にまだ行方不明者が眠っていて、家族が一生懸命探している事を思い涙がこみ上げてきた。
物欲の世の中が何の役に立つか、大切な人を亡くした気持ちが誰に判るだろうか
役場に戻り辞められないタバコに火を点けた、S内装と書かれた制服を着た人から何処から来たと挨拶された、私は、町内を歩いてきた事を話した、その人は被災した日からこれまでを話してくれた
内陸との温度差を感じる
地震翌日、内陸の業者から電話があった、仕事があるんだけれど・・・・・それどころでないのにそんなにひどいのかと言われた事、家族を遺体で運び出し検証に来た神○川県警が岩手県警の許可がないと運べないと言われた事、仏様を一日も放置するのかと怒りが込み上げ言った、無線で連絡を取り直ぐに運ばれた、やれば出来るのに何でだよ、ダイバーの話では海の中の車にはまだ遺体が沢山あること、今はまだ引き上げる事が出来ない事、仮設住宅着工の為大船渡に職人を連れて行くが、いくらでやってくれると聞かれた事、金なんか要らないもの、そんなんじゃないものと泣き崩れた。
私も、何も出来ない事を詫び涙ぐんだ。
報道では、日本は凄いと各国から賞賛と書かれているが、観光で被災地に入る人がいる事、興味本位で絶対来て欲しくない。各店舗からは略奪があること
私達が内陸へ移送の為に着ていることを告げると、今後の復興の為に、まず弱者(お年寄り、子供)を内陸へ、仮設住宅が出来るまで連れて行ってくれ、残った若い者で復興する、今、非難者への面倒を見るので一杯になっている、どうか頼むと・・・・・
今後に不安をたくさん抱えてはいるが、この状態を一日も早く改善してあげたい、しなければいけない、まだ積まれた瓦礫の中にはたくさんの遺体が眠っているに違いない。
山田町の様子
今日は、昨日二陣の希望した家族に面談と不安に思うことを聞き取り、明日移動する家族に再確認
青年の家→大浦地区→織笠地区→山田高校と非難場所を回った
避難所ではちゃんと役割分担され、特に高校生が率先して手伝っている姿がある
山田高校は400人以上の避難者がいる場所、衛生面でも、精神的にも辛い場所、イライラ感が伝わり笑顔がない
非難している人が内陸に移動するのに不安がたくさんある
・病院に通院しているから行けない
・介護する人がいない
・亡くした物の手続きがあるから行けない
・ペットを置いて行けない
・まだ家族の行方が判らないから
・内陸に行ったら情報が判らないのでは
・内陸に行ったら自分では帰れない
などなどたくさん、この一人ひとりの相談に安心できる回答をしてあげて出来るだけ現在の生活から、内陸で人間らしい生活を取り戻してもらいたい。
又私達内陸の人間は、近くに来たら何らかの手伝いを買って出て、ケアしてあげたい
織笠地区全壊
船越半島大浦地区へ行く途中
26日、今日は大型バスで第1陣を移送する日
昨夜からの雪で、外はものすごく」寒い、出来るだけ外で待たせる事がないように作戦を組んで避難所に迎えに行った。
バスを待つ間、避難したおばあちゃんが地震当日の事を話してくれた、地震があり、津波警報が出てから20分ぐらい時間が有ったが、揺れが長く外に非難して、まさかココまでは来ないだろうと集落の人と海を見ていた、そうしたらものすごい波で私はもう少し高い所に上がった、自分の目の前でたくさんの人がさらわれていった。それからヘリコプターが救助に来たのは3日後、山火事が発生してヘリコプターで消火、まさかこんな事になるとは・・・・・・
今回の地震が来る前の地震の時、昭和8年の地震の時小さな地震が続いて大きな地震が来た事を話していた、今回も同じだった事。
バスが到着したので高齢者を解除しながらバスへ、これで今回の任務は終了した。
これからが本当の復興が始まります、長い年月が掛かるだろうと思うが、私達は一人ひとりが今出来る事を、足元を見つめ実施してかなければいけない、それは使わない電気を消す事だったり、使う人の事を考えものづくりをすることだったりすると思います。
今回の事でたくさんの事を考えさせられました
・立派な家、高価な宝石がこんな時何の役にも立たないこと
・私達の作ったルールが、道徳の妨げになり、人情ある行動が取れないこと。
一人ひとりが出来る事を一生懸命やりましょう、それが避難者の一杖になるように。
今回のレポートがいく人かの心を動かせたら幸いです。
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