#みんなのブログ#今年一年を振り返ると。#142.REQUESTに答える。序論。
今年一年を振り返ると。
2019/03/27それは、水曜日でした。
苦労の挙げ句、やっと開設したとあるblogを投稿した。
『ブログをやっと開設。』#1.
その時点ではまだ平成31年だった。喜んでいたのも束の間。
後に、全てが流されたことを知った。それは『水』曜日だったからだと考えてしまった。
商売人はその日にはお店を開かない商習慣があるのと似ている。
以来、喜びの作品作りに没頭して合計25作品まで続いたのだ。
その後『友達の作品を見ますか?』
とあり、ついつい『はい!』と言わんばかりにその1つのボタンを押したのです。
すると、私のそれまでの作品が全て消えて無くなってしまったのです。
心理学では、それを自分がプラスの方向へ良く考えて努力し向上させる方法を『昇華』と言うらしい。
善意に解釈して、前向きに努力することを指しています。
そして、私は新たな作品を産み出して#26『平成最後のマイblog鍵の紛失事件』と唱う作品にしたのです。
そして、突然居なくなった父親探しの旅に出ることにしたのです。
それは、『たった1つのクリック』で、『?詐欺』に出会うよりは『まだまし』だと考えたのです。
それから暫く過ぎたある日。
『地獄で仏に出逢うこと』。
人はその様に表現するのです。
何と!私と同じ名字の人が親切に私が過去の作品に入れる様にと『合鍵』を作ってくれたのです。
私は、自分の力でその『合鍵』を作ることなど出来ませんでしたから、感謝、感謝、シエ・シエ、オブリガードの気持ちでいっぱいでした。
それでついつい☆マークを5つも押してしまいました。
『天から地への転落』!
再びマイblogを作り、私は喜んで書いていました。
順調な時が続くほど気を付けた方が良い!と言うのは本当に真実です。
私のこのマイblogが#137まで続いたその日のことです。
つまり、第一回目の紛失事件から、137-25ですから、新たに合計112の作品が出来上がっていたのです。
その間、写真を何枚も写し、それを加工し、体裁を良くし、文も仕事の合間も見て、それだけの数を作り上げたのです。
その日のこと。
その会社のPRでは間もなくアプリの更新(システム更新?)が成されます。
他の人の感想を見ると、そのblogは折り畳み式のいわゆるガラ系の携帯を使っている方もおられるようすでした。
以前の方が良かったと言う意見の人もおられました。
作品がキープされなかった!とカンカンに怒っている方もコメント文面から、私は知ることができました。
私は、そこで油断したのです。
もう112作品も何とも無く、無事だったのだし、前みたいなことは無いだろう?!と考えたのです。
処が、その日が近づくに連れて、私の心に不安が募って来たのです。
私は解説文を何回か読み返しました。
そこにはこうありました。
↓↓↓
保存するためには『下書き(一時保存)』として置けばシステムが変わっても、その作品は引き継がれます。
とあったので、一応、念のため、112もの作品を時間を掛けてでもそのようにしておいたのです。
良し、これで作品は無くならない!
そうやって、その最後の日に安心して眠ることにしたのです。
良く『事件』とは、そうした安心したときに起こるものだとも言われます。
今日、それは『電子遺産』とも言えます。
本人の意思なくして、他の人が恣意で電子著作物を勝手には消せないのですよね。
『契約書』と書かれていても、
『個人情報の漏洩』はどこの企業もありました。
会社のスタッフだけで出来る筈ありません。
年金庁*(1)の個人情報漏洩は『委託管理会社』が言わば『管理』出来て無くてそうなったのです。
リクルート*(2)も然り、沢山の個人情報のアクセス状況やその他の情報が意図的に流されていたのです。
それ(内密な個人情報)は、売れば儲かりますから、そうするでしょうし、そう言う不届きの輩を雇った人の責任です。
そう言う影のシステムがもしあれば、不正工作体質です。
もし、隠すことが無い『清廉潔白』な企業ならば、そんな問題も何一つ明るみにはでないでしょう!
そのことを心に銘記して物事を観察するべきです。
*注(1)/(2) これは、ニュースでも公に扱われた事件でした。
こうした官庁、企業に対して人々はどれ程の信頼や尊敬をしており、それ故、発覚した事件のそれ、たった1つの事で多くの人々の失意・失望・精神が裏切られたものと言えるでしょう。
人間の行うことであれば、意図的(つまり犯罪の意思あり)にも、うっかりミス(重大な過失)がどこの世界にもあるものですが、それは何ら正当化も弁護も出来ませんよね。
私の知り得た事件は、過去にも多々ありました。
・一流翻訳家の誤訳。
音楽の歌詞の中に間違えた翻訳があることを私は問い合わせして見つけました。
まだそのことを正式に認めてくれたのは有難いことです。
一流の翻訳家のうっかりミスですよ。
私は滅多なことは言えないので、大きな図書館へ行きました。
私の辞典以外の辞典を幾つかも確かめて、確認する内に、私の確信は間違えの無いと言う確信があったからその会社にお手紙を書いたのです。
フランス語の翻訳でした。
私はそれには自信があると自負(確信のこと)していたからです。
・法律参考書籍の落丁(製本上の間違い)。
法律の参考資料を買って勉強していたら、その法律の参考書籍がある所から何ページも、何ページも逆さまに貼り付いていたのです。
・植物書の分類間違い。
植物の本でも、季節分類が違っていたことを確かめました。
私は、間違い探しの天才~マニアみたいなもんです。
別に重箱の隅をつつかなくても、その物事を良く知っていれば、ピンと来るモノがあるのです。
それは、仕方ない感です。
私個人の私的な問題などではありません。
『責任編集済み』。
と記されていても、それは分かりません。
上のような事件は私でも見つけられるからです。
・『責任編集済み』の内幕。
担当スタッフが仮に1人でそれをしていたら、絶対確かでは無くなります!
『あっ、3時だ!休憩時間だ。』
トイレに行ったり、コーヒーを求めに行ったりすると、
帰ってきて作業の続きを始めたモノならば、その続きをハッキリと人は覚えてはいないものです。
『あっ、確か、ここからだ。多分。』
くらいの認識になる。
飛行機事故がありました。
小さなネジ一つが無いために『思わぬ』事故に繋がり、飛行機はバランスを崩し空から墜落したのです。
ネジ1本で命取りとなったのです。
車のタイヤが外れました。
昨日車検に出したばかりなのにとその怪我をした方は言われます。
全て、ネジを締めるべき時に、人は『中途半端』に休憩に入ったのです。
ミスとは、そうした些細なことから始まります。
昔の人は責任がありました。
『おい、休憩だぞ!』
『ああ、分かった。今、これを締めたら行く。ありがとう。』
そうしていると、休憩時間など簡単に終わってしまっても、その人には小さなネジが大きな責任と思え、『責任のある仕事』と自覚と共に当時はそれをしていたのです。
現代でも、
確かに、人間は文字の入力ミス、誤植、など多々ありますよ。
でも、その都度、最近のようにどこの世界でも頭と体を45度傾斜(腰が90度は曲がらないからと言ってそうする人もいる)して、『今後、このようなことが二度と起きないように徹底して改善に勤めます』と言い、パチパチとそこで📸カメラのフラッシュを撮りますが、それは大きな問題です。
もはや1つの『謝り儀式』のパフォーマンスとなっています。
まるで有名人!
英雄扱い!
悪いことをしても、何ら犯罪意識も無くなります。
その為に、『記者会見を開いてくれ』と堂々と要求する者まで現れる始末では無いですか?
問題は確かにあるでしょう。
『私にはそうした悪いと言われる事は何1つありません。』
と、そう言える人は一人もいません。
もし、そう言えたら、あなたは神様です。人間では無くなります。明日から御神体として祭られるべきでしょう。
昔は『ゴネ得』とか『先に言ったもの勝ち』と表現する時代がありました。
今でも、自ら先に自分を正当化すれば、良いと言えるのでしょうか?
調べて見なければ分かりません。
・『教師』が『狂師』となる日。
今年の事件で、一年間でH教師が『280人』も明らかになりました。
日本中で、一年内に一か月で凡そ23人も、そうした事件がどこかの学校で起きている生臭い日本となったのです。
今日12/25のニュースです。
真面目な教師にはショックでしょうけど、学校とは『H』を教えてくれる場所となってしまっていませんか?
と、自問自答してみる時代だと言えます。
教育とは何かを根本的に習ってきたのか、又はもう一度学び直して採用試験を受ける必要があります。
真の『教育』に対する『情熱』はどこにかなぐり捨てたか、やる気が無い人がやる気の無い子供を教える時代になったのか、と思います。
昔は、教師が有り余っていると門前払いでしたが、今は、真の教師不毛の時代で、教師が足らないと言われている。
それは、『チグハグ』雇用と言います。
真の教師を発掘し、育てて来なかったことが問題と言える教育土壌があります。
需要と供給のバランスで農作物のように、真の教師も崩れたのです。
そうした体質を誰が作ってきたのでしょうか?
教師も生徒も歪んでいます。
『歪』(む)と言う字は、『不正』を縦に書くことです。
官公署のお役人もそうです。
何ら価値の無い・情けないお粗末な話です。
そうした事件は、ビックリする処か、知れば悲しくなります。見ない方が幸いです。
『知らぬが花』とか『知らぬが仏』と言いましたが、現代でもそれは言えます。
メンタルパワーの強い人に為らなければ、失望してやる気も失くなります。
・官公庁事件で覚えた用語としての言葉。
何かあれば、『減給』、『更迭』(こうてつ)、(自主退職の)『勧告』(早い話し、あんた自分から辞めてくれる!)と言う言葉を学んでしまいました。
『忖度』(そんたく)もありました。辞典を引いてみたら、『相手をおもんばかり、あれこれと腐心すること』などと書いてあり、良い意味だと思っていたら、事件は悪いことに当て嵌めて使用されており、分けのわからない事件でありました。
公務員など偉い人には特権があり、勝手に辞めさせる分けには行かないと言う条文があるのが両刃の剣となっています。
会議開催中の不逮捕特権なんて、法律で保護するほどの価値が被疑者に対してあるのでしょうか?
会議を中断して、犯罪の構成要件に該当するか、審議した方が良くは無いですか?
まぁ、まぁ、まあ。
そんなに焦らずとも。
そう言いますか?
やはり、法律は表側の『法治国家』ですが、物事の進み具合からすれば『放置国家』ですね。
亀やカタツムリの方が速いかも知れません。
(^-^)亀やカタツムリには端迷惑なことかも知れませんが。
🤣🐢?🐌?
どうやって、職員、スタッフは言い訳をするのか、聴いているとこうした種類の事件簿から、『本』が一冊書けますね。
↓↓↓
『今年の流行語となった言葉から学ぶ時事問題』。~これを読めばあなたも時事通に成れる!
学生必携の合格の為の手引き。
そうこうして、この『日本』はとうとうこんな社会になってしまったのです。
そもそも『日本』と言うイメージを『高評価』し過ぎていたのかも知れません。
それが『人間だもの』と言う言葉がありますが、その場合の意味は、良い意味では使いません。
『どうしようも無い者』、と言う意味しかそこには無いのです。
あのチコちゃんにカツを入れて欲しいと思います。
『ボーッとしてんじゃねーよー!』
昔のオヤジが言えば、角が立ち喧嘩に成るところ、チコちゃんに言われれば、笑って過ごせます。
しかし、チコちゃんのその言葉には、後々、良く考えてみれば『もっと頑張ろう!』と言う励ましを決意させる内面の力があります。
日本よ、もう一度自分を考え直して見ませんか?
チコちゃんに叱って貰いましょう!
そうこうして、私は三度目のあるblogのチャレンジを決意しました。
それは#138から始め、今日、立ち直りつつあり、やっと#142作品となったのです。
今、私は従来からのblogを含めると合計5つあり、とても忙しいです。
その中には、ずっと3か国を使いきり書いているモノもあります。
今、そちらのblogには、私のファンが100人着いて観てくれています。
やはり、日本語だけ、と言うのでなく、これからの日本は外国語、出来たら多言語の時代です。
日本語だけでは、外国の方には通じない方もおられ、今や日本語が日本人にさえ通じない時代です。
日本人でも外国語の好きな方ならば、外国語で話した方が理解が早い人もおられます。
日本人は告白をコクるとか、言っていますが、それは彼らにはかなりヤバイ意味になるそうです。😃🤣
外国語で尊敬しているをレスペクトしてます、と日本人に対しても使う日本人さえも最近は多いです。
コンビニに行っても、多言語併記されています。
私がみたそのコンビニのトイレには、五か国で併記されていました。
魅力ある看板・表示に私には思えました。
自分は『外国語はわからない』とか言っている内に、最後にはその方も『国際孤児』になりますよ。
自分がこれからどちらに向かって歩んだら良いのか、周りの外国籍の人の顔を見たとき、そのように思う迷子の子供のようにです。
・blogは人生を生きた自分の証し。
何万人がツイートしたとしても、それは大したことはありません。
日本人口や世界人口からすれば、何万人は何%でしかありません。
まだ10歳に満たない男の子のYouTuberの方がびっくりします。
子供でありながら、既に大学卒業と同じほどの知識と能力がある人もいました。
世界を廻って地球温暖化を叫ぶ立派な子供もいます。
大人は批判するばかりなので、子供にも批判されるのです。
子供が大人と違う点は何ですか?
それは簡単です。
大人の腰は重く、口は軽いことです。
中々、体のエンジンが掛からず、絶えずグルグル、グルグル、と音を立てているだけです。
子供は、フットワークが軽く、心も弾んでいることです。
今の子供は真っ直ぐです。歪んでいません。
それを何とも思わない大人の方が『不感症』と言う感情の病に掛かっています。
私は、子供の活躍が続けば、やがて10年した時に何が起きるのか『教育』の観点から予測して楽しんでいます。
ひなびて萎れて行く大人。
水を得て力を見せる小さな子供の花。
例え、それが他の人と『共有』出来ても、出来なくても、人が生きたことは、その人自身が一番良く知っているのです。
blogはシンパシー、エンパシー出来なくても、自分の日記となるのです。
人間とはアルタミラの洞窟時代以来、何かを遺し、何かを他の人に伝えたい生き物(者)なのです。
私の疾走した父親の物語は、続いており、今は韓国にいると言う情報が外国の友人から入ったのです。
そして、私はそれを確かめる為に、韓国へと飛んだのでした。
これからも、外国の友人が多い私の頭と言葉の中には、外国語がバンバン登場することに成るのです。
それが自分の一番の興味あるテーマであり、オリジナル物語です。
何かを突然失うこと、それは私にも辛いことでした。
150ほどの作品を失くせば電子的知的財産権問題です。
どうしてくれるのだ~と他の人のように大声を張り上げたいモノです。
私は『昇華』しようとしているのです。
既に二回も同じことがありました。
スタッフとは言え、アルバイトに少し毛が生えたような存在の人もいます。
プロ意識があるのか無いのか、この話の中にも出てきました。
人は高尚な理想を抱えて、プロの境地に達すまでには手間が掛かる筈です。
若くして『私はプロ』です、なんて人が、こんな狭い所にいる筈ありません。
私の友人でさえ、今、アメリカに仕事に行っています。
遊びではなくて、英語で仕事をするためにです。
坂本竜馬も広い海原を越えてアメリケンを見てきたのです。
剣豪、宮本武蔵も修行の旅に出ました。
反対に居心地の良い狭い屋根の下に『ソファー』に座りチマチマと指先を動かしていて、中毒になるより、外の世界を観るために散歩をし、世界に眼を向けるのは自分の為です。
そこには、無限の可能性のヒントがあることを自分の肌で知ることができるのです。
ふふふ。
©️Photo/Coments/story/Shanxi.#142.#みんなのブログ。『今年一年を振り返ると。』序論。