倭(王)武をヤマトタケルと読む癖がついたら
中国文献を読んでも ヤマトタケルと無意識に読み下してしまう 困ったもんだ
何で 何故中国との外交記録が書紀に記載が無いのだろう?
当時 現在の北朝鮮と中国の国境である鴨緑江の北岸
嘗ての漢の玄兔郡
高句麗の丸都であり平壌城でもある集安に都を置いていた高句麗
高句麗広開土王が楽浪郡を滅ぼし 後 長寿王が集安から楽浪郡朝鮮懸平壌に遷都した
これにおいて 高句麗が現在の北朝鮮全域を支配下に置いた
倭の五王がいた時代 半島に南下してきた高句麗の存在は 倭にとって脅威であった
任那加羅への宗主権の維持
勃興する新羅とたびたび戦闘を交わし 一旦は制圧し反抗を押さえてきたが
南下した高句麗が新羅の保護に向かい 対立は顕著になった
五世紀の出来事である
「宋書」 巻97蛮夷・東夷伝
倭國在高驪東南大海中丗修貢職
一般には知られていないが
高句麗は建国初期から遠からず 国名を高句麗から高麗へ変えている
高句麗国王の姓は 中国的姓 高氏である
与えられたのか 自称なのか定かではない
百済国王姓は中国的姓では餘氏であるが
夫余氏とも言われるので 複姓の原型があるのかも知れない
現地名では 国王は「於羅瑕」オルシ 妻は「於陸」オロである
百済国内の大姓は 沙氏 燕氏 刕氏 解氏(解慕漱の解姓である これは夫余の姓) 眞氏 國氏 木氏 苗氏 である
これらは 漢字一文字の単姓であるので 帰化漢人か 中華化した女真族と推定される
宋は 朝鮮半島南部にある国家群 任那・伽耶や百済も新羅の存在も承知した上でこの文章を書いている
高句麗の朝鮮半島における南限は現在の38度線
高句麗の東南大海中 つまり現在の韓国の領域と大海中が倭国の影響下にあった
髙祖永初二年(421年)詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除
太祖元嘉二年(425年)讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻
自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王
珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
倭は「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王」を宋に求めたが与えられなかった
百済が既に「都督百済諸軍事」を与えられていたからのように思う
「諸軍事」は その地域における軍事統制権を中国が認める事を意味する
現代的解釈では 中国と条約提携国相互の安全保障条約のようなものだ
二十年(443年)倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
この時点でも「安東將軍倭國王」
二十八年(451年)加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年(462年)詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職
新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王
興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
ここでも 認められていない
順帝昇明二年(478年)遣使上表曰
く封國偏遠作藩于外
自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
宋への上表文に 我が祖が 毛野国を含めた東の日高見国 西の九州の熊襲隼人及び耶馬台の残存勢力 及び朝鮮半島南部
これらを制圧したと述べている
王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫
而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不
百済経由の航海で朝貢しようと準備していましたが
無道な高句麗は邊隷(百済)を侵略略奪し遮るため 我らの朝貢の良風が失われ滞ていました
と 述べている
百済が倭の邊隷であるのか 宋の邊隷として記述したのかは ここからではわからない
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷
至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功
竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節>
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
ようやく「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」に叙された
帯方郡 現在のソウルまで侵入した倭を撃退した広開土王の顕彰碑にあるように
倭は 実質的に朝鮮半島南部を制圧下においていた
ここでようやく宋朝から除正されたが 百済軍事は除外されている
百済を除いた 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國への軍事権を賦与されている
政治的に弱体化していた宋にとって具体的防御国として
百済のほうが倭より価値があると判断したのかも知れない
だが これによって 倭と百済がとずっと同盟関係ではなかった事がわかる
百済も新羅も 倭へ人質を出していた
にもかかわらず 彼らには根深い反発があったのだろう
百済が倭と対立していた時期なのだ
高句麗と百済は同族 互いに戦っても 親戚同士の対立とも言える
この出来事は日本の過去であるが
倭が朝鮮半島南部と九州北部の連合体であった政治体制が
近畿を中央とし 列島の東西を統合した日本国家へ向けての政治体制の始まりでもある
しかし この様な流麗な六朝駢儷体 当時の正式な漢文である
漢文の知識素養が無ければ書けない文章だ
既に当時 倭には漢族の学者或いは官僚が存在していたと推定される
また これに関して 当然 宋からの使者が倭へ来たはずだが 記述がない
しかし 倭武って誰だ?