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倭と日高見連合から統一日本国へ 僅か1500年前かぁ

2019-03-19 02:49:57 | 極東古史考

一世代30年として ご先祖様を50世代遡れば1500年になる
大した昔の事じゃないな

高橋富雄氏の「古代蝦夷を考える」を読んで 考えてみた

現在日本に倭人はいない 縄文人もいない
嘗ては容貌も風俗も異なる異民族同士であったが
倭人でもない縄文人でもない日本人が出来上がった
当たり前だが 現在列島にいるのは日本人だけだ
混血種としての日本人しかいない

青と黄色が混ざれば緑になるし
赤と白が混ざればピンクになる
もし自分が過去に行ったら 倭人からも縄文人からも異民族として見られるだろう

最近のゲノム解析の論文などを読んでも
日本人の本格的混血が始まったのは以外に遅いように推定される
確実ではないが 飛鳥奈良時代前後と推定される
推古女帝 聖徳太子の頃以降
急速な混血のため痕跡が失われた

日本書紀巻第一 神代上
及至産時、先以淡路洲爲胞、意所不快、故名之曰淡路洲。
廼生大日本日本、此云耶麻騰。下皆效此豐秋津洲。次生伊豫二名洲。
次生筑紫洲。次雙生億岐洲與佐度洲、世人或有雙生者象此也。次生越洲。次生大洲。次生吉備子洲。
由是、始起大八洲國之號焉、卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋、皆是潮沫凝成者矣、亦曰水沫凝而成也。

日本書紀が出来たのは720年 訓にこのような注がある
日本、此云耶麻騰。下皆效此 (日本、此れをば耶麻騰「やまと」と云う。下皆此れにならえ)
当時 日本と言う漢字をヤマトと読む習慣はなかった
だから わざわざ日本をヤマトと読めと注を入れている
日本という漢字を使って 東西統一日本国家の概念を導入した

官僚制度や法律が整い 戸籍によって徴税制度が完備し 道路や海陸の交通流通インフラが整って
初めて国家と呼べるものになる それまでは部族社会連合で国家ではない
人々は東西南北 少ない危険で行き来出来るようになった
この時代以降 東西日本の混血は急速に進んでゆく

現在でも 日本の東西の文化の差は顕著である

弥生は 縄文と倭種の混合文化と推定される
局所的 散発的混血はあったが大規模ではない
互いに独自性を保ちながらも 縄文と倭の対立は比較的少なかった
弥生末から古墳期が日本で最初の戦国時代となる
倭の中心は北九州から近畿地方に移動し 東の勢力と対峙することになった

倭王「武」 倭の五王の最後の一人と言われる

倭武や大和尊や日本武は和語ではヤマトタケルと読む
書紀でも 王謂日本武尊也 と述べている

書紀の天皇編年は定かではないが 
景行天皇と日本武と称される人々の何らかの事跡を伝説として残しているのだろう
この時代 ヤマトは困難を伴いながら 九州と鈴鹿山系以東の地を制圧したのは確かだ
これによって 列島の統一化が一歩前進した様に見える

異民族同士の連合国家が日本と言える
倭人と毛人との新しい政治組織が出来
ヤマトに同化せず 列島の北で抵抗する人達を蝦夷と呼ぶようになった

しかし日本書紀では
本来の倭の歴史である卑弥呼や奴国の金印や倭の五王などの歴史は曖昧にされてしまった
神話の形でしか残っていない
当時は 武蔵・毛野・常陸が東の勢力の主要部だった これらの歴史は?
倭が毛人の国を併合吸収したのであれば 倭の歴史が主文となるはず だが消されている
倭が主流であれば 遣唐使の時の様に 中国との外交記録はきちんと記載されるはず
日本国の成り立ち 日本と言う漢字の国号 日本書紀には謎が多いな

 

大祓詞


大倭日高見國
安倍氏 藤原氏(中臣氏)橘氏は中央豪族と東夷との混血
元々は現地化し混血したヤマトの皇族を含め中央豪族と言えるが
鈴鹿山系以東の東日本の利益を代表する集団でもある

大雑把に こんな理解でいいのかな? 

このように征圧が必要な時代もあったのだな
互いに戦いながらも 連合協力の道を選んだわけだ

景行天皇廿七年春二月辛丑朔壬子、
武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。
亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」

秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。

冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。
戊午、抂道拜伊勢神宮、仍辭于倭姬命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、
倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」
是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」
日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情
王謂日本武尊、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。
一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。
王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津

爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國
時、大鏡懸於王船、從海路𢌞於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。
蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於
竹水門而欲距、然遙視王船、
豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望拜之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。
蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮

葦浦  千葉県安房郡江見町の吉浦
玉浦 千葉県夷隅郡の九十九里浜
竹水門 (常陸国多賀郡)茨城県、多賀郡・日立市・高萩市・北茨木市
甲斐國、居于酒折宮 山梨県甲府市酒折

於是日本武尊曰「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。
時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。
於是、分道、遣吉備武彥於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。

則日本武尊、進入信濃。
是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。
然日本武尊、披烟凌霧、遙俓大山。既逮于峯而飢之、食於山中。
山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。
爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。
吉備武彥、自越出而遇之。
先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。

日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒神、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。
至膽吹山、山神、化大蛇當道。爰日本武尊、不知主神化蛇之謂「是大蛇必荒神之使也。既得殺主神、其使者豈足求乎。」因跨蛇猶行。時山神之興雲零氷、峯霧谷曀、無復可行之路、乃捷遑不知其所跋渉。然凌霧强行、方僅得出、猶失意如醉。因居山下之泉側、乃飲其水而醒之、故號其泉、曰居醒泉也。
日本武尊於是、始有痛身、然稍起之、還於尾張。爰不入宮簀媛之家、便移伊勢而到尾津。

信濃國・越國 東山道西部地域及び北陸道全域
武藏 国 東京都下 埼玉県 神奈川県
上野 毛国の上毛野国今の群馬県   下毛野国 今の栃木県南部 鬼怒川(毛野川)以西 筑波と接す
碓日坂 碓氷峠 群馬県碓氷郡安中市
尾張 現愛知県西部東海道に属す 「終わり」が意味するようにヤマトの勢力圏の東端 鄙地域の始まり

最近は本を読む速度が落ちた
文章を何回か読み返さないと理解できなくなった
新しいことを覚える速度が遅くなった
老人になったのだから しょうがないか
 
夜中に目が覚めてしまった
春とはいえ夜は冷えるな
あったかいコーヒーでも飲もうかな

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