倭人 或いは 倭族は揚子江中下流域一帯の百越の一支族である
呉越同舟 細かい対立はあっても同族である
海洋民であり 稲作農耕民でもある 造船にも巧みであったと言う
倭族は我々日本人にとって大事な御先祖様達の一族である
もう一つ大事なのが 38、000年前列島に移住し定住し
その後16000年前頃縄文族となったご列島先住民としての御先祖様達だ
何時もの例えだが 混色によって新しい色が出来るように
混血によって 倭人でも縄文人でもない 新しい日本人が出来た
文献を辿る
王充作 「論衡卷第十九 恢國篇第五十八」
成王之時(BC1115年〜BC1079年) 越常獻雉 倭人貢暢 幽歷衰微 戎狄攻周 平王東走 以避其難
至漢 四夷朝貢 孝平元始元年(1年 中山王箕子即位漢之平帝) 越常重譯獻白雉一 黑雉二
夫以成王之賢 輔以周公 越常獻一 平帝得三
暢
「說文解字 巻五 鬯部」
一曰鬱鬯 百艸之華 遠方鬱人所貢芳艸 合釀之以降神 鬱 今鬱林郡也
鬱林郡
[桂平市 中国の広西チワン族自治区貴港市に位置する県級市
珠江最大の支流・西江と鬱江が合流する場所にある水運の要所である]
BC1000年頃 倭族はここにいた
徐福 斉国の琅邪郡の出身
琅邪は春秋時代 越国の都が置かれた所である
徐福の渡海は史実であるが伝説のように扱われている
種・籾・家畜を積み 童男童女3000人の他
技術者集団である工人や操船の船乗りを含めると総勢4〜5000人
100人乗りの船が40〜50艘で構成される大船団が東へ航海に乗り出した
生き残ったのは全員ではない 難破した船も多かったと思う
でも 済州島 南韓 日本各地に徐福伝説が残る
徐福は 失敗した時 始皇帝から罪過を問われるのを恐れ
各船の船長に徐福を名乗ることを命じた 40〜50人の徐福がいた事になる
万が一捕縛されても 徐福は死んだことに出来るし
運良く上陸出来た者同士で連絡しあえるようにしたという
各船が漂着した所は 徐福の上陸地と伝えられた
なお呉越楚において文字の使用例は少ない
建寧三年(170年) 列島では 桓霊の倭国大乱の頃
曹氏と列島の倭人との交渉だろう
曹操から 曹丕 曹叡に続く 魏と卑弥呼との関連もそうだが
曹氏一族と倭との接触はこの当時からあったらしい
曹嵩
[黄巾の乱に始まる後漢末の大乱を避けるために、徐州東北部にある琅邪郡に家族と共に避難していたが、子の曹操が兗州に地盤を確保したことから帰還しようとした。
だが、その途中で徐州牧陶謙の配下により殺害された。
父の死を知った曹操は復讐のため出兵し、徐州で殺戮を行なった。]
建寧三年(170年) その頃満州ではこのような事が起きていた
この頃でも 倭族の一部は中国国内に残留していた
当然 日本列島内の倭族とは全く無関係だ
倭族の共通の風習として村の外界に対しての結界としての鳥居がある
棟持ち柱 鰹木 千木は 首長の家のシンボルであった
「山海經巻13 海內東經」
鉅燕在東北陬
蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
朝鮮在列陽東 海北山南 列陽屬燕
山海経は時代もわからず信憑性も低いが
可能性として周末から燕国の最盛期まで 紀元前3、4世紀頃の記述と思われる
列陽は 列水の北 北山の南 列水については 古来いろんな注がある
遼東半島の 大遼水
遼東半島と朝鮮半島の境になる 鴨緑江
平壌を流れる 大同江
どちらにしても 蓋國 倭 列陽は政治民族集団であり 燕国に服属していた
倭の位置は朝鮮半島南部一帯である
紀元前3、4世紀頃 倭人は南韓にいた
倭人は元々中国にいた それ故 習慣として中国に対しての服属儀礼は欠かさなかった
古代の周礼を頑なに遵守し 現中国皇帝の認可を求めた
それは 倭の五王の頃まで続いたようだ
ヤマトが自立し 中国への服属儀礼が続いたのは 雄略天皇まで
タケルは 優れて強いものへの 九州地方特有の美称である
エミシは 優れて強いものへの 関東以北地方の美称である
「漢書 巻九十九上 王莽傳 第六十九上」
漢の平帝元始4年(4年)
越裳氏重譯獻白雉 黃支自三萬里貢生犀 東夷王度大海奉國珍
匈奴單于順制作 去二名 今西域良願等復舉地為臣妾 昔唐堯橫被四表 亦亡以加之
ここでは倭人が東夷王となっている 大海を越えて朝貢であるから
この時点で 倭人民族集団の一派は九州に国を作りあげていた
「後漢書巻85 東夷列伝第75」
[三韓]
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪 南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接。
凡七十八國 伯济是其一國焉 大者萬餘户 小者數千家 各在山海間
地合方四千餘里 東西以海為限 皆古之辰國也
[倭]
樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里
建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也
漢の楽浪郡を除く朝鮮半島領域に 狗邪韓国を含む倭はあったが
百済国も新羅国もなく 所謂三韓しか無かったようだ
狗邪韓国は伽耶国である 倭の諸国の中の有力な国の一つであった
朱蒙による高句麗国建国はBC37年だ
鴨緑江の右岸 今の中国遼寧省の東北域に国を興して94年後の史実が書かれている
当時 後漢の中国の歴史家は 倭は朝鮮半島南部と北九州に跨っていると認識していた
だから 三韓は東西が海で限られ 南は倭と接していると書いた
接すとは 陸上で隣り合う事だ
もし倭の領域が北九州だけであれば 「東西南海為限」と書くだろう
南朝鮮を韓と言うのは 中国の滅びた一国である韓国の王族と関わりがあるためだ
朝鮮半島南部には 馬韓 辰韓 弁韓 そして 狗邪韓 四つの韓国があった
三韓は一つの連合 狗邪韓は三韓ではない 倭族の国 それだけの事だ
倭の領域の西北は半島南部の狗邪韓国であり 倭の南限は奴國とした
奴國は朝貢の時 1000年前の古代中国の周礼に基づく官位である大夫を自称し
軍事上重要な自国の地理状態を奏上し 中国の史官によって記録されたと思う
この当時 倭は南韓と北九州にいた
倭族が中国大陸を離れた場所は山東半島 二度と中国に戻ることはなかった
ヤマト勃興後 朝鮮半島に残った倭族は やがて現地化し
伽耶や新羅を構成する民族の一部族となっていった
倭人と縄文人の本格的混血は
弥生末から古墳期にかけて起きたのだろう
又 古墳中期から後期にかけて
漢族系高句麗人 漢族系百済人 漢族系新羅人
夫余族系高句麗人 夫余族系百済人 穢族系新羅人
同時に
倭族系高句麗人 倭族系百済人 倭族系新羅人の帰化も多かった
当然彼等も 当時の列島人と混血し日本人となった
縄文の血を継ぐもの 倭人の血を継ぐもの 漢人の血を継ぐもの
彼等は いや 我らかも知れないが
列島内での 長い間繰り返した合従連衡によって混ざり合い 区別不能になった
日本人は 縄文人でも 倭人でも 漢人でもない
日本人は ご先祖様達の混血による 新種の列島人
歴史的に最新の日本列島人 それが現在の日本人
極 当たり前の結論になってしまったな
ところで コロナ
今度はトレペの買いだめか
昔 オイルショックの時もそうだったし
東日本大震災の時は 店の棚から全ての商品が無くなった
パニックか転売目的かわからんが 商品が無いのだから困る
しばらく 我慢だな