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古代 倭人は揚子江下流域住民であった

2019-05-21 16:55:13 | 極東古史考
倭人 彼らは 我々かも知れないが三々五々列島に定着した

黄河流域住民の主食は粟であった
揚子江住民の主食は米であった

栽培小麦が西方から伝わって食料になったのは漢代に入ってからだし

中国全域で米が主食となったのは唐代に入ってからとされる
隋が揚子江と黄河を結ぶ大運河を作り 
江南の米が大量に北に供給されるようになった それからの事だ

漢人の米食の習慣は日本より新しい
隋・唐も遊牧民が作った国家だ
漢人ではない
南中国の倭人が朝鮮半島や日本列島に稲作を伝えたのはまず確実だろう 

魏が認識した倭国は北が狗邪韓国 南が奴国 漢時の倭奴国だ
この領域を倭国と認識していた
使者を伊都国へ送り 魏の勅命を伝え これが倭の領域と認識していた
だが 本州の状態は認識していなかった

列島では 中国北部より早く 稲作が3000年前から始まり
倭種は列島各地で稲作を開始し 縄文人の倭化が進んでいった
言語も倭化していった

魏の時代 倭国の主勢力は畿内ヤマトであり
南韓や九州を勢力下に入れようとしていた
ヤマトタケル オキナガタラシヒメの伝承がそれを伝える
タケルの称号は 九州地域に於いて覇者を意味する

弥生後期から列島の第一次戦国時代は始まっている
旧 奴国の女王卑弥呼・壱与は悲劇の女王であったように思う
アマテラス大神 トヨウケの大神として伊勢に祀られた
滅ぼした国の姫神として大事に祀った
旧倭国は それ程重要な地域であったようだ

で 列島における倭人の最終的覇者が畿内ヤマトであった
縄文との混成勢力でもあった

陳寿は全て道里で記すと明言しており
もし水行なら云々 もし陸行なら云々と併記している
また耶馬台国或いは耶麻委国は100カ国中の30数カ国の連合で
戸数7万 女王が都する所は奴国 最大人口10万 全て博多地域にある

それ故 後に 遠の朝廷と呼ばれる大宰府が
南韓北九州の押さえの要として またヤマトの巨大な軍事出先機関として設置された
約2km四方 碁盤の目を持つ条坊制が取り入れられ 畿内藤原京に匹敵するほどの規模の都であった
ヤマトの「府」(つかさ)が設置された場所は博多と任那 2ヶ所だけで他の地方に例はない
中国における 都督 都護府に似ている様に思う

敵対していた旧倭国地域へのヤマトの出先機関と思われる
それだけ ヤマトにとって重要な地域であった
畿内ヤマトは 旧倭国をその存在と歴史を含めて吸収したようだ

日本書紀では 鏡 剣 玉は当時の九州の各首長が持っていた
三種の紳器は 王権の象徴ではあるが 特別のものではないらしい
倭人の風習だろう

当時 中国では「露布の原理」と言う記述方があったらしい
「破賊文書(軍事書類)は旧、一を持って拾となす」
当時の大本営発表に相当する 10倍に表記するのが普通だった


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