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遠い旅 歯形が辿る倭族の旅 110723篇

2011-07-24 00:11:36 | 極東古史考

ミトコンドリアDNA分析で倭族がかなり鮮明になってきた

中国は多民族国家である

漢族が中国人と言うのは間違いだ

隋 唐は東北民族であるし

渤海は高句麗であり 金は女直であり 遼はトルコ族であり 元はモンゴルであり 清は満州族メングである

だから 中国東北地方を 蒙州と言い 遼史に言う紫蒙の野と言う

音はメンチュウであり チモンである

 

又 漢は韓に通ずる

http://blog.goo.ne.jp/54taka2goo2/e/a9207ba07476764f1555d8e5029b4762

朝鮮と言う名前は もともと満州にあった

殷の箕子が建てた国だから

又 後の高句麗のご先祖は北京の東 孤竹国にある

当時 北京周辺は蛮族の地であり 周代に置いてようやく押さえた地域である

高句麗百済は同族である

新羅は 

http://blog.goo.ne.jp/54taka2goo2/e/8d2bfc089fb5fd0c8e86b0837dabd182

現代の韓国は 倭種と推定せざるを得ない

古の秦人が語る 阿残である

彼の地に残ったもの

海を渡らず その地に残った者を言う

狛は東胡であり 高句麗は狗であり 百済も狗 狛斉である

漢の武帝に 濊君アクリナロトは万の民を率いて投降した

 

百済が滅びた時

狛は 白丁として 奴隷とされたのだろう

苗字の漢字が2文字以上は モンゴル族 満州族の風習 復姓と言う

苗字が 金 朴 借 のような単姓は中国の風習である

又 金は 東胡の出自でもある

 

不思議な隣人だ

自らの歴史でも無いものを 

でも 一部は東胡の血を引くのだから

 

DNAが最も近い隣人である 韓国

その中国由来の がちがちな儒教思想 事大主義を捨てれば

仲良くできるかもしれない

 

倭は中国東北部からモンゴル バイカル地方で寒冷適応を受け

南下し 揚子江周辺にとどまり

文化を育み 他地域の文化の影響を受けたが 中国大陸の覇者となり得ず

東夷 

「山海教」に言う 巨燕の南にある倭として伝説に記録を残すのみである

その辿った道は

揚子江から海沿いに北上し山東半島を経て 海を渡り

遼東半島から遼東平野 そして朝鮮半島西側を南下し南端に辿りつき

加羅を起こし しばし留まり 対馬 隠岐 福岡 出雲へと移民を始め

倭国を作り始める

だからと言って 加羅地方はすでに独立国である

近親といえどもそれぞれ自主権はある

 

アリゾナ州立大学ベネディクト氏の言語学的研究によれば

日本語の起源は揚子江付近であると言う

香港やその近郊の中国南部の人の歯列は日本人によく似てると言う

又 泰山がある中国山東半島周辺から出土する古代の人骨は弥生人に最も近い

これだけでは定かにする事は出来ない

まだ確定は出来ないが 後の研究を待つ事にする

追記

中国での弥生人に最も近い人骨出土の墓の分布と

殷末から周代にかけての淮夷の分布と重なる

古の粛慎 後の靺鞨(マンジ) 更に後の女直(メンジ) (満州族)の1部族となったものもいるらしい

 

長白山は女眞(ジョルチン)族の聖なる山であった

高句麗の末裔である渤海は当初国号を辰国と言った

金もシンであり 清もシンと国を号した

古代の粛慎にもシンの音がある?

シンは金 満州族は自らを金の民と自称す

彼らは倭種ではない事は明白だが

 

 

東夷は日本語のような言語を話していたのだろうか?

弥生の遺跡には何故漢字が残っていないのか?

沿岸航海の技術はあったようだ

また 海浜採集民らしく 遠くへ出る時は種モミ家畜などを乗せていたようだ

又 冶金の技術者や陶工  建築の技術者も 織物の技術者も同船していたようだ

ポリネシアの様なカタマラン形式であれば十数人は乗れる

100艘の船で千数百人運べるだろう

万人を運ぶとなるとその建造費用や食糧とか膨大な費用がかかる

周の時代であるから 沿岸航海でも陸からの攻撃もあったろう

最も中国はその時代は領域国家ではなく 

城と言う点と 道路と言う線を支配していただけの国国の集まりであった

 

山東半島の沿岸を回り蓬莱から島伝いに旅順あたりで遼東半島に着き

そこから鴨緑江河口から朝鮮半島西岸を南下し釜山から対馬隠岐博多平野へとのルートが危険が少ない

北九州は北緯33~34度 揚子江や淮水と同緯度だ

持ってきたジャポニカの水田栽培にはぴったりの気候の場所でもある

縄文晩期の縄文人の人口

九州 5625人
山陰山陽 4545人
四国 1130人
近畿 2640人
東海 17700人
中部 7540人
越前越後 7540人
関東 9045人
東北 22250人

たったこれだけしかいない

やって来た弥生人とて万は行かないだろう

それも時間をかけてパラパラとやって来ただろう

人口の急激な増加はやはり食糧の増加によるもの

縄文人との戦いもあり又融和もあっただろう

現代日本人には縄文の血も未だ色濃く流れているのだから

遠く時の旅

暑いな今日は 夏が戻ったか

 

 

 

 

 


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