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AB19450916VIRGO
 

年の暮と歳の暮れ かぁ・・・ 似てるな

2010-12-23 15:59:24 | 日記

祇園精舎の鐘の聲

諸行無常の響あり

娑羅雙樹の花の色

盛者必衰のことはりをあらはす

おごれる人も久しからず

只 春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ

偏に 風の前の塵に同じ

今日は朝から窓を開け はたきをかけ 埃を飛ばし

窓のサッシなどを雑巾で拭いた

風がとても強いので 埃が窓から飛んで行くのが逆光で見える

掃除機を階段も含めて 隅々まで念入りに

 

外の物置の脇に

もう使わなくなったK太の虫取り網 竹箒 熊手など何年も転がったまま

鋸と剪定バサミで分別ゴミに出すため短く切る

物干し竿は足で踏んで曲げ 小さく短くして紐で縛って金属ゴミに

ついでに 並んでいる植木鉢を道路に外し汚れたレンガタイルの泥を洗い流す

 

風が強いので 涙が出てくるし 鼻水が垂れる

綿入れのちゃんちゃんこを着てるので寒くは無いが

俺は本当にじじいになったんだなと実感した


10時とりあえず掃除終了

きれいになった窓辺に妻が買ってきた花を置いた

 

風は強いけど 空が高い山で見るような青かったので

借りている駐車場へ行き 車の窓を全開にして

お日様の暖かい光で 司馬遼太郎の単行本を読んだ

眠くなるような 無為の時間が休まる

 

歳をとるまで欲しくても持てなかったもの

それが 一人時間だ

金持ちにも貧乏人にも いい人や悪い人にも 

悲しい人生を送った人にも 楽しい人生を送った人にも

病気で苦しむ人にも 健康で元気な人にも

平等に 完璧に 死はやって来る

遅いか早いかだけで 必ず来る

 

27歳の時 親父が交通事故で死んだ時

死が目の前に現れた

死は親父というバリアの向こうにあったのだ

それまでは死は抽象概念にしか過ぎなかった

あの時 死は自分にとって現実の手で触れられるものとなった

 

慣れとは恐ろしいもんで

 

それ以来 死は 世間さまと同じように 自分にとって現実の一部にしか過ぎなくなった


今朝道路掃除をしていて

冬 日は遅い

自分は休日だが 通勤の人たちが 車達が行き交う

 

日は又昇ると言うが

後 何回日の出を見られるのだろう?

でも そんな事はどうでもよく

カメラだ いい風景だ 家にカメラを取りにいった

 

写真は好きでも嫌いでもない

自分の手足が好きでも嫌いでもないように

意識する事が無くなってしまったように思う

昔 金が好きだったし 女も好きだったし 美味しい食べ物も好きだったし 危ない事も好きだった

今 やはり好きでも嫌いでもなくなった

あるもよし 無くてもよし

でも 金も食い物も 全く無いのは ちと困るが

素晴らしい人生では無かったし 最悪の人生でも無かった

こんなもんだろう自分は

 

年の暮は大掃除をし 来るべき新年へ向かってこの1年を反省し

無事に 

ま いろんな事はあったにせよ 暮れを迎える事に喜ぶべき

歳の暮れには 来るべき死という新年に備えて

身辺を片づけ身一つにし

元気で すがすがしく迎えたいものだと思う

 

これは俺の願望

望み通りにならないのが人生

その時 のたうち回っているかもしれないが

死ぬる時は 死ぬのがよろしいと良寛さんが言った

そうだな そして

生きる時は 生きるがよろしい

で いいんじゃないかな

 

ま いいか

 

 



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