スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
どこかの誰かにも読んで欲しいと思い書き残します。
死体の山
わたしたちは、6畳ほどの広さに 2家族9人が暮らしていたので、狭くても独立した家であり、周囲の影響をあまり受けなかったが、
工場のようなだだっ広いところに、大勢が住んでいる場所では、次々と病気がひろまり死んでいった。
また、日本に帰れないという失意のあまり、井戸に身を投げて死んだ人も多かった。
峰さんたち大人は、こうした人を○○を作って深い井戸から毎日のように引き上げていた。
死んだ人たちを空き地に積んで焼いていたが、冬に雪が積もっている時は、空き地の雪の上にたくさん死骸が積んであり、野犬のエサになって、
春、雪が解け、骨だけになった人たちの、頭蓋骨や肋骨や手や足の骨がそこらじゅうに転がっていて、
わたしたち子供は そんな骨も遊び道具のひとつだった。
引き揚げ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/6a/231817c9eb861d1662037c77e9b45733.jpg?1614129290)
終戦の翌年、夏のころだったと思うが、日本に引き揚げることができる!とみんなが喜んでいたのが印象に残っている。
食料を準備するためにと、おばさんがどこかへ買い出しに行き、わたしはついて行った。
腹に巻いてもらっていた胴巻きの金は、底に穴があいていて、とっくに無くなっていた。
その時は、大事な金がなくなったと、おばさんはオロオロするし、「わしは死ぬる」と大騒ぎした。
おばさんの買い出しについて行き、乾パンを買った記憶がある。
鍋をもったか、釜を持ったか、何を持ったかは さっぱり思い出せないが、人並みには荷物を背負って出発した。
引き揚げ船に乗る
家を出てから何日も歩き、野宿をし汽車に乗り、また歩いた。
汽車は 牛や馬や豚を乗せる貨物車だったり、囲いのない ただ土台だけの無蓋車だったりで、人が乗る汽車ではない。
そこに、潰れて死ぬのではないかと思うほど詰め込まれた。
現実に窒息死した人もいたと聞く。
汽車の中で死んだ人は、走っている汽車から捨てられた。
汽車が停車すると、男も女も一斉に降りて、いつ汽車が出てもすぐ乗れるように、線路の脇で、何百人もの人が大便をする。
大変な景色ではあるが
それは今だから思うことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/34/2d5fac74df48f10138922c2d78b441eb.jpg?1614130173)
他のサイトより引用
船の先端が鯨の口のように大きく開く所から乗り込んだ、戦車上陸用舟艇はたいへんに揺れた。
わずかな船旅の間にも、日本を目の前にしながら たくさんの人が亡くなり、何度も水葬を見た。
水葬をした場所を、船は汽笛を鳴らしながら一周するのだ。
船に乗る前に、引き揚げ者全員、頭から服の中までDDTをかけられ、シラミ退治をした。
おかげで、痒さから決別できたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/74/f6af01b1248ab553d10cd74523f972a2.jpg?1614649033)