そして 戦後
おばあさんの苦労は当時たいへんなものだった。
着て帰った服は 日本では着れるものではなく、
その夜は、十一叔父さんの物で間に合わせたが翌日から着るものがない。
おばあさんは、わたしよりも少し大きな子供のいる家へ行き、古着を譲ってもらうのに走り回った。
何とか恰好がついたので、小学校に転入である。
何年生かと聞かれたので「3年生です」と答えると、校長先生が 3年生の教科書を持ってきて、
ここを読んでみなさい と言う。
まる一年勉強していないので、うまく読めなかった。
2年生のは何とか読めたので2年生に入ることになった。
一緒に日本に帰った高村のきみちゃんも本当の年よりも一級下に転入した。
おばあさんは学校の道具も集めなくてはならない。
教科書、鞄、ノート、下敷き、鉛筆、消しゴムなど一切合切なんにも無いのだ。
もらいに行ったり買いに走ったり。
当時 教科書は、進級して要らなくなったものを、全教科 人に譲り渡していた時代だった。
子供時代に、わたしがおばあさんに口ごたえしたり、言うことをきかなかったり、悪いときには
この時どんなに苦労したかを持ち出して
「満州へかえれ!」と怒ったものだが、しかし、そんな小言をいいながらも大変に可愛がってもらった。
最後に
ここから 父の日記は少年期、青年期、就職後と続く。
わたしたち兄弟が幼い頃は
父と一緒に日本へ帰ってきた大人たち、父を連れて帰ってくれた命の恩人たちと交流があったが、
次第にその方々の子、孫が世帯主になり、ついに父の葬儀を最後に縁がなくなった。
両手で抱くことができるくらい小さな小さな満男さんと照男さんの 遺骨の無い二つの墓石は、
わたしたちが幼い頃から 、父に連れられて毎年数回 墓参りをしていたが、
父の他界した翌年には撤去してあり、
とても立派な○○家 先祖の墓が建てられていた。
そうして、少しずつ時が流れ
いろんなことが変わって行き
父の人生も消滅していく。
こうやって、父の思い出を、
誰かが読んで知ってくださったことを たぶん喜んでくれてるんじゃないかな。
お読みいだだきありがとうございました。