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父の終戦と満州ひきあげ記 6〈引き揚げ〉

2021-03-06 19:29:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
どこかの誰かにも読んで欲しいと思い書き残します。




死体の山

わたしたちは、6畳ほどの広さに 2家族9人が暮らしていたので、狭くても独立した家であり、周囲の影響をあまり受けなかったが、

工場のようなだだっ広いところに、大勢が住んでいる場所では、次々と病気がひろまり死んでいった。


また、日本に帰れないという失意のあまり、井戸に身を投げて死んだ人も多かった。

峰さんたち大人は、こうした人を○○を作って深い井戸から毎日のように引き上げていた。


死んだ人たちを空き地に積んで焼いていたが、冬に雪が積もっている時は、空き地の雪の上にたくさん死骸が積んであり、野犬のエサになって、

春、雪が解け、骨だけになった人たちの、頭蓋骨や肋骨や手や足の骨がそこらじゅうに転がっていて、
わたしたち子供は そんな骨も遊び道具のひとつだった。




引き揚げ



終戦の翌年、夏のころだったと思うが、日本に引き揚げることができる!とみんなが喜んでいたのが印象に残っている。


食料を準備するためにと、おばさんがどこかへ買い出しに行き、わたしはついて行った。

腹に巻いてもらっていた胴巻きの金は、底に穴があいていて、とっくに無くなっていた。



その時は、大事な金がなくなったと、おばさんはオロオロするし、「わしは死ぬる」と大騒ぎした。



おばさんの買い出しについて行き、乾パンを買った記憶がある。
鍋をもったか、釜を持ったか、何を持ったかは さっぱり思い出せないが、人並みには荷物を背負って出発した。




引き揚げ船に乗る

家を出てから何日も歩き、野宿をし汽車に乗り、また歩いた。


汽車は 牛や馬や豚を乗せる貨物車だったり、囲いのない ただ土台だけの無蓋車だったりで、人が乗る汽車ではない。
そこに、潰れて死ぬのではないかと思うほど詰め込まれた。
現実に窒息死した人もいたと聞く。



汽車の中で死んだ人は、走っている汽車から捨てられた。
汽車が停車すると、男も女も一斉に降りて、いつ汽車が出てもすぐ乗れるように、線路の脇で、何百人もの人が大便をする。
大変な景色ではあるが
それは今だから思うことである。
他のサイトより引用



船の先端が鯨の口のように大きく開く所から乗り込んだ、戦車上陸用舟艇はたいへんに揺れた。


わずかな船旅の間にも、日本を目の前にしながら たくさんの人が亡くなり、何度も水葬を見た。
水葬をした場所を、船は汽笛を鳴らしながら一周するのだ。


船に乗る前に、引き揚げ者全員、頭から服の中までDDTをかけられ、シラミ退治をした。
おかげで、痒さから決別できたのである。











父の終戦と満州ひきあげ記 5〈ソ連兵と内戦〉

2021-03-04 20:16:00 | 日記
肺癌でなくなった父が私たち家族に残した幼い日の記録を

ブログをとおして誰かにも読んで欲しいと思い書き残します。
父の満州の思い出を。


ソ連兵の侵攻

開拓団本部を幾重にも取り巻いていた満人たちは、しばらくは騒いでいたが、そのうち居なくなり落ち着いてきた。

治安もよくなり、近くの空き家になっている民家に、わたしたちは移り住み 生活するようになった。

そんなある日、ソ連兵が侵攻してきた。

噂は聞いていて、若い男はみな連れて帰って働かされる。とか 女は暴行される。というので
女性はみな、丸坊主になり、男性の服を着て男性の格好をし、若い男性は隠れていた。

兵隊たちは噂どおりで
一軒一軒、探し歩いた。

たくさんの人たちが捕まって連れていかれたし
「用の済んだ女性をむごい殺しかたしてる。」
と 大人たちが話していた。


他のサイトより引用
うちにも来た。
家の中を探し回ったが、わたしとおじさんだけがいて、峰さんとおばさんは屋根裏に隠れていた。
何回もやって来た。


日本人から取り上げた腕時計は、両腕に何個も、肩のほうまではめていて、万年筆はポケットにいっぱい差していた。

珍しいものはどんどん掠奪していった。
とは言うものの、皆 着のみ着のまま逃げてきているので、ろくなものはなかったはず。

わたしたちも、空き家になった日本人の家へ生活道具を探しにいって、役に立ちそうなものは持って帰っていた。

ソ連兵は ところかまわず やたらと自動小銃を乱射していた。



中国人同志の戦争
ソ連兵がいなくなって しばらくすると中国人同志の争いが始まった。

侵攻してきたのは、国防軍と呼ばれるもので、大人たちが話しているのによると、わたしたちに危害を与えない、いい軍隊だ とのこと。

しかし 悪い軍隊が攻めてくる という噂が出始めると、いつのまにか国防軍がいなくなり、
服装の悪い、武器のお粗末な兵隊が侵攻してきた。

大人たちは この軍隊を八路軍と呼んでいた。
これらの兵隊の中には、日本人もたくさん混じっていると噂されていた。

当時のわたしにはわからなかったが、これが蒋介石と毛沢東の戦争だったようで、
この内戦のために、道路や鉄橋が爆破されて、そのために日本への引き揚げが随分おくれたことは、大きくなってから知った。



衣食
終戦まで使用人として働いてくれた満人の家に、食べ物や着るものをもらいに行った。

くれるのは、家畜に食わせるコウリャン、エサのトウモロコシで 真っ赤なコウリャン飯やトウモロコシの粥を食べた。

それでも 食べ物があるのは大変にありがたいことで、栄養失調で死んだ人はたくさんいた。

春になると、食べられる草やつくしを山ほど取ってきて食べ、満人の家の豚を野原へ峰さんと連れていって草を食べさせ、お礼に食べ物をもらった。
大きな豚の背に乗って、野原へでかけた。


秋には、満人だか朝鮮人だか覚えていないが、稲の穂だけ摘み取って収穫しているので、
稲穂がたくさん落ちている。

それを田んぼに拾いに行き、瓶に入れて棒で突き、もみ殻をとって玄米ご飯。
どんなに美味しくてどんなに幸せを感じたことか!




冬には、雪の山にワナをしかけ、ウサギを捕ったり、雪をはねてエサをまき、雀を捕って食べたり 、わけのわからない幼いわたしには、楽しいことばかりだったような気がする。
また 近所の畑で何か作って収穫していたような気もする。

着るものも満人にもらった。
布で縫った靴、布に綿をいれた手縫いの服。
おかげで冬も凍え死ぬことはなかったが、一年中それ一着だから、ぼろぼろになっていた。

頭にも服の縫い目の中にも 、縫い目に頭を突っ込んで尻だけをだしたシラミがびっしりいて、
これをつぶすのも日課のひとつだった。
のみと違い、シラミは逃げ足が速くないので、つぶすのは簡単だった。





父の終戦と満州ひきあげ記 4〈開拓団本部と青酸カリ〉

2021-03-02 20:34:00 | 日記
スマホでブログを投稿できる、そして誰かに読んでもらえる。

父の残した満州からの引き揚げの記録も
どこかで誰かに読んでもらえたら嬉しいです。




日本人じゃ

カラスが飛んでいった方向へとわたしたちが移動していると、明かりが見え始めた。

それは焚き火の明かりで、周りにはたくさんの人がいるようだった。


建物のようすから「開拓団本部だ」とおじさんが言い、
「満人かもしれない、偵察してくる」と地面を這うようにして出ていった。





帰ってきたおじさんは
「日本人がおるど!みな日本人じゃ!」と叫んだ。


そこには、よその村からも集まった日本人がたくさんいた。
市村の人もいた。


どこにもいなくて、心配していた峰さんも、そこで無事に再会することができ、みんな大喜びをした。
峰さんは槍で突かれて、頭と腿にひどい怪我をしていた。



避難した開拓団本部

開拓団本部では、 広い板間の一角にわたしたちはいて、身動きがとれないほどの人の多さだった。


すぐ次の日だったか その翌日か

どうせ日本へは帰れない死ぬ以外にない と市村の人たちで話し合った。
 


死のう、と決まり
誰かが開拓団本部の診療所へ青酸カリを取りに行った。





青酸カリ

開拓団本部の診療所に取りにいった青酸カリを水に溶かして、市村の人だけが集まって次々に飲み始めた。

飲んだ人は口を押さえて表に走って出ていく。

母の隣にいた、高村のおばさんが便所に行ったので、次の番だった母がガラスのコップで飲み、弟の照男に飲ませた。

わたしはそれが何だかわからなかったので、白っぽくて砂糖水のように見え、早く飲みたくてしかたがなかった。

そのコップをわたしが受け取った瞬間に誰かが叫んで コップを取り上げた。
水の入った鍋もとりあげられた。



母は建物の様子がわからず、みんなが出た方角とは逆の裏へ 照男を抱いて出てしまった。


早く表に出た人たちは、苦しくて、みんなが出てくるのを待ちきれず、円陣をくんで、手榴弾を何発か投げ、自決した。


腕や足や肉片がそこらじゅうに飛び散っているのを、わたしはあとで見た。


裏へ出てしまった母は、随分狂って死んでいったそうで、
それ以上に照男はなかなか死ねず、相当の時間が かかったらしい。


”こんなちいさな子が生きのびてくれたらどうしよう “
と心の中で思った とあとでおばさんは言った。








父の終戦と満州ひきあげ記 3〈終戦と満人の襲撃〉

2021-02-28 19:43:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
父の幼い日の記録を誰かに読んでもらいたくて書きます。




満人の襲撃

坂本のおじさんが武器を本部におさめて 帰ってきて、馬を杭につなぎ終えるか終えないかくらいの時に
金だらいやバケツをガンガン鳴らしながら、何百人という大勢の満人が 口々にダース、ダースと叫びながら村になだれ込んできた。




外にいた家族は みんな 家の中に逃げ込み戸を閉めたが、
鍬を改良した槍で開口部を突き壊されてとうとう家の中に入ってきた。





最初は家の中でバラバラになっていたわたしたちは、だんだん追い詰められて一番奥の部屋にひとかたまりになっていた。

どうしようもなくて、ついに満人の中をかき分けかき分け、必死で出口に向かって逃げた。



外に出るまでに、みんなは相当 叩かれたり槍で突かれたりしたらしい。

わたしは小さかったのが幸いしたのか、子供だから手心を加えてくれたのか、何ヵ所かをやられただけで、外に出ることができた。

逃げこんだ満人の家で 見つかったが
わたしが必死に「しぇーしぇー」と繰り返す姿を見てか、見逃してくれた。



どのくらいたっただろうか。


騒がしかった音や声が静かになったのでおそるおそる外に出てみると暴徒がいなくなっている。

家へ戻ったら、みんな血まみれになっていた。



わたしの無事な姿を見て、母やまわりのみんながとても喜んでくれた。

あたりは既に薄暗くなっていた。
壊れた家で休んだり、傷の手当てをしている人。
瀕死の状態になった人。

動かないあきらさんを馬車に乗せていたおじさんは、襲撃の際に便所に入っていて 出たところを満人につかまり、羽交い締めにされて棒でなぐられたので服が脱げなくなるほど体中が腫れていた。


瀕死のあきらさんは、家の中に入ることができず、ひとりだけ乾燥場へ逃げて滅多打ちにされたので 、
乾燥場の随分高いところまで血が飛び散っていた。

満男も照男も無事だった。
母が必死に守ったのだろう。
母は頭が血だらけで、髪がぐちゃぐちゃになり、固いはずの頭がずやっとした。

今から思えば、のちに青酸カリを飲んでいなくても、あの状態では生きて日本に帰ることはできなかっただろう。







夜 ふたたび襲撃

しばらくすると
また、バケツや金だらいを打ち鳴らし、うわぁーと叫ぶ大勢の声がして満人が襲撃してきた。


馬はおどろいて 馬車にあきらさんを乗せたまま走り去り、わたしたちは必死でトウモロコシ畑を駆け抜け、湿地の中に逃げこんだ。



どのくらいたったのだろう、わたしは腹が減り、水が飲みたくてたまらなくなった。
それを母に言うと、足元にあった水を両手ですくって飲ませてくれた。
それは泥水だった。

こんな水でも飲めるんだなあ と思ったので、強く記憶に残っている。

そのうち、皆が死ぬ話をはじめた。
じゃあ薬を取りに帰ってくる とおじさんが戻っていった。


しかし おじさんは「薬はなかった。」と戻ってきた。
家の中の物は 何一つ残ってはいなかった。
土間やオンドルの下も 鉄の棒でトントン突いて、音の違うところは全部掘り返したらしく、
箸一本も残ってはいなかったそうだ。


わたしは、みんなが死のうと言っていたとき、死にたくないなぁと思っていたから、この話を聞いてホッとした。




カラスの案内


湿地の中で死ぬことをあきらめたわたしたちは、移動をはじめたが、辺りは木や草が繁り、足元はべとべとの水溜まりで、真っ暗な中 どっちに行けばよいのかわからず 困り果てていた。


頭上で一羽のカラスが カァカァ鳴いて ぐるぐるまわり始め、しばらくして飛んでいった。



大人たちは「 カラスが案内してくれている。あっちへ行ってみよう。」と言い
カラスが飛んだ方角へ歩きだした。


どのくらい歩いたか、何時間歩いたかわからないが遠くで 人の声が聞こえ始めた。


満男が乳を欲しがって泣きやまないし、
この声が満人に聞こえたらまた襲われる との心配から母は意を決し、わたしたちから離れ、自分の腰ひもを使って満男の首を絞めて殺し、その場に置いてきた。


照男は母の静かにしなさい と言うのを守って、ずっと静かにしていた。











父の終戦と満州ひきあげ記 2〈開拓団の生活〉

2021-02-26 20:27:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。

肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
私たち家族だけではなく
どこかの誰かにも読んで欲しいと
知ってほしいと思い書いています。


開拓団での生活



開拓団では、すべてが馬だった。
畑を耕すのも出掛けるのも。


鞍をつけずに どんごろす をのせ、その上にのるのだが、わたしには馬の背が高すぎて乗れないため 峰さんに抱き上げてもらい乗っていた。


尻が痛くなり 赤くはれていた覚えがある。



満州の記録サイトより写真引用



照男と満男

照男は当時5才だった。
おとなしい子で、あまり記憶に残っておらず申し訳ない。
満男は誕生日が来たと 母が言っていた。
乳牛がいて、毎日乳しぼりをやっていた。毎日 牛乳ずくめ。水のかわりに牛乳を飲み、飯にも汁にも牛乳が入っていて、伝い歩きをしていた満男が みるみるうちに まん丸くなり、可愛くなったのを覚えている。



開拓団の学校


小学校は馬車で通った。
峰さんと二人の時もあれば、村の女の子二人を乗せて行くこともあった。


最初の頃 峰さんが
「しっかり持っていないと橋が落ちるど」と、橋の上を通るたびに言うので、本当かと思って馬車にしがみついていた。
今から思うと、変な話だ。
馬は校庭につないでおく。学校の帰りには、湿地の中で“かえどり”をして 魚をたくさん採った。大きなナマズがいた。



学校の授業は遅れていて わたしは天狗になっていた。



女の子はひとりは坂本といい、同級生だった。
のちに手榴弾で、親と一緒に死んだ。
もうひとりは高村きみちゃんで1級上。
満州から引き揚げて 、市村小学校に一緒に転入した。


のちに青酸カリを飲んで死ぬことになった時、
きみちゃんの親が飲む番になって便所に行き、その次の順番だった わたしの母が飲んで死んだのだ。







他の記録サイトより引用写真




日本が敗けた


大人たちが 日本は敗けたと話をしていたが、わたしには意味がわからなかった。


それ以来、あきらさんや峰さん、その他の大人が鉄砲を持って、高い乾燥場にあがり警戒をする日が続いていたが、
ある日、『武器を納めよ』と命令がきたらしい。



武装解除は心配だ と、言ってはいたが、
命令だからと、それぞれ家にある武器を開拓団本部に持っていく話、誰が持っていくのかという話をしていた。



たくさんの38式歩兵銃や、性能のいい銃、弾薬を馬車に積んでいる姿を覚えている。
それまでは 家で大人たちが、よく銃の手入れをしていた。


満人が襲ってきたら、と 家の開口部には全部トタンを張り、大切なものは瓶に入れて、家の中の土間やオンドルの中に入れて隠した。


おそらく 日本が敗けたら”満人の襲撃があるかもしれない“という噂が あったのだと思う。


大切なお金は、ひとりひとりに分けて、胴巻きにして腹に巻きつけた。
わたしも持たされていた。