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父の終戦と満州ひきあげ記 3〈終戦と満人の襲撃〉

2021-02-28 19:43:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
父の幼い日の記録を誰かに読んでもらいたくて書きます。




満人の襲撃

坂本のおじさんが武器を本部におさめて 帰ってきて、馬を杭につなぎ終えるか終えないかくらいの時に
金だらいやバケツをガンガン鳴らしながら、何百人という大勢の満人が 口々にダース、ダースと叫びながら村になだれ込んできた。




外にいた家族は みんな 家の中に逃げ込み戸を閉めたが、
鍬を改良した槍で開口部を突き壊されてとうとう家の中に入ってきた。





最初は家の中でバラバラになっていたわたしたちは、だんだん追い詰められて一番奥の部屋にひとかたまりになっていた。

どうしようもなくて、ついに満人の中をかき分けかき分け、必死で出口に向かって逃げた。



外に出るまでに、みんなは相当 叩かれたり槍で突かれたりしたらしい。

わたしは小さかったのが幸いしたのか、子供だから手心を加えてくれたのか、何ヵ所かをやられただけで、外に出ることができた。

逃げこんだ満人の家で 見つかったが
わたしが必死に「しぇーしぇー」と繰り返す姿を見てか、見逃してくれた。



どのくらいたっただろうか。


騒がしかった音や声が静かになったのでおそるおそる外に出てみると暴徒がいなくなっている。

家へ戻ったら、みんな血まみれになっていた。



わたしの無事な姿を見て、母やまわりのみんながとても喜んでくれた。

あたりは既に薄暗くなっていた。
壊れた家で休んだり、傷の手当てをしている人。
瀕死の状態になった人。

動かないあきらさんを馬車に乗せていたおじさんは、襲撃の際に便所に入っていて 出たところを満人につかまり、羽交い締めにされて棒でなぐられたので服が脱げなくなるほど体中が腫れていた。


瀕死のあきらさんは、家の中に入ることができず、ひとりだけ乾燥場へ逃げて滅多打ちにされたので 、
乾燥場の随分高いところまで血が飛び散っていた。

満男も照男も無事だった。
母が必死に守ったのだろう。
母は頭が血だらけで、髪がぐちゃぐちゃになり、固いはずの頭がずやっとした。

今から思えば、のちに青酸カリを飲んでいなくても、あの状態では生きて日本に帰ることはできなかっただろう。







夜 ふたたび襲撃

しばらくすると
また、バケツや金だらいを打ち鳴らし、うわぁーと叫ぶ大勢の声がして満人が襲撃してきた。


馬はおどろいて 馬車にあきらさんを乗せたまま走り去り、わたしたちは必死でトウモロコシ畑を駆け抜け、湿地の中に逃げこんだ。



どのくらいたったのだろう、わたしは腹が減り、水が飲みたくてたまらなくなった。
それを母に言うと、足元にあった水を両手ですくって飲ませてくれた。
それは泥水だった。

こんな水でも飲めるんだなあ と思ったので、強く記憶に残っている。

そのうち、皆が死ぬ話をはじめた。
じゃあ薬を取りに帰ってくる とおじさんが戻っていった。


しかし おじさんは「薬はなかった。」と戻ってきた。
家の中の物は 何一つ残ってはいなかった。
土間やオンドルの下も 鉄の棒でトントン突いて、音の違うところは全部掘り返したらしく、
箸一本も残ってはいなかったそうだ。


わたしは、みんなが死のうと言っていたとき、死にたくないなぁと思っていたから、この話を聞いてホッとした。




カラスの案内


湿地の中で死ぬことをあきらめたわたしたちは、移動をはじめたが、辺りは木や草が繁り、足元はべとべとの水溜まりで、真っ暗な中 どっちに行けばよいのかわからず 困り果てていた。


頭上で一羽のカラスが カァカァ鳴いて ぐるぐるまわり始め、しばらくして飛んでいった。



大人たちは「 カラスが案内してくれている。あっちへ行ってみよう。」と言い
カラスが飛んだ方角へ歩きだした。


どのくらい歩いたか、何時間歩いたかわからないが遠くで 人の声が聞こえ始めた。


満男が乳を欲しがって泣きやまないし、
この声が満人に聞こえたらまた襲われる との心配から母は意を決し、わたしたちから離れ、自分の腰ひもを使って満男の首を絞めて殺し、その場に置いてきた。


照男は母の静かにしなさい と言うのを守って、ずっと静かにしていた。











父の終戦と満州ひきあげ記 2〈開拓団の生活〉

2021-02-26 20:27:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。

肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
私たち家族だけではなく
どこかの誰かにも読んで欲しいと
知ってほしいと思い書いています。


開拓団での生活



開拓団では、すべてが馬だった。
畑を耕すのも出掛けるのも。


鞍をつけずに どんごろす をのせ、その上にのるのだが、わたしには馬の背が高すぎて乗れないため 峰さんに抱き上げてもらい乗っていた。


尻が痛くなり 赤くはれていた覚えがある。



満州の記録サイトより写真引用



照男と満男

照男は当時5才だった。
おとなしい子で、あまり記憶に残っておらず申し訳ない。
満男は誕生日が来たと 母が言っていた。
乳牛がいて、毎日乳しぼりをやっていた。毎日 牛乳ずくめ。水のかわりに牛乳を飲み、飯にも汁にも牛乳が入っていて、伝い歩きをしていた満男が みるみるうちに まん丸くなり、可愛くなったのを覚えている。



開拓団の学校


小学校は馬車で通った。
峰さんと二人の時もあれば、村の女の子二人を乗せて行くこともあった。


最初の頃 峰さんが
「しっかり持っていないと橋が落ちるど」と、橋の上を通るたびに言うので、本当かと思って馬車にしがみついていた。
今から思うと、変な話だ。
馬は校庭につないでおく。学校の帰りには、湿地の中で“かえどり”をして 魚をたくさん採った。大きなナマズがいた。



学校の授業は遅れていて わたしは天狗になっていた。



女の子はひとりは坂本といい、同級生だった。
のちに手榴弾で、親と一緒に死んだ。
もうひとりは高村きみちゃんで1級上。
満州から引き揚げて 、市村小学校に一緒に転入した。


のちに青酸カリを飲んで死ぬことになった時、
きみちゃんの親が飲む番になって便所に行き、その次の順番だった わたしの母が飲んで死んだのだ。







他の記録サイトより引用写真




日本が敗けた


大人たちが 日本は敗けたと話をしていたが、わたしには意味がわからなかった。


それ以来、あきらさんや峰さん、その他の大人が鉄砲を持って、高い乾燥場にあがり警戒をする日が続いていたが、
ある日、『武器を納めよ』と命令がきたらしい。



武装解除は心配だ と、言ってはいたが、
命令だからと、それぞれ家にある武器を開拓団本部に持っていく話、誰が持っていくのかという話をしていた。



たくさんの38式歩兵銃や、性能のいい銃、弾薬を馬車に積んでいる姿を覚えている。
それまでは 家で大人たちが、よく銃の手入れをしていた。


満人が襲ってきたら、と 家の開口部には全部トタンを張り、大切なものは瓶に入れて、家の中の土間やオンドルの中に入れて隠した。


おそらく 日本が敗けたら”満人の襲撃があるかもしれない“という噂が あったのだと思う。


大切なお金は、ひとりひとりに分けて、胴巻きにして腹に巻きつけた。
わたしも持たされていた。








父の終戦と満州ひきあげ記 1〈思い出を記録した父〉

2021-02-23 22:47:18 | 日記
1997年夏 父の還暦祝いに私たちきょうだいはその頃流行っていたワープロをプレゼントした。

まだパソコンやスマートフォンなどが今のように普及するずっと前で、まるで本のような印刷物が自分で作れることに夢中になった父は
休みのたびに部屋にこもり山登りのスケジュールや過去の記録やら何やらをワープロで制作していた。

そして何ヶ月かのち、父から手渡された自作の自分史



それは戦争を体験していない私たちきょうだいには想像もできないような内容で、

父が亡くなってからこの記録だけが残り、
わたしは父の記憶をgooブログをとおして誰かに読んでもらいたいなと思っている。




昭和12年8月生まれ


わたしが産まれたところは、福山市○町で、現在の今町西側通りにあたる。

家では母が駄菓子屋をやっていて、道の向かいに「日活」という名前だったか、映画館があって、中で遊んでいた記憶がある。

隣に奥山という家があり、そこにわたしと同じ年頃の子がいて、一緒に遊んだ。
奥山たくや君といったかな。3歳か4歳のころの話。


照男

弟の照男は日本で産まれたはずなのだが、よく覚えていない。
昭和16年に満州にわたり、その後出産のために帰っていたのかな?





奉天の家
父母に連れられて満州へ渡ったのは、昭和16年だった。
何故行ったのか聞いたことがあるが、給料が高かったからだ。とか

満州国奉天市の家は、平屋の連続した官舎で、偉い将校さんが門の両脇に住んでいた。

満軍の兵舎が高い塀に囲まれていて、その脇に細い道があり、
その道に死んだ赤ちゃんを抱いた満人の女性が、わぁわぁ泣きながらしゃがみこみ、しばらくして赤ちゃんを置いて立ち去った。
赤ちゃんは野良犬が来て、きれいに食べてしまった。
そんな光景をしょっちゅう見ていた。

家の裏は池で、冬はスケートをした。
そこは、満軍射撃訓練所でもあり、薬莢をよく拾いに行っていた。


父の手記より


小学校
 わたしが入学したのは、満州国奉天市深海在満小学校で、大きな川を越えて随分遠くにあったように思う。
わたしが小さかったから そう感じたのかも知れない。
冬にはその川に氷が張り、木材を積んだ荷馬車が、近道をするために川の上を渡っていた。
下校時に野犬に襲われた時のために、木に登って逃げる訓練を上級生にさせられていた。
うちの官舎から通っていた女の先生が、ひとりで帰宅中、たくさんの野犬に取り巻かれ、長時間たちすくんでいたら、人に助けられた という話を聞いた。
母がいろんな注意をしてくれていたので、覚えている。
野犬は人間の肉を食べているせいか、とても大きくて、目が赤く、いつも群れていたので大変に怖かった。


便所
冬には便所の大便が、逆つららのようになって尻に届いてしまう。
父が戸外の汲み取り口から便所に入り、金づちでカンカンと叩き折り、袋に入れて持ち出していた。臭いもなくきれいなものだ。
戸外で立ちションをしても、あまり流れないうちに凍っていた。



ペーチカ
家の中はどの部屋も、ペーチカの一部である壁が出ていて、石炭を焚いていたので暖かかったが、
戸外は-35℃ぐらいになることもあったようだ。



だから町の家の軒下に、裸でコチコチに凍った満人の死骸があちこちに転がっていた。
行き倒れになって、凍え死んだ人の服を剥ぎ取って転がしているんだ、と聞いた。
また日本人の姉妹が肉を買いに行って、ひとりが外で待っている間に、中に入ったひとりが肉にされた、という噂も聞いた。


開拓団へ疎開
「戦争が済んだらインドに行ってみよう」という両親の会話を覚えている。
しかし、それどころか、奉天の空襲がひどくなり、危険だからと母の兄が開拓団で入植している所へ疎開することになった。


長い汽車の旅で着いた駅が、サンカトン(山河屯)というところだった。
白系ロシア人の駅長だった。

駅には伯父さん(母の兄)が迎えに来てくれて、その馬車に両親、弟の照男、満男、わたしが乗り、
一面とうもろこし畑の中を、のぼったりくだったりしながら、村に着いた。






家は、馬車が2台くらい入る広い庭があって、馬を繋ぐ棒が2本立っている。
右手には背の高い乾燥小屋、左手には便所、右前には牛小屋、馬小屋があった。


これらの家は満人を追い出して日本人が住んでいるのだと聞いた。

その時が何月なのか覚えていないが、トウモロコシが随分高くなっていたので、昭和20年の6月か7月頃ではないか。

この村は市村という名前がついていた。
それは人々が市村から入植したからである。
村の中は満人の住む家と一緒になっていて、左隣には足を小さくした(てんそく)女の人が、1メートルくらいの長さのキセルを吸っていた。
良家の婦人という風貌だった。





少し離れたところに、満人のおさ(長)がいて、この人を りゅうぱいじゃん と呼んでいた。

人格者であった と記憶している。

終戦後、食料や衣服を、この人からか この人の世話でもらうことができたのだと思う。