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父の終戦と満州ひきあげ記 7〈日本への帰還〉

2021-03-09 21:28:00 | 日記


この開拓団略図は、わたしを連れて帰ってくれた引き揚げ者の先輩が書いたものだ。


わたしたち第二広島村隊は、
昭和21年9月10日 山河屯駅から汽車に乗り

9月17日新京着
9月30日錦西着
10月15日コロ島着
戦車上陸用舟艇に乗船し
16日コロ島を出発

10月21日佐世保へ入港
10月22日上陸した。





帰還

汽車が福山駅に入る時に大きな工場のあたりをたくさんの人が歩いているのを見て、
何と外国人が多いのだろう
日本人はどうなってしまったのだろう
と思い、おじさんに聞いたら
「あれはみんな日本人よぉ」との返事にびっくりしてしまった。



わたしは、日本が敗けて、国民全員がわたしたちのようにボロボロの服を着ているのだとばかり思い込んでいたので、


歩いている人たちの服装が、皆 とても立派で外国の人だと思ったのである。


夜、綱木の玄一おじさんの家に着いた。
そして 艮の家に帰った。
おじいさん、おばあさん、父の弟の十一叔父さんは わたしがひとりだったので、相当びっくりしていた。


おばあさんは、
ヨシや、よう帰ってきたのう と泣いて喜んでくれた。





そして 戦後

おばあさんの苦労は当時たいへんなものだったらしい。

着て帰った服は 日本では着れるものではなく、
その夜は、十一叔父さんの物で間に合わせたが翌日から着るものがない。

おばあさんは、わたしよりも少し大きな子供のいる家へ行き古着を譲ってもらうのに走り回った。


何とか恰好がついたので、小学校に転入である。


何年生かと聞かれたので「3年生です」と答えると、校長先生が 3年生の教科書を持ってきて、
ここを読んでみなさい と言う。



まる一年勉強していないので、うまく読めなかった。
2年生のは何とか読めたので2年生に入ることになった。
一緒に日本に帰った高村のきみちゃんも本当の年よりも一級下に転入した。


おばあさんは学校の道具も集めなくてはならない。
教科書、鞄、ノート、下敷き、鉛筆、消しゴムなど一切合切なんにも無いのだ。
もらいに行ったり買いに走ったり。

当時 教科書は、進級して要らなくなったものを、全教科 人に譲り渡していた時代だった。




子供時代に、わたしがおばあさんに口ごたえしたり、言うことをきかなかったり、悪いときには
この時どんなに苦労したかを持ち出して
「満州へかえれ!」と怒ったものだが、しかし、そんな小言をいいながらも大変に可愛がってもらった。



最後に***************

ここから 父の自分史は少年期、青年期、就職後 結婚へと続く。


わたしたち兄弟が幼い頃は、父を日本へ連れて帰ってくれた命の恩人たちと交流があったが、
次第にその方々の子、孫が世帯主になり、父の葬儀を最後にやりとりがなくなった。



両手で抱くことができるくらい小さな小さな満男さんと照男さんの 遺骨の無い二つの墓石はわたしたち子供にも印象的で、
幼い頃から 、父に連れられて毎年 お墓参りをして手をあわせていたが、


父の他界した翌年にその墓地に行くと、もう撤去してあり
その代わりに とても立派な『○○家 先祖の墓』が建てられていた。


そうして、少しずつ時が流れ
世の中も景色もいろんなことが変わって行き
父の人生も消滅していく。


こうやって、私の父の思い出を誰かが読んで知ってくださったことに感謝したい。
ありがとうございました。
























父の終戦と満州ひきあげ記 6〈引き揚げ〉

2021-03-06 19:29:00 | 日記
スマホで簡単にいろんなブログを読めるようになっている現代。
肺癌でなくなった父が残した幼い日の記録を
どこかの誰かにも読んで欲しいと思い書き残します。




死体の山

わたしたちは、6畳ほどの広さに 2家族9人が暮らしていたので、狭くても独立した家であり、周囲の影響をあまり受けなかったが、

工場のようなだだっ広いところに、大勢が住んでいる場所では、次々と病気がひろまり死んでいった。


また、日本に帰れないという失意のあまり、井戸に身を投げて死んだ人も多かった。

峰さんたち大人は、こうした人を○○を作って深い井戸から毎日のように引き上げていた。


死んだ人たちを空き地に積んで焼いていたが、冬に雪が積もっている時は、空き地の雪の上にたくさん死骸が積んであり、野犬のエサになって、

春、雪が解け、骨だけになった人たちの、頭蓋骨や肋骨や手や足の骨がそこらじゅうに転がっていて、
わたしたち子供は そんな骨も遊び道具のひとつだった。




引き揚げ



終戦の翌年、夏のころだったと思うが、日本に引き揚げることができる!とみんなが喜んでいたのが印象に残っている。


食料を準備するためにと、おばさんがどこかへ買い出しに行き、わたしはついて行った。

腹に巻いてもらっていた胴巻きの金は、底に穴があいていて、とっくに無くなっていた。



その時は、大事な金がなくなったと、おばさんはオロオロするし、「わしは死ぬる」と大騒ぎした。



おばさんの買い出しについて行き、乾パンを買った記憶がある。
鍋をもったか、釜を持ったか、何を持ったかは さっぱり思い出せないが、人並みには荷物を背負って出発した。




引き揚げ船に乗る

家を出てから何日も歩き、野宿をし汽車に乗り、また歩いた。


汽車は 牛や馬や豚を乗せる貨物車だったり、囲いのない ただ土台だけの無蓋車だったりで、人が乗る汽車ではない。
そこに、潰れて死ぬのではないかと思うほど詰め込まれた。
現実に窒息死した人もいたと聞く。



汽車の中で死んだ人は、走っている汽車から捨てられた。
汽車が停車すると、男も女も一斉に降りて、いつ汽車が出てもすぐ乗れるように、線路の脇で、何百人もの人が大便をする。
大変な景色ではあるが
それは今だから思うことである。
他のサイトより引用



船の先端が鯨の口のように大きく開く所から乗り込んだ、戦車上陸用舟艇はたいへんに揺れた。


わずかな船旅の間にも、日本を目の前にしながら たくさんの人が亡くなり、何度も水葬を見た。
水葬をした場所を、船は汽笛を鳴らしながら一周するのだ。


船に乗る前に、引き揚げ者全員、頭から服の中までDDTをかけられ、シラミ退治をした。
おかげで、痒さから決別できたのである。











父の終戦と満州ひきあげ記 5〈ソ連兵と内戦〉

2021-03-04 20:16:00 | 日記
肺癌でなくなった父が私たち家族に残した幼い日の記録を

ブログをとおして誰かにも読んで欲しいと思い書き残します。
父の満州の思い出を。


ソ連兵の侵攻

開拓団本部を幾重にも取り巻いていた満人たちは、しばらくは騒いでいたが、そのうち居なくなり落ち着いてきた。

治安もよくなり、近くの空き家になっている民家に、わたしたちは移り住み 生活するようになった。

そんなある日、ソ連兵が侵攻してきた。

噂は聞いていて、若い男はみな連れて帰って働かされる。とか 女は暴行される。というので
女性はみな、丸坊主になり、男性の服を着て男性の格好をし、若い男性は隠れていた。

兵隊たちは噂どおりで
一軒一軒、探し歩いた。

たくさんの人たちが捕まって連れていかれたし
「用の済んだ女性をむごい殺しかたしてる。」
と 大人たちが話していた。


他のサイトより引用
うちにも来た。
家の中を探し回ったが、わたしとおじさんだけがいて、峰さんとおばさんは屋根裏に隠れていた。
何回もやって来た。


日本人から取り上げた腕時計は、両腕に何個も、肩のほうまではめていて、万年筆はポケットにいっぱい差していた。

珍しいものはどんどん掠奪していった。
とは言うものの、皆 着のみ着のまま逃げてきているので、ろくなものはなかったはず。

わたしたちも、空き家になった日本人の家へ生活道具を探しにいって、役に立ちそうなものは持って帰っていた。

ソ連兵は ところかまわず やたらと自動小銃を乱射していた。



中国人同志の戦争
ソ連兵がいなくなって しばらくすると中国人同志の争いが始まった。

侵攻してきたのは、国防軍と呼ばれるもので、大人たちが話しているのによると、わたしたちに危害を与えない、いい軍隊だ とのこと。

しかし 悪い軍隊が攻めてくる という噂が出始めると、いつのまにか国防軍がいなくなり、
服装の悪い、武器のお粗末な兵隊が侵攻してきた。

大人たちは この軍隊を八路軍と呼んでいた。
これらの兵隊の中には、日本人もたくさん混じっていると噂されていた。

当時のわたしにはわからなかったが、これが蒋介石と毛沢東の戦争だったようで、
この内戦のために、道路や鉄橋が爆破されて、そのために日本への引き揚げが随分おくれたことは、大きくなってから知った。



衣食
終戦まで使用人として働いてくれた満人の家に、食べ物や着るものをもらいに行った。

くれるのは、家畜に食わせるコウリャン、エサのトウモロコシで 真っ赤なコウリャン飯やトウモロコシの粥を食べた。

それでも 食べ物があるのは大変にありがたいことで、栄養失調で死んだ人はたくさんいた。

春になると、食べられる草やつくしを山ほど取ってきて食べ、満人の家の豚を野原へ峰さんと連れていって草を食べさせ、お礼に食べ物をもらった。
大きな豚の背に乗って、野原へでかけた。


秋には、満人だか朝鮮人だか覚えていないが、稲の穂だけ摘み取って収穫しているので、
稲穂がたくさん落ちている。

それを田んぼに拾いに行き、瓶に入れて棒で突き、もみ殻をとって玄米ご飯。
どんなに美味しくてどんなに幸せを感じたことか!




冬には、雪の山にワナをしかけ、ウサギを捕ったり、雪をはねてエサをまき、雀を捕って食べたり 、わけのわからない幼いわたしには、楽しいことばかりだったような気がする。
また 近所の畑で何か作って収穫していたような気もする。

着るものも満人にもらった。
布で縫った靴、布に綿をいれた手縫いの服。
おかげで冬も凍え死ぬことはなかったが、一年中それ一着だから、ぼろぼろになっていた。

頭にも服の縫い目の中にも 、縫い目に頭を突っ込んで尻だけをだしたシラミがびっしりいて、
これをつぶすのも日課のひとつだった。
のみと違い、シラミは逃げ足が速くないので、つぶすのは簡単だった。





父の終戦と満州ひきあげ記 4〈開拓団本部と青酸カリ〉

2021-03-02 20:34:00 | 日記
スマホでブログを投稿できる、そして誰かに読んでもらえる。

父の残した満州からの引き揚げの記録も
どこかで誰かに読んでもらえたら嬉しいです。




日本人じゃ

カラスが飛んでいった方向へとわたしたちが移動していると、明かりが見え始めた。

それは焚き火の明かりで、周りにはたくさんの人がいるようだった。


建物のようすから「開拓団本部だ」とおじさんが言い、
「満人かもしれない、偵察してくる」と地面を這うようにして出ていった。





帰ってきたおじさんは
「日本人がおるど!みな日本人じゃ!」と叫んだ。


そこには、よその村からも集まった日本人がたくさんいた。
市村の人もいた。


どこにもいなくて、心配していた峰さんも、そこで無事に再会することができ、みんな大喜びをした。
峰さんは槍で突かれて、頭と腿にひどい怪我をしていた。



避難した開拓団本部

開拓団本部では、 広い板間の一角にわたしたちはいて、身動きがとれないほどの人の多さだった。


すぐ次の日だったか その翌日か

どうせ日本へは帰れない死ぬ以外にない と市村の人たちで話し合った。
 


死のう、と決まり
誰かが開拓団本部の診療所へ青酸カリを取りに行った。





青酸カリ

開拓団本部の診療所に取りにいった青酸カリを水に溶かして、市村の人だけが集まって次々に飲み始めた。

飲んだ人は口を押さえて表に走って出ていく。

母の隣にいた、高村のおばさんが便所に行ったので、次の番だった母がガラスのコップで飲み、弟の照男に飲ませた。

わたしはそれが何だかわからなかったので、白っぽくて砂糖水のように見え、早く飲みたくてしかたがなかった。

そのコップをわたしが受け取った瞬間に誰かが叫んで コップを取り上げた。
水の入った鍋もとりあげられた。



母は建物の様子がわからず、みんなが出た方角とは逆の裏へ 照男を抱いて出てしまった。


早く表に出た人たちは、苦しくて、みんなが出てくるのを待ちきれず、円陣をくんで、手榴弾を何発か投げ、自決した。


腕や足や肉片がそこらじゅうに飛び散っているのを、わたしはあとで見た。


裏へ出てしまった母は、随分狂って死んでいったそうで、
それ以上に照男はなかなか死ねず、相当の時間が かかったらしい。


”こんなちいさな子が生きのびてくれたらどうしよう “
と心の中で思った とあとでおばさんは言った。