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昭和の伝説的グループ、フィンガー5 。大ヒットでつかんだ「六本木のビル一棟」相当の大金は何に化けたのか? いま、そのボーカルが語る フィンガー5 秘話、、??2025年1月21日(火)報道より、、

2025-02-05 14:04:29 | 日記
出来るなら
 個人授業を
  受けてみたい


 (この背景は、以下に
  掲載して みました、、

 令和7年 2025年1月21日(火)
 6時55分報道記事(校正あり)
 より 一部分 抜粋、、)



 昭和の伝説 フィンガー5
…ボーカルが語る 秘話、、

 ヒットで つかんだ
「六本木のビル一棟」相当の大金

 その全額を、彼らは
一体 何につぎこんだのか??


『個人授業』
    (1973 昭和48年)
『恋のダイヤル6700』
     (1973 昭和48年)、
『学園天国』
     (1974 昭和49年)、

 … 1970年代に
数々の大ヒットを
世に放ったフィンガー5。

 まだアメリカ統治下だった時代の
沖縄から
兄妹5人で 本土に渡り、

そのポップな音楽性と
ダンスパフォーマンスで
トップスターに駆けあがった

日本芸能史上の
伝説的グループ。


 、、彼らは どんな思いで
栄光の日々を 過ごしたのか??

 そしてグループは
なぜ 活動停止に至ったのか??

 フィンガー5の三男、
玉元正男さんに訊く
ロングインタビューより
一部抜粋、、

 まずは、

玉元正男(たまもと・まさお)氏
プロフィール

 歌手。昭和34年
1959年2月2日、沖縄県
具志川市(現うるま市)生まれ。

幼少期から兄妹で
バンド活動を始め、
ベース・ボーカルを担当。

 昭和45年 1970年に
ベイビー・ブラザーズとして
デビュー。

途中 フィンガー5に改名し
『個人授業』、
『恋のダイヤル6700』、
『学園天国』など
数々のヒット曲を生み出す。

昭和53年 1978年の
グループ活動停止後も

不動産業、内装業などと並行し
音楽活動を継続。

 現在は
東京都 荒川区 町屋で
ミュージックバー「いちゃりBar」
を経営するかたわら

定期的にライブ活動を
おこなっている。


 それでは、、

、、東京・荒川区 町屋の
 いちゃりBarにて、
 玉元正男さんに
 インタビュー、、、


ーー『個人授業』
 (昭和48年 1973年発売)が、
 オリコン週間売り上げランキング
 第1位 を 獲得!

  この曲で グループを一躍
 スターダムに押し上げました。

  作詞が阿久悠さん、
 作曲が都倉俊一さん、
 しかもジャケットイラストは
 当時『ドカベン』などで
 人気絶頂の水島新司さん。

 売れること間違いなしの
 もの凄いプロデュース体制
 だと思います。


正男:

 制作陣からイメージ作りまで
全部、ディレクターの
井岸義測が手配してくれたんです。

鳴かず飛ばずだった僕たちに
注目し、
ヒットに導いてくれたことは
本当に感謝しています。


 、、『個人授業』の大ヒットで
 爆発的なブレイクを果たした
 フィンガー5。

 音楽性のみならず
 イメージ戦略も画期的だった、、


ーーこれだけR&B的なテイストを
 打ち出したことは
 当時の歌謡界では
 革新的だったのでは?

正男:

 初めて曲を聴かされた時は
ブッ飛びましたよ(笑)。

当時の歌謡曲には
ほとんど興味がなかったので、

ああいうサウンドで
やれたことには
とても満足していました。

レコーディングの時も

都倉先生は
「好きに歌いなさい」と、

僕たちの個性を
引き出すようなやり方を
とってくれました。


ーー 約3カ月後にリリースした
『恋のダイヤル6700』
(昭和48年 1973)も

4週連続オリコン1位の大ヒット。


 さらに3か月後にリリースした
『学園天国』
(昭和49年 1974)も

オリコン週間第1位は
逃したものの
大ヒットを記録しました。


正男:

都倉先生の曲で
ブレイクした僕たちですが、

『恋のダイヤル6700』、
『学園天国』の作曲は
井上忠夫先生なんです。

業界的に変わってる
と思いませんか?


ーー そうですね。
 普通なら 同じ作家が続けて
 手がけそうな もんですが…。


正男:

 売れる前に
ザ・タイガースとか
オックスとか
いろんなグループサウンズの
前座を やっていたんですよ。

ブルーコメッツの前座も
したことがあったので、

もしかしたら R&B大好きな
井上先生が
僕たちのこと 面白がって
手を上げてくれたんじゃ
ないかなって。

関係者も多くが亡くなってるし
正確な背景はわからないだけど、

ちゃんと僕たちのことを
理解している人たちが
売り出しに関わってくれたんだな
って 今になって思いますね。


ーーいきなり 売れたことで
 生活も 急変したと思います。


正男:

 変わりましたね。

これまでは
遊園地やデパートの屋上で
演奏していたのが

ワンマンコンサートになり、

追っかけのファンまで
できるんですから。

 ステージに加え
テレビ出演に取材…

学校にもできる限り
通っていたので、

もの凄い忙しさでした。


ーー学校の同級生たちの反応は?

正男:

 下級生たちは
休み時間に教室を
のぞきに来たりしたけど、

同級生たちは
ほとんど変わりませんでした。

今思えば 気をつかって、
あえて これまで通りに
接してくれていたんでしょうか。

そのおかげで 急に売れたけど
平常心を保つことが
出来たんだと思っています。

運動会や修学旅行に
参加できなくて
寂しい思いもしたんだけど、

彼らとは 今でも
たまに飲みに行ったり
するんです。

かけがえのない仲間ですよ。


ーー売れたことで
 天狗になってしまったり、
 周囲から孤立してしまった
 という人も多いです。

 正男さんは
 周囲に恵まれていたんですね?


正男:

そこに関しては
親父もすごく厳しかったですから。

「お前たちは
周りの人たちの応援のおかげで
売れているということを
忘れないようにしなさい」
と いつも言われていました。


ーーストレスも多かった
 と思いますが、
 兄弟仲はいかがでしたか?


正男:

子供なので 些細なことから
取っ組み合いのケンカを
することもありましたけど、

それを何日も引きずったり
仕事に持ち込みようなことは
ありませんでした。

そのあたりは 長男の一夫が
よく指導してくれていた
と思っています。


ーーフィンガー5は
 昭和50年 1975年8月から
 半年間、日本での活動を休止して
 アメリカに留学されていますね。


正男:

 その年の5月に
それまで在籍した
市橋プロから独立。

 ちょうどその頃、
晃が変声期になって
高音が出なくなってしまったので、

それを補うために
甥っ子の実を加入させたりと
変化の大きな時期でした。

フィンガー5では
定期的に家族会議をして
今後の方針を
話し合っていたんだけど、

アメリカ行きも
そこで決まったんです。

親父が
「これまでの貯金が
1億円くらいある。

これは六本木に
ビルを一棟買うことも
できるくらいのお金だけど、

お前たちが
行きたがっていたアメリカに
半年くらい
留学することもできる。

どっちがいい?」と。

 僕たちは 一も二もなく
アメリカ行きを 選びました。


ーーちょうど世界的に
 ブラックミュージック、
 ディスコミュージックが
 盛り上がってくる時期ですよね。

 注目しているアーティストは
 いましたか?


正男:

 やっぱりグループとしては
ジャクソン5が目標ですよね。

個人的には
ジェームス・ブラウン。

日本人がどこまで
ブラックミュージックを
理解できるだろう
という不安はあったけど、

僕たちは沖縄出身で
子供の頃から
そういう音楽にばかり
親しんできました。

アメリカに行けることは
楽しみで仕方なかったです。


ーーアメリカではどんな生活を?

正男:

 ハリウッドで
現地の学校に通いながら、
空いている時間には
スタジオ練習したり
ライブを観に行ったり。


 ラスベガスで
ジャクソン5の公演がある
というので
行こうとしたんだけど、

途中でガソリンが
足りなくなって
泣く泣く断念した
なんてこともありました。


 あとは
アルバム
『ジェット・マシーン』(1976)
のレコーディングですね。
アレンジを担当した
ジーン・ペイジはじめ
現地の一流の
ミュージシャンたちを交えた
レコーディングで、

すごく刺激になりました。

サウンドと言い ノリと言い
ミキシングと言い
日本と全然違うんです。


ーー やはり
 日本とアメリカの差は
 大きかったんですね。

正男:

はい、これは
音楽的な文化の違いでしょうね。

当時の日本の音楽番組だと、
バックバンドによっては
僕たちの曲を
オリジナル通りに
演奏してもらえないことも
ありました。

ーー そのままアメリカで
 活動したいという気持ちは
 ありませんでしたか?

正男:

できれば
そうしたい気持ちはあるけど、
やっぱり僕たちは
日本のグループ。

待ってくれている
ファンのためにも
予定通り帰らなくては
いけないですよね。

 でも 帰国が近付いた頃、
どうしても帰りたくなくて
家出したことがありました。

 結局、怖くなって
2日で帰ってくるんですけ(笑)。



 、、日本での成功でつかんだ財産を
惜しみなくアメリカ留学に
つぎこんだフィンガー5 
 そして、、、

、、、、令和7年
 2025年1月21日(火)
 6時55分報道記事(校正あり)
 より 一部分 抜粋、、以下略、、、
、、

再掲載

 出来るなら
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