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競争激しい業種業界で長く生き抜く方法!?、、堺正章氏、「嫌い」だと言われたら「ありがとう」と笑顔を返す、、芸能界を70年間生き抜く堺正章氏の"メンタル維持法"2025年1月22日報道より、、

2025-01-26 20:27:27 | 日記
夢のタネ
 得意のタネに
  バランスを


 (その背景は、以下に
  記載 致します↓)


 、、2025年 令和7年
 1月22日報道記事より
 (校正あり)、、、、、
、、、、

 堺 正章 氏、
 、、競争の激しい業界を
  生き抜くには
  どうすれば いいのか??、、

 子役として
芸能界に足を踏み入れた
タレントの堺正章さんは

「芸能界は、
人気や立ち位置が
いつなくなってもおかしくない。

自分が得意なこと、
好きなこと、できることを、
ありとあらゆる人に
アピールして、
得意の種をまくことが大切だ」
と話す、、、

 本稿は、
堺正章『最高の二番手
 僕がずっと
 大切にしてきたこと』
(飛鳥新社)の一部を
再編集したものです。

 はじめに、

 堺 正章(さかい・まさあき)氏

タレント。
 歌手、俳優、司会者と
さまざまな分野で活躍し、
幅広い世代から愛される
国民的エンターテイナー。

 16歳で
ザ・スパイダースに加入し、
昭和40年
1965年「フリフリ」でデビュー。

昭和46年 1971年の解散後、
ソロ活動に転向し、
同年「さらば恋人」で
日本レコード大賞大衆賞を受賞。

 俳優としては
「時間ですよ」「西遊記」
「ちゅらさん」など
多数のドラマに出演、

司会者としても
高い人気を博している。


 、、それでは、そんな
 堺正章さんの 報道記事より、、


、、全員から
 好かれるなんて ありえない、、

 誰かから あなたのことを
   嫌  い  だ!
と言われたら、

あなたは
なんて 答えるだろうか???



 僕なら、

「あ り が と う」

と 満面の笑みを 返す。


 芸能人という
人気商売を続けて 数十年、

僕を好きな人も
嫌いな人も大勢いる。
当たり前だ。

どんな素敵な人だって、
世の中の全員から
好かれることなんて
絶対に ありえない。


 僕はエゴサーチをしないから
わからないし
気にもしないが、

芸能界で なくたって、

他人のつぶやく悪口や
余計な言葉が
簡単に耳に入ってくる時代だ。

 評判を気にして
傷ついている人は

世の中に たくさんいる
ことだろう。


 で   も    、

そんなものに
傷つき、
心をすり減らす必要なんて
これっぽっちも ない。

だって、
「好きとか 嫌いに
 理  由  な ん か
まったく ない」 の だから。


 、、「はい、次っ」と
  切り替える方法、、

 嫌われたって、
自分のせい とは限らない。

恋愛と同じで、
もし仮に理由づけを
されてみたところで、

それは 言い訳のような
「後付けの 屁理屈にすぎない。」

 だから それで
いちいち 傷ついていたら、

「 そ の 時 間 が
も っ た い な い 。」

「人 生 の 時 間 には
限りが ある」 の だから。



 自分について
嫌な言葉を耳にすれば、

僕だって人の子だから、
そりゃあ多少
嫌な気持ちにはなる。

 でも、

そんな意味のないことは
即刻忘れて、

違うことに
頭 を 切 り 替 え る
ように している。

生きていれば、
他に考えなくちゃいけない
大事なことが
もっと たくさんある からだ。


 「はい、次っ」という調子で、
頭も 気持ちも
す み や か に
 チ ェ ン ジ  する。

トイレにでも 行って、
あるいは 外の空気でも吸って、

ついでに ちょっと
タバコでも 一服すれば
も う 忘 れ ら れ る。


、、自分を嫌いな人が
 「三 分 の 一」いる
  のが ちょうど いい、、、


 僕が常々、
自分に言い聞かせているのは、

「三 分 の 一 理論」。


 自分のことを

すごく好きな人、
普通と思っている人、
すごく嫌いな人。

 世の中に、
この三種類の人が

「 三 分 の 一
ずつ いる」 のが、

いちばん
「いい バランス 」 だ
と思っている。


 そもそも
際立った 個性や才能
があれば、

「万人から好かれる なんて
絶対に 無理」 なこと。

 また、「どうでもいい」
なんて 言われる よりは、

「嫌われる ぐらいの方が、
オリジナリティがあることの
証明」 になるのだ。

 だから、嫌われても
カチンときちゃ いけない。


 仕事場でも、
僕のことを
あまり好きじゃないのかな、
と思うようなタレントさんと

番組をご一緒する
シビアな場面だって
ときにはある。


 けれど、

そう感じる相手がいたら、
僕はその微妙なやりとりを、
むしろ 楽しむ ことにしている。


大体の人が
もう自分より年下だし、

この状況を逆手に取って
遊んでやろう、と考える。

もちろん、
胸中のそんな思いは
おくびにも出さず、

あくまで腰を低くして、
気づかれないように
ジワジワと攻めていくにしても、、


 、、最後まで 残るのは、
バ ラ ン ス がいい人、、

 そんなふうに、
ちょっとイヤだなと思うことも
楽しんでみればいい。

だって、面白いものなんて、
予定調和じゃない
 偶 然 か ら こそ
生まれるものなのだから。

そんな瞬間 芸が生きてくるのも、
バラエティの楽しいところだ。


 世の中は
すべて バ ラ ン ス
だと思っている。

バランスがいい人が
最後まで残る。

だからこそ、目指すべきは、
バ ラ ン ス の良さを
体現する

「三分の一理論」だ

と思うのだ。


 ものすごく 好かれなくても、
たとえ嫌われたって、
ひどい悪口を言われたって、

僕は 全然かまわない。


 嫌われるのも 芸のうち
だと 思うからだ。

嫌い だ と言われたら
「 あ り が と う 」
と返すのは、
そんな心構えに 即したもの。


「絶対に
僕を好きにならないでよ!」と

ひとこと付け加えることも
忘れないでおこう と思う。


 、、芸能界の「椅子」に
 座れるのは 1%未満の現実、、


 今や、芸能人は
日本全国に 7万人も
いる そうだ。

みんなに
名が知られているわけでは
なくても、

大小 あまた ある
芸能事務所に 所属したり、

水面下で
自主的な芸能活動を
したりしている人が

たくさんいるという。


 実際に
多くの人の目に触れる形で
活動できる人のための
芸能界の椅子 というものは、

いったい
いくつあるのだろうか??


  その答えは、なんと

たったの 500 席。


その貴重な席に座れる芸能人は、

全体の 1% にも 満たない。


 それを思えば、
芸能界は
熾 烈 な 椅子取りゲーム
だと言える。

わずか 500 席
しかない から、

どんなに疲弊しても、
むやみに席を立ってはいけない。

 誰かが立ったら、
音もなく、
あっという間に
代わりの誰かが
その場所に座る。

そして、
自分が戻る席は
二度と手に入らないのだ。


 、、マネージャーに
 文 句 を言うようでは
 駄 目  だ!、、


 僕は、ときどき
芸能界の後輩たちから
相談を受ける。

個を表に出す
人気商売をしていると、
思い悩むことも多いものだ。


よく聞くのは、
「事務所が何もしてくれない」、
「マネージャーが使えない」
というもの、、


 しかし、

思うような仕事のオファーが
来ないときでも、

担当マネージャーに
「怒りを ぶつけたところで
い い 結 果 は
絶対 生 ま れ な い。」


 もっとも
身近なところにいる
マネージャーやスタッフには、

自分の いちばんのファンに
なって もらわなくちゃ
いけないのだ。


 そのためには、
多少 話を盛ったっていい。

自分の夢や、
これから目指す道を熱く語り、

その人を
味 方 に す る のだ。


 ときには 食事をご馳走し、
プライベートな時間も
ともにするのがいい。

今は個人の時間を
大事にする時代だが、

膝を突き合わせる時間だって
やはり ときには必要だと思う。


 話したいことがあるなら、
メールや電話ではなく、
時間をきちんと設け、
直接顔を合わせて
話し合うべきだ。

無理強いをしたり
あまりに頻繁だったりしたら、

この時世、
モラハラやパワハラと
みなされてしまう
かもしれないが、


今、抱いているアイデアや
先々の展望など、

面と向かって話さなければ
伝わらないことだって
あるだろう。


 そうすれば、
10個のアイデアのうち
1個くらいについては、

相手も
親 身 に な っ て
動いてくれる かもしれない。


 、、不 安 定 な
  芸能界における
  生 存 戦 略 、、

 その際、多少のホラは
吹いても
かまわないと 僕は思う。

むしろ、つらいとき こそ
大ボラを 吹くくらいの
気構えが 必要だ。

僕自身、そんなふうに
いろんなところに

夢 の 種 をまきながら
今までやってきた。

ま か ぬ 種 は 決して
生 え な い のだ。


 さらに言えば、
夢 の 種 だけ
じゃなくて、

「 得 意 の 種 」を
まくことも 大切だ。


 芸能界には 定年がない。

 しかも
人気や立ち位置に関しては
なんの 保 証 も な い
のだから、

不 安 定 極まりない。

 しかし、

人には
適 材 適 所 がある。


 自 分 に し か
  で き な い こ と

とは 何か?、

そこを必死に考える必要がある。


 そして、
自分が得意なこと、
好きなこと、
できることを、

ありとあらゆる人に
アピールして、
得 意 の 種 をまくのだ。

 今は SNSがあるから、
昔よりもずっと
得 意 の 種 を
まきやすくなっている。

それも 歓迎すべきことだ。


 、、走り続けることで
  得られるものがある、、


 一方で 最近の若い人は、

「明日の100円」よりも
「今日の10円」を
手に入れようとする傾向が
あるかもしれない。

芽が出て実るまで
我慢を積み重ねることなど
意味がないと思う人も
多いのだろう。

 僕が諭したところで、
うるさい と思われるだけ
かもしれない。


 ショービジネスの世界で
大切なのは、

ゴールを設定せずに
走り続けることだ。

走っているフリでもなんでも、
たとえ遅くとも、
スタミナがなくとも、

走り続けているから、
まとう空気や声が
生き生きとした魅力を
帯びてくるのでは ないだろうか。


 今の時代、重視されるのは、

将来の夢よりも
今現在の現実だろう。

もちろん、
目の前の現実が
いちばん大事なのは
言うまでもない、、


 た だ、

「今を生きる」ということは、

享楽的に楽しむことや、
その場を盛り立てることに
終始する瞬間芸を
披露することばかりを
指しているのでは ないはずだ。


 未来に活かせる時間を
着実に丁寧に重ねることも、

無粋な努力を
愚 直 に 続 け る
ことも、

得 意 の 種 を育てる
大きな方法となる。

そういうところから、
「本物」は生まれ、
進化するのだ。


 短絡的な結果を求める
こんな時代だからこそ、

得意の種を育てる方法だって
多彩にあるように思う。


、、、エンターテインメントは
 これからも必要、、、


 活動が ままならなかった
コロナ禍の時期を経て、

世の中には あるスイッチが入り、

人と人とのつながりより、

個々を大事にするという時代が
やって来た。


 そんな受難の日々の中で、
エンターテインメントは
必需品ではない、
というムードが
世の中には広がっていた。

「あれば
楽しいかも しれないが、
なくても 困らないもの」
と位置づけられていた。

世界が大変な状況に
直面しているときには、

エンターテインメントの
優先順位は
かなり低いものとなることを
実感した。


それでも 人には、
心を豊かにする
エンターテインメントが
やはり必要だと思う。
方法論は変化していくだろう。


 ただそれを言うなら、
今までだって
幾度も
芸能は装いを変えてきたし、

芸能界の再編も
繰り返されてきたのだ。

どんな装いが
新しい世にフィットするのかは
まだわからないものの、

エンターテインメントは
これからもっと進化し、

人々の人生に
潤いを与え続けるはずだ
と思っている。


 たった500席しかない
という芸能界の椅子を
確保できている
現役バリバリの間は、

忙しさやスランプ、
先々についての悩みなどによって、

その1席の大切さが
見えなくなるときも
あるかもしれない。


 もちろん、
いちばん大切なのは
自分の心の状態だ。

心が疲れていれば
休むことも必要だし、
無駄な無理をするべきではない。

それでも、
安易な気持ちで休んではいけない。

あとから悔やむような選択は
しない方が いいに決まっている。


 自分の大事な1席を
確保し続けるには

僕自身は、
それが貴重なものだ
という自覚を
大切に握りしめながら、

自分が確保した椅子に
座り続けてきた。


シートベルトまでしっかり締め、
またときどきは立つふりをして、
ゆっくり周りを眺めたり
もしながら。

父から言われた
「途中でやめるなよ」
という言葉も重かったから、

休むなんて気持ちは
これっぽっちもなかった。


 もっとも、
こうした終わりのない努力は、
好きでなければ続かない。

得意なこと、好きなことは、
その人の魅力の大きな源泉になる。

好きだという気持ちで
弾みをつけて、

あくまで
走り続けなければ ならない。


 そんな根性論は
古いものかもしれないが、

風のように軽やかに、
自分にできることを
飄々(ひょうひょう)と
進化させながら、

大事な1席を
自分のものとして
確保し続けることができるのなら、

それがいちばん素敵なことだろう。

(堺正章 氏
『最高の二番手
 僕がずっと大切にしてきたこと』
(飛鳥新社))

 、、以上、2025年 令和7年
  1月22日報道記事
  (校正あり)より、抜粋、、

、、、、
再掲載

 夢のタネ
  得意のタネに
   バランスを


「年齢」ではない、認知症の最大原因、、「ヨボヨボな75歳」と「元気バリバリな95歳」を決定的に分けるもの、、2025年1月20日(月)17時報道より、、

2025-01-21 20:08:10 | 日記
私らしく
 生活楽しむ
  達人に!


 (この背景は 以下に、
 記載して みました、、
 なお、記事は校正
 しています、、)


 、、誰にも避けられない
  老いと、生活、、、

 、、いつまでも 元気で
  過ごすためには、
  どんなことを
  心がけるべきなのか?、、


 認知症専門医の
内田直樹さんは、
こう 話してくれた、、

「老化が早い人ほど
認知症を早く発症する傾向にある。

しかし、

認知症の中には
治せるものもあるため

『年だから仕方ない』と
諦めてはいけない」と、、


、、「年齢」と「老化」は
イコールでは ない、、

 訪問診療をしていて
度々、感じることの1つが、

「人によって
老化のスピードは違い、

見た目だけで
75歳か、95歳かは
区別がつかない」
と いうことです、、、


 何が老化を早めるのか、
一概に示すのは難しいのです

が、

遺伝的な影響があり、

さらに生活習慣や
持病の有無などが
大いに関係する と感じます。

年齢と老化は
決してイコールでは
ありません、、


そして、
老化が早い人ほど
認知症を早く発症する
とも思います。


認知症の最大のリスク因子は
「年をとること」
とされます

が、

それは
年齢を重ねて
認知症の状態になっていく

のでは なくて、


老化が進むことで
認知症の状態になっていく

ということ なのです。


 年齢が 何歳でも
老化が早く、認知症が進行し、

自分の身の回りのことの
ほとんどを

人に委ねて暮らしている人
がいる 一方、

100歳を超えても
老化を感じさせず、
認知症の状態では ない人もいて、

「年齢は
単なる 数字」 だ

と思うようになりました。


『早合点認知症』
(サンマーク出版)の
137ページでは

アルツハイマー型認知症の原因
であるアルツハイマー病の
進行度、重症度を評価するための

スケール「FAST」を
紹介しています。

この表の最右列に、
私たちが左列の機能を
何歳頃に獲得するかが
示してあります、、(表など略)


、、93歳の大叔父から
  友達申請が来た、、


 これを 見ていただくと、

アルツハイマー病の進行過程は、
赤ちゃんの発育・発達の
逆をたどる ことがわかり、

つまり、

アルツハイマー病とは
老化の一部だ

と考えることもできる
と感じます、、


 少し前のこと、
私の大叔父(93歳)が
SNSを始めて、

私に 友達申請がありました。

 しかし
私は 大叔父の年齢を考え、
「きっと“なりすまし”だろう」
と しばらく放置していたのです。

すると
叔母(大叔父の娘)との会話の
機会に

「『直樹が
申請許可してくれない』
と嘆いていた」
と聞いて、

失礼を 反省したのでした。


 高齢者医療に携わるなかで

「年齢は ただの数字」 だ

と 実感しながら、
身近な人に対して
エイジズムがあったことに
気づきました、、


 エイジズムとは
「高齢者だから」と
年齢の型に はめて考えること。

年齢を理由に、
偏見で差別することを
意味する言葉です。


 大叔父を 客観的に見れば、
「自分らしく生活を楽しむ達人」。

老いを 感じさせない人ですから、

改めてエイジズムで
人をみるもの ではない

と感じた出来事でした、、


 、、他者のサポートも
 「自力の一部」として
  考えていい、、

 第1章で
「認知症とは 暮らしの障害」
と書きました。

これを もう少し
ていねいに言うと、

生活上で 必要になる
「身の回りのことをする」が、

具体的に、
自分でどれくらいできるか、
できないか、

ということに なります。


 こうした状態を評価する
国際的な尺度があって、

IADL(手段的日常生活動作)
というものです。

 、、中略、、

これらをチェックして、
合計点数が高いほど、
暮らしの障害はない
と考えます。

  、、中略、、

「年をとったら、
色々な 身近なことが
できなくなるのも
仕方がないのでは?」


 しかし、

その印象は 勘違いで、

結果として
やらないことが原因となって、
感心認知症の進行を
速めてしまう危険も あるので、
説明しておきましょう、、



 認知症の状態になる人が多い
80代には、

生活上、自分でできないことが
増えることが多く、

本人も、周囲の人も
「年だから仕方がない」と
考えがちです。

 しかし、

先にも述べたとおり、
「年齢は ただの数字」 で、

80代でも一人暮らしで、
自分の身の回りのことを
自分で「采配」して
行っている人もいます。

采配というのは、
全部自力で行わなくても、

他者のサポートも
「自力の一部」として
利用している場合も
含むからです。

手を貸してもらえる先が
多いほど、

「自力」のパワーが強い
と考えられます。


「年だから仕方ない」は
認知症を加速させる 一方で、

身の回りのことが
自分でできない、
采配も人に委ねざるを
得なくなってきた場合、

これは単純に
年齢のせい ではありません。


年をとり、老化し、
認知症の状態になったため
生活に支障を きたしている。

そう考えるのが
正確で、大切です。


なぜなら、
この認知症の初期段階を
見逃してしまうと、

家庭内に引きこもった生活と
なりやすく、
できないことが増え、
認知症の進行が
加速してしまう危険が
あるからです。


「ザ・認知症」のイメージが
重度認知症の状態に
偏っているため、

本人も、周囲の人も

「年だから仕方がない」、
「(イメージとは違うから)
まだ認知症では ない」

と考えてしまうのではない
でしょうか。


(『早合点認知症』
(サンマーク出版)より)


 しかし、

認知症は 暮らしの障害なので、
IADLの低下が見られたら、

認知症の状態になったと
疑いましょう、、


そして
専門医療の受診や病型診断、
暮らしのなかの
支援・環境調整など

“次の手”を
早めに打つのが いいです。


 、、認知症を
  進行させてしまう
  「環境」がある、、


 訪問診療では
「愛情」ゆえに
すべてを家族に委ねて、

IADLを
加速度的に失っている
のかもしれない、と
感じる高齢の方と
会うことがあります。


 最初は、
身の回りのことをする不自由さや、
時間がかかるようになったのを
見兼ねて、

家族が
代わりに整えるように
なったのかもしれません。

 しかし、

その愛情が
自立度を低下させ、

IADLや認知機能の低下を
まねいてしまっている可能性を
感じることがある、

ということです、、


 家族は 互いに
家族のためを思っていることが
伝わってきます。

しかし、
私が訪問診療を
するようになる頃には、

「できなくなったから
家族が手助けした」のか、

「家族が先回りで
手助けしたから、できなくなった」のか、

どちらかの判別は
難しいことが多い、、


 一方で、
認知症の人のなかでも、
俗にいう “おひとり様”で

「自分でやらなければ
ならない」環境にある人の場合、

IADLや認知機能の変化は
比較的ゆるやかです。


 とはいえ、
先回りの手助けが悪い
などというのでは ありません。

安全性への配慮などから、
それが必要な場面も
往々にしてあります。


 ただし、こうしたことから
老化のスピードや認知症の状態に、

遺伝的な影響と
生活習慣病の有無などと ともに、

「環境」も影響する
ことがわかる、と
考えられるでしょう、、


 この視点が、
認知症を理解するうえで、
とても重要だと思っています。


、、「治せる認知症」がある
  ことを 知っておこう、、

 つまり、
助けない(支えない)でもなく、
助けすぎ(支えすぎ)でもない、

「ほどよい」サポート。

まさに これからの社会全体の
課題だと思い、

私も考え続ける日々です。

そして この社会の環境も、
認知症フレンドリーな社会に
アップデートすることが、

みんなの早急の課題
だと思っています。


 認知症の診断を受けると、
その後、

状態が悪化した場合に、
「認知症だから仕方ない」と
諦められたり、

出ている「困った症状」を
薬でなんとかする(鎮静する)
ことだけが
考えられたりするケースが
現状は多いのではないか?

と 危惧しています。


 認知症を 誤解していて、

とても大切なことを
見落としていると、そうなります。

 命にかかわる場合もある
ことなので、

私はこうした現状を
「早合点認知症」の
残念な実例として、

みなさんに
知っておいていただきたい
と思っています。


 このようなケースは、
治療ができる認知症
なのに、

認知症だから 仕方がない、
治療法は ない

と 早合点されている状態です。

みなさんが、
「そういうことがある」と
知識をもてば
防げること ですので、

解説しておきます。

 まずは
症状が変化した原因に
目を向けること

多くの場合、
認知症の進行はゆるやかですので

急に悪化したり、
昨日と今日が大きく違ったり、
朝と晩で違ったりすることは

ありません。

 もし急な変化があったら、

「せん妄」という意識障害や、
「うつ病」などの精神疾患が
重なっていたり、
治療ができる認知機能障害が
重なっていたりして

認知症の状態が悪化した可能性を
考えてみるべきです。


 認知症は
進行性だから
悪化しても仕方がない
と諦めるのも、

出現した症状にだけ
対処するのも

いずれもNG。

 まずは
症状が変化した「原因」に
目を向けることが大事です。

 (以上、内田直樹『早合点認知症』
 (サンマーク出版)より)


 認知症の原因となる
脳の障害を起こす病気は
70以上もあります。

このなかには、
治療ができるものが 含まれます。

そして、
治療ができるものでも、
医療へのアクセスが遅れると、

治療をしても
認知症の状態の改善が
難しくなるものも あります。


 また、1人の人に
4大認知症のいずれかと、

治せる病気が
原因の認知症が
重なっていることは
よくあることです。

4大認知症のうち
2つが重なっていることも
あります。


 ですから
認知症は
グラデーションをもっていて、

わかりにくいものだ
と言うのです。

わからなさ に対して
謙虚な まなざしで、
いろいろな可能性を
考慮する必要がある、と言えます。


 症状の変化に気づいた場合も、
真っ先に
「改善できる可能性」について
考えましょう、、

  、、以下略、、
、、、

再掲載

 私らしく
  生活楽しむ
   達人に!


洋画家 立川広己 氏  1 ~華麗なる花々と風景~ 伊勢丹浦和店で個展開催予定2025年1月25日(水)~1月31日(火)、、2025年1月報道記事と共にウィキペディア記述も参照して、、

2025-01-15 16:00:58 | 日記

立川氏 脳裏焼き付く インパクト


(↓ この背景は、2025年1月の
報道記事に、立川広己氏の
ウィキペディア記述 とを併せて、
以下に記述してみました、、↓)

、、、、

 洋画家、立川広己
( たちかわ ひろみ ) 氏。

 作品を 見たら 映像が
「脳裏に焼き付くような
独創性の強い作品」たち、、


 そもそも、美術に
関心の高くなかった私が

初めて 立川氏の作品を
目にした時の
正直な感想でした、、


 、、ウィキペディアで
立川広己 氏を
検索してみると、、

作品の概要 欄の出だし部分に


「若き日より佐伯祐三の作品、
フォーヴィスムに憧れ
自由奔放に、また
豪放なタッチが織り成す
装飾的な世界を
創り上げる。」......

なる説明が なされています、、


 先に記載した 私の感想、

「脳裏に焼き付くような
独創性の強い作品」だなと
思った点 が、

ウィキペディアに いう
「 自由奔放に、また
豪放なタッチが織り成す
装飾的な世界 」

って、ことなのかァァ、、?!


 メディア報道によれば
2025年1月
今新春、
立川広己 氏の個展開催予定が
報道されている、、すなわち、


立川広己 油彩展
~華麗なる花々と風景~
(伊勢丹浦和店)


期間 令和7年
   2025年

1月25日(水)~1月31日(火)
 10:00~19:00
(最終日は17:00まで)

会場 埼玉県
伊勢丹浦和店 7階



 更に そこに 添えられた
立川氏のことば から引用

「毎年恒例の
伊勢丹浦和店での個展、

今回は
「~華麗なる花々と風景
~立川広己油絵展」と題して、

バラやミモザなどの花々から、
ジャズシリーズ、風景など
色彩あふれる作品
約30点を出品します。」

  (、、以下 引用略、、)


 再び、 ウィキペディアの
立川広己 氏の来歴、、

来歴 欄を 長いですが、
すべて 引用してみると、、

 
「東京都品川区で生まれ、
武蔵野美術大学にて
洋画を学んだ。

 美術展覧会・公募展で
数々の作品が入選・入賞する。

 美術館や政府系機関などに
作品が買い上げられたことから、
「専業画家」となる。


 美術専門誌を中心
とする取材の他、
テレビ出演など
マスメディアへの露出も多い。

 「個展等へ
アーティストとしての出席も
継続的かつ積極的に
行い続けている点も
特徴的である。

 個展会場にて本人から
創作作品の話が聴けたり、
実演が見られる観点
(会いに行ける芸術家・
会いに行ける画家という観点)
を捉えると、

アーティストと観覧者との
リアルな距離感が近い側面も
併せ持つ。」


 新たな技法・モチーフなどを
取り入れていくことにも
積極的である。

 創作作品の守備範囲は広く、
モダンアート画家
としての顔を持ち合わせる。

 表現スタイルの基本は、
モダニズムである。

 オーソドックスなものから
「立川広己流
モダニズム作品の世界」を
次々と創り上げる。


 「『立川広己画伯個展』への
作品出展は、
華やかで自由なスタイルを貫く。

 『薔薇図』をはじめとする
『華麗なる花々シリーズ』
(『花シリーズ』)、
古木、風景画、人物画、
抽象画『JAZZシリーズ』
(『ジャズシリーズ』)など、

作品は
モチーフを限定することはなく、
多彩に制作している。」

 安定した人気作家
となってからも、
表現活動発表の場と捉え、
毎年公募展への
大作出展を続けている。

 チャリティー絵画展等で
自身の数々の作品を
寄贈するなどの
尽力を通じた
美術文化活動への
造詣も深い。」


と ウィキペディアによる
立川広己氏の来歴が
紹介されている、、


 この記載の中で
気になる記述が
多数散りばめられている が、

たくさん書くと
焦点がボケるので

敢えて 三点だけに絞って

私が 特に気になった記述を
挙げてみたい と思います、、(私見)


 以下 三点のみ

一点目、「専業画家」、、

二点目、個展での
立川氏ご本人の出席日が
予定されている点について、、
の私見、、

三点目、
華やかで自由、
さらに多彩なモチーフで画く、
個展スタイル、、との記述、、
について の私見、、

、、、、、
 まず

 、、第一点目、「専業画家」、、


 かねてから
流行りうた の一節にも
唄われているぐらいに

まず 画家は 兎に角売れない、
食べていけない
厳しい世界だと聞きます、、


 ここで「専業画家」とは
余りにも珍しい、、

立川広己 氏が
ずっと「専業画家」である点
も光っている、、と思いました、、

 かつて どこか 報道記事で

世界中の人々アンケート、
憧れの職業 なる ランキング
トップ10の一つにも
挙げられていたことが
あった っけ、、、

 売れっ子画家、専業画家、、

 この点がこの記事において
特に気になった 一点目、、

、、、、

 、、第二点目、個展での
立川氏ご本人の出席日が
予定されている点について、、
、の私見


 先の
立川氏ウィキペディアから、

個展での立川氏出席の点について
記載があり、
特徴的との趣旨の記述がある。

 さきほどの
ウィキペディアから
該当部分のみ 以下 再引用、、


 「個展会場にて
本人から
創作作品の話が聴けたり、
実演が見られる観点

(会いに行ける芸術家・
会いに行ける画家という観点)

を捉えると、

アーティストと観覧者との
リアルな距離感が近い側面も
併せ持つ。」

 (以上再引用)

今新春2025年 立川氏の個展
埼玉県
伊勢丹浦和店 7階 美術画廊への

作家 来場予定日
1月25日(水)・
  28日(土)・29日(日)

とは、これに 該当するようだ、、

 毎回 実演が見られる訳では
ないとは思われる が、

著名画家 ご本人から
自身の作品の制作話が
伺える機会 が ある、、

と 解釈できる、、

興味を抱いた方々にとっては
なかなか ない機会が

個展において
提供されている もようだ、、


 以上が 特に気になった記述
第二点目。

、、、、

さいごに

 、、第三点目、
華やかで自由、
さらに多彩なモチーフで画く、
個展スタイル、、との記述、、
について の私見、、


 再度、該当部分のみ、
立川氏のウィキペディア
記述から 再引用、、


「『立川広己画伯個展』への
作品出展は、
華やかで自由なスタイルを貫く。

『薔薇図』をはじめとする
『華麗なる花々シリーズ』
(『花シリーズ』)、
古木、風景画、人物画、
抽象画『JAZZシリーズ』
(『ジャズシリーズ』)など、

作品は
モチーフを限定することはなく、
多彩に制作している。」

(以上ウィキペディアから再引用)


 画家の方々は
決まったテーマをモチーフに
作風を作られるのが
一般的に思えるが、

今回の、立川広己 氏は
多彩なモチーフを
画かれている点が
特徴的な ようだ。

 個展では
新春という季節がらも
加味されているのであろう、、

華やかさも
追求されているもよう、、
だと 推測できる、、、


 以上三点の記載が
特に気になった記述でした、、

、、、

 今回は 主に上記3点
だけ に絞り 記事に基づいた

立川広己(たちかわ ひろみ)氏
の 私見を 紹介してみました、、

、、、

再掲載

 立川氏
  脳裏焼き付く
   インパクト


世界最高齢116歳日本人女性死去、、近未来日本100歳以上51万人超?超高齢化社会で団塊ジュニアの終焉?もうすぐ日本人を襲う「恐ろしい悲劇」社会?2024年12月、2025年1月報道より、、

2025-01-09 16:00:15 | 日記
幸、不幸? 超高齢化 近未来


、、備忘録、、
 各報道 ~校正あり~ より、、

 、、まず はじめに、令和7年
 2025年1月4日(土)報道記事より、、

、、世界最高齢・芦屋市の女性が
 老衰で死去 116歳、、

 兵庫県芦屋市は、
世界最高齢の

糸岡富子 さんが 令和6年

2024年12月29日の
午後9時3分に 老衰のため、
芦屋市内の特別養護老人ホームで
死去したと発表しました。
116歳でした。


 糸岡さんは 1908年5月、
3人きょうだいの長女として、
大阪市で 生まれました。


 令和6年 2024年8月に
スペイン人の女性が
117歳で亡くなったことを受け、

世界最高齢者 と なりました。


 芦屋市内の特養ホームで暮らし、
乳酸菌飲料を好んで
口にしていた ということです。


 芦屋市の
高島崚輔 市長は

「糸岡さんは、
その長い人生を通じて 私たちに

大きな勇気と希望を
与えてくださいました。

改めて感謝申し上げます。

ご家族やご親族の皆さまにも、
心からお悔やみを申し上げます」

とコメントしています。

、、以上、2025年1月23日(月)1915報道記事より、、校正あり からでした、、

 つづいて、日本の
超高齢化社会、近未来予想図
について、、の報道記事より

、、以下、2024年12月23日(月)1915報道記事から、、校正あり、、

、、団塊ジュニアの終焉?…
 もうすぐ日本人を襲う、、
 「恐ろしい悲劇」、、

 2050年の日本では、

100歳の人口が
50万人を突破している
と予測されています。


 経済産業省
『2050年までの
経済社会の構造変化と
政策課題について』
などとともに、

世界でもまれに見る
少子高齢社会の日本で

「働き、生きる」厳しい実態を
見ていきましょう。

、、「人生100年時代」
 比喩ではない 圧倒的現実、、

 生産年齢人口の減少が
叫ばれるようになって
久しい日本社会。

 これからの 私たちの生活は
大丈夫なのか?
不安が募る ばかりです

が、

経済産業省

『2050年までの
経済社会の構造変化と
政策課題について』
(平成30年)には

下記のように 記されていました。


“・急速な少子高齢化、
人生100年時代の到来
という経済社会の
急激な変化を踏まえると、

システム自体の改革を行うことで、

子どもから若者、子育て世代、
現役世代、高齢者まで、

全ての世代が
安心できる社会保障の基盤を
構築する必要が
あるのではないか。


・高齢者は
年齢に比して 元気になっており、
人生100年時代は
大きなチャンス。

いくつでも、意欲さえあれば
働ける生涯現役、
生涯活躍の社会を
作る必要が あるのではないか。”


「人生100年時代なんて
比喩でしょ?」 と考える方も
いるかも しれません

が、

2049年には
100歳以上の高齢者が
51.4万人になる見通しが
立てられています。


 実際、同資料の掲載時点の

平均寿命は
女性87.26歳、
男性81.09歳であった一方、

死亡数のピークは
女性93歳、
男性87歳で あったこと

が明かされています。


 出生数は

2016年に100万人を割り込んで
以降、
減少の一途を辿っており、

2023年の出生数は
72万7,277人と記録されています
(厚生労働省)。


 今後 日本の人口は
2050年に 1億人を下回る見込み
であり、

生産年齢人口は
加速度的に減少していきます。

15歳~64歳が著しく減少し、

65歳以上が
もっとも増加すると
考えられているのが 2038年。

その後、高齢者の増加幅は
落ち着いて いきます。


 そして その2年後の 2040年、

日本を襲う大問題を
ご存じでしょうか?


  それは、
「団塊ジュニアの引退」です。


 、、急増する社会保障費…
解決策は「働き続ける」しかない
現実、、、


 団塊ジュニアとは、
第2次ベビーブーム世代のことを
指します。

おおよそ1971年~74年生まれ
であり、
現在49歳~53歳の方々です。

度重なる不況に
苦しめられてきた団塊ジュニア。



 ひとつ前の世代は

バブル期であり、
売り手市場のなかで
勤め先を決めたものです

が、

団塊ジュニアの彼らは

就職氷河期に身を置き、
職を手にしても なお、
厳しい生活を
余儀なくされました。


 およそ 15年後、

団塊ジュニアの方々が
皆65歳以上になり、

生産年齢人口が 大幅に減少、
社会保障費が 急激に増加すると
推測されています。

これが「2040年問題」です。


 団塊ジュニアが
現役世代ではなくなったそのとき、

日本が受けるダメージは
尋常なもの ではありません。

そんな折、示されているのは、
「働き続ける」という
シンプルな 答えです。


、、“高齢者が支え手になれば、
 無理なく支えられる社会へ、、


 もし 仮に、65歳以上を
「支えられる側」と仮定すると、

2017年に
現役世代2.1人で1人の高齢者を
支えることに。

2065年には
1.3人で1人の高齢者を
支えることに。


 また 仮に、75歳以上を
「支えられる側」とすると、

2017年に
現役世代5.1人で1人の高齢者を
支えることに。

2065年であっても、
2.4人で1人を支えることが可能。”

経済産業省
『2050年までの経済社会の
構造変化と政策課題について』
(平成30年)


 老後も働いて
お金を稼ぐのであれば、

相応の給料を期待したい
ところです

が、

平均給与のピークは
55歳~59歳の「545万円」です
(男性712万円/女性330万円。
国税庁『令和5年分
民間給与実態統計調査』)。


 「定年後も働く」…決意の先には
「給与半減」の混沌、、

 ちなみに
団塊ジュニアの該当する
「40代~50代の平均年収」
について見てみると、

40歳~44歳の
男性が 612万円、
女性  343万円。

45歳~49歳の
男性が 653万円、
女性  343万円でした。

 50代の平均年収の場合、

50歳~54歳の
男性が 689万円、
女性  343万円。

55歳~59歳の
男性が 712万円、
女性  330万円。


 生涯現役に向け、
高年齢者雇用安定法の改正
なども 行われていますが、

定年後の再雇用制度が
整っている企業も
多いとは 言えません。

 どんなに働き手として
キャリアを積んでいた
としても、

嘱託社員になった瞬間に
給与半減……といった事態は
実際に起きています。


「団塊ジュニア」、
そして「団塊ジュニアに
支えられていた世代」に

もう間もなく襲い掛かってくる、
避けられぬ悲劇。

給付問題ばかりが
取り沙汰される昨今ですが、

長期的な保障に
目を向けることが
求められています、、

 、、以上、令和6年
 2024年12月23日(月)報道記事より、、
、、、

再掲載

 幸、不幸?
  超高齢化
   近未来


人生幸福とは?、、生きづらい現代社会。運命は残酷。【しかし】、殆どの人が勘違い「幸福な人生」と「不幸な人生」を分ける「シンプルな答え」とは?2024年11月24日(日)報道より、、

2025-01-04 17:48:12 | 日記
 謹賀新年
  本年も どうぞ
「575、ブログ、はじめました。」
  宜しく 御願い致します

    令和7年 2025年

 それでは、今回の 575...
、、、、、


地位評価
 よりも、内面
     幸福を



、、備忘録、、報道、、令和6年
 2024年11月24日(日)6時報道
 記事より、、校正あり、、、



 現代社会は、
とにかく生きづらい。
そして運命は残酷だ。

生きていくということは、
なんて苦しいのだろう。


 しかし、
この「苦しみに満ちた人生を、
いかに生きるべきか」
ーーこの問題に
真剣に取り組んだのが、
19世紀の哲学者・
ショーペンハウアー。


 哲学者の梅田孝太氏が、
「人生の悩みに効く哲学」を
わかりやすく解説します。

本記事は
梅田孝太
『ショーペンハウアー』
(講談社現代新書、2022年)
から抜粋・編集したものです。


 、、幸せになるための
 「3つの財宝」、、

 ここからは さらに、
『幸福について』の内容を
詳しく見ていきましょう、、


 先述したとおり、まずは、
幸福の礎となる「3つの財宝」
について規定、、、

 要は、それらを
持っているかどうかで、

幸福な人生になるかどうかが
決まってしまうのだ

というのだ。

 その 3つの財宝 とは?、、


 第1に、
「そのひとは何者であるか」。

すなわち、
人柄や個性、人間性などの
内面的性質が第一の財宝とされる。

そこには 健康や力、美、
気質、徳性、知性、
そしてそれらを磨いていくこと
も含まれるのだという。



 第2に、
「そのひとは何を持っているか」。

これは、
金銭や土地といった財産、
そのひとが
外面的に所有するものだ。



 第3に、
「そのひとは
いかなるイメージ、表象・印象
を与えるか」。

これは、端的に言って
他者からの評価であり、
名誉や地位、名声である。

、、、

 これら3つの財宝のうち
わたしたちは たいてい、
第2のものや第3のものを
追い求めてしまう。

まさに これらは、
「~がほしい」、「~されたい」
という欲望の対象で、

どれほど多くを手に入れても、
決して 満足できないもの
である。

、、、

 したがって、

何かを手に入れさえすれば
幸福になれるという考えは、

取り去るべき臆見

だといえる。


 もちろん、こうした
第2、第3の財宝が
まったく価値がないものだ
ということではない。

生きていくためには
これらが必要であることは
言うまでもないし、

それらを手に入れることを
よいことだ

とわたしたちは
当然考えているし、

社会生活もまた
それらの価値を中心に
出来上がっている。


 そうしたものを
一切捨て去るべきだ
というのが
主著の〈求道の哲学〉だ
とするならば、

『幸福について』で
力点が置かれているのは、

第2、第3の財宝

よりも

第1の財宝のほうが
価値あるものだ

という「優先順位」を
「あきらかにする」ことである。

、、、

 結局のところ、
「~がほしい」、
「~されたい」
という欲望を節制し、
コントロールできるような、

「穏やかな内面的性質」を
備えているひと こそが

幸福な人生を送る
のではないだろうか。

、、、

「内面的な性質」は 不変である

すなわち、
ショーペンハウアーによれば、

あるひとが幸福な人生を送るか、
それとも
不幸な人生を送るのかは、

第1の財宝である
「内面的性質」に
最も左右されるのだという。


 たしかに、
人生の道行きの中で、
その出発点に
何を所有していようとも、

またどんな出来事が起き、
ひとにどう思われる
に至ろうとも、

それをどう感じるかは、
そのひとの
「内面的な個性」による。


たとえば、
気高い性格や、明晰な頭脳、
楽天的な気質、心根の明るさ、
心身ともに健康であること、
こうした諸性質を
いくらかもっていて、

「さらに」
「維持増進」していける人は、

「幸福な人生」を送るための
基盤が
備わっているのだ
といえる。


わかりやすいのは
心身の健康だ。

これがないと、
どれだけ多くの財産を
持っていても、

そもそも
楽しんだり快楽を感じたり
することさえできず、

幸福だ とは言えないからだ。

、、、

 わたしたちは たいてい、

「~さえ手に入れば、
~に認めてもらえたら、
~にさえなれれば
幸せになれる」

と 考えてしまいがちだ。


 が、


何が手に入ろうと、
誰に認められようと、


陰気な者は
決して喜ぶことができず、

憂鬱な気質の者は
ずっと不安から逃れられない。


気高い性格をした者は、
世間が羨ましがるような
莫大な財産や高い地位など
持って いなくても、

自分が自分であるだけで
満ち足りていて、
「誇り」を失うことがない。



 ショーペンハウアーによれば、

陽気であったり
陰気であったりする気質や、

明るかったり
憂鬱だったりする
気分の

原因となっているのは、

身体の奥深くに備わっている、
不変の「内面的な性質」
なのだ という。

、、、

 、、内面的な性質は、
心の中で
「受容力と再生力との
バランス」を生み出すものだ
(邦訳34頁)。


わたしたちの「心」は、

外面的な刺激を
さまざまな仕方で受け止め、

また通常の状態に戻るための、
心の反応力とでも呼ぶべき

「力」を備えている。


それが
どの程度の強さなのかは
ひとによって異なっていて、

明るい気質のひとは
何が起きても軽やかに受け止め、
次のプロセスにすぐに進もうと
軽やかな反応を見せるだろう。


 これに対して、
憂鬱な気質のひとは、

どんな出来事にも
過度の感受性を示して
重く受け止め、

細部まで探り尽くさないうちは
不安で決して次に進めない
ものである。

、、、

、、「内面の富」を
   見つめること、、

 以上のように、
ある ひと が
いかなる「内面的性質」を
もっているのかが、

「幸・不幸を隔てる
最も重要な要素」となる。

これを
ショーペンハウアーは
「内面の富」と呼んでいる。


 わたしたちは たいてい、

財産や他者からの評価など、
外面的なものに
気を取られてしまいがちだ。


 だが、


「内面の富」を持っている者は、


「まったく輸入せずにすむ国が
いちばん幸福であるように」、
外からやってくるものを
必要とせず、
「自らに満足」できる。

すなわち、

だれでも、
自分にとって
最良で肝心なことは、
「自分自身」であることに
ちがいないし、

自分にとって
最良で肝心なことは、
「自分自身で」成しとげるものだ。


自分にとって
最良で肝心なことが
多ければ多いほど、

したがって、自分自身の
「内に見出す楽しみ」の源泉が
多ければ多いほど、
それだけ「幸福」になる
(邦訳48頁)。


 もちろん、
財産の多寡や他者からの評価
などの外面的な富を
まったく気にせずに
いられるひとなどいないだろう。

わたしたちは
日々これらのことを気にかけ、
神経をすり減らしている。

だが、

ショーペンハウアーは
以下のように断言する。


およそ生あるものは、
自分自身のために、
何よりもまず
「自分のために独自の生」を営み
生存するほうがよい。


──どんな在り方でも、
自分自身にとって
最優先すべき
最も大切なことは、

「自分は何者なのか」
ということであり、


もしも、たいした価値など
ありはしないというなら、

そもそも、
たいしたものではない
のだろう(邦訳175頁)。


 外からやってくるものよりも、
「内に備わっているもの」こそが、
「幸福の源泉」なのである。

財産や他者からの評価
よりも、

自分で自分を評価し、
そうして見出した
「内なる本質」を育て、
開花させていく
「孤独な営みこそが、幸福」に
つながっている。


 もしも
自分が「内面の富」なんて
一つも持っていない、
そんなたいした人間ではない
というなら、

そんなちっぽけな者が
どうなろうと、

そもそも気に病む必要など
ないだろう。


 何をどれだけ手に入れたか、
ひとからどう思われたか。

こうした 外面的なことがら

よりも、

「自らの内に
もともと」宿っている「富」に
目を向けることが
重要なのだといえる。

たとえそれが
いまだ種でしかなくと、
いつか花開いて実を結び、
幸福という収穫をもたらす
その日まで
水をやり続けること。

それが
ショーペンハウアーの教える、
幸福への第一歩なのである。



、、以上、2024年11月24日(日)
6時報道記事より、、
、、、、、

、、再掲載、、

 地位評価
  よりも、内面
      幸福を