上野駅 未来へ紡ぐ 始発駅
( この背景は、以下に
掲載致しました、、)
時は流れ、時代は代わり、、
備忘録、、報道2025年3月14日(金)及び2023年6月21日報道記事合体校正、、
2025年春のダイヤ改正で、
常磐線特急で67年間続いた
「伝統の始発駅」消滅!?
上野駅発着最期の特急始発駅の牙城消滅
全路線で
特急列車途中駅になってしまった
「北の玄関口」 上野駅の 存在感
JR東日本は、
2025年3月15日に実施のダイヤ改正で、
常磐線定期特急列車の始発駅を、
上野駅から
品川駅に統一します! と発表!
、、常磐線特急「ひたち」、、
上野駅は
「北の玄関口」として知られる
東京の駅で、
東北や信越、
上信越方面からの鉄道が
東京に到着する始発駅終着駅。
その北の玄関口で、
遂に、特急始発駅として最期の牙城、
常磐線特急「ひたち」も、
始発駅から途中駅へ!
上野駅から茨城県水戸駅、
東北地方は福島県内海岸側を通り、
宮城県岩沼市岩沼まで。更に
東北本線経由直通で、宮城県
仙台駅までを結ぶ常磐線。
その常磐線を走る特急列車
「ひたち」「ときわ」は、
2015年3月の
「上野東京ライン」開業で、
品川駅を発着する列車が登場。
これは年を追うごとに増え、
2024年3月改正ダイヤにおける
「ひたち」「ときわ」は、
殆どが品川駅発着に。
上野駅発着で残る定期列車は、
朝の「ときわ」53・54号の
1往復のみとなる。
この最後の1往復も、
今回2025年3月のダイヤ改正で
品川駅発着となり、
遂に、通常ダイヤでは伝統的な始発駅、
「上 野 駅 始 発 の・
上 野 駅 行 き の
常 磐 線 特 急」は
完 全 消 滅。
特急列車としての「ひたち」は、
1969年 (昭和44年) に
上野~平(たいら、
現:いわき駅)間で 運転を開始。
一時期は一部列車が
東京駅に乗り入れていたことも
あったが、
基本的に上野東京ラインの開業まで、
上野駅始発。
また、常磐線経由の特急列車は、
上野~青森間を結ぶ「はつかり」が、
1958 (昭和34) 年から
1968 (昭和43) 年まで
常磐線経由で運転。
加えて、寝台特急としては、
同区間の「ゆうづる」が
1965 (昭和40) 年登場。
これらを含めると、
上野駅始発・終着の特急は
67年前に登場。
急行列車(通常利用できる列車に
限る)迄含めれば、
上野駅始発・終着の優等列車は、
1947 (昭和22) 年に登場した
上野~青森間の急行列車、
第207・208列車まで遡る。
更に、戦時中は
常磐線経由の急行列車は
消滅していたが、
戦前まで歴史を辿ると、
1906年に登場した 上野~青森間の
第801・802列車がその始まり。
なんと 1 1 9 年 前 に
上 野 駅 始 発 ・ 終 着
の 優 等 列 車 が
存在していた。
運転開始年 列車名
当初の運転区間 備考 の順に、、
上野駅を始発・終着駅とした、
常磐線経由の主な
急行・特急列車まとめ。
この他急行「ときわ」「もりおか」等、
様々な列車が存在。
1906年
急行(愛称なし、
801・802列車)
上野~青森間
1946年 (昭和21年)
Yankee Limited
上野~青森間
進駐軍専用列車
後に横浜始発に変更
1947年 (昭和22年)
急行(愛称なし、207・208列車)
上野~青森間
1948年に201・202列車に変更
1950年 (昭和25年)
急行「みちのく」
上野~青森間
201・202列車に愛称付与
1958年 (昭和33年)
特急「はつかり」
上野~青森間
1968年に東北本線経由に変更
1965年 (昭和40年)
特急「ゆうづる」
上野~青森間
寝台特急
1969年 (昭和44年)
特急「ひたち」
上野~青森間
1973年まで一部は東京駅行き
1989年 (平成元年)
特急「スーパーひたち」
上野~平間
後に仙台駅発着も
1997年 (平成 9年)
特急「フレッシュひたち」
上野~勝田間
後にいわき駅発着も
2015年 (平成17年)
特急「ときわ」
品川・上野~いわき間
2025年現在は高萩駅(茨城県)迄
なお、上野駅を
始発・終点とする特急列車が消滅は、
あくまでも定期列車に限る。
JR東日本水戸支社は、
ダイヤ改正の発表時、「臨時特急列車は
この限りではありません」と説明。
実際、今年2025(令和7)年
春の臨時列車では、
ダイヤ改正以降も
上野駅を始発・終着駅とする
臨時「ときわ」の設定を発表。
毎日運転の列車ではないが、
今後も「上野駅始発の・
上野駅行きの常磐線特急」が
見られる機会はあるもよう。
、、、
上 野 駅 の歴史は現近代日本の歴史
2023年(令和5年)、
上野駅は開業140年を迎えた。
日 本 鉄 道
(現在の東北本線や
常磐線などを開業した
明 治 時 代 の 私 鉄
の名称)の
ターミナル駅として誕生した
上 野 駅 は、
同 鉄 道 が 国 有 化
された後も 引き続き
タ ー ミ ナ ル 駅
の役割を担った。
1883年、日 本 鉄 道 が
上野駅―熊谷駅間を仮開業。
起点になった上野駅は
当 初 計 画 さ れ て
い な か っ た。
同鉄道の萌芽ともいえる計画を
最初に提案したのは
お 雇 い 外 国 人 の
ジョセフ・ユーリー・クロフォード。
クロフォードは路線調査の結果から
東京側の起点は小名木川
(現・東京都江東区)付近に定め、
千住(現在の鉄道駅では、常磐線ほか
多数のターミナル駅北千住駅)、
(埼玉県内)熊谷―深谷―本庄を経由し
(群馬県内)高崎や前橋を
目指すことを起案。
、、上野にターミナルを置いた
理由は?、、
クロフォード案は立ち消えたが、
政府首脳の 岩 倉 具 視 は、
華 族 に 呼 び か け て
日 本 鉄 道 を 設 立。
1881年に(埼玉県)川口付近から
建設を開始。
中途半端な位置から
建設が始まったのは、
用地買収が容易だった為。
線路は川口から北へと
建設が進む一方、
東京側に開設するターミナル駅は
決まらずにいた。
日本鉄道の首脳は、
官営鉄道の新橋駅をターミナルに
上野を経て川口に至るルート案と、
新橋駅―横浜駅の間にある
品川駅から線路を分岐させて
川口に至るルートの2案を検討。
後者は
官営鉄道と接続する観点から
政府、特に後に鉄道の父と
呼ばれる工部省(現・国土交通省)の
鉄道局長だった井上勝から賛意を得た。
しかし、後者のルートは
東京の西側を迂回するので
工期が長引くという欠点があり、
開業後も都心部までの所要時間が
長くなるというハンデを抱える。
以上の理由から 日本鉄道首脳は
前者のルート案を修正し、
上 野 に
タ ー ミ ナ ル 駅を定めた。
上 野 にターミナル駅を設置
することが決まり、
日本鉄道は急ピッチで
川口から南への線路建設を進めた。
しかし、
工事着手が遅れた影響から
1883年の開業時駅舎完成は間に合わず、
荷物取扱所を仮駅舎として使用。
仮駅舎ながらも、上 野 駅 には
10両編成の列車が停車できる程
長 い ホ ー ムが設けられた。
また、行き止まり式の線路
ではあったものの
線路に並行して駅舎が配置されたために
新橋駅方面へ延伸も可能な構造だった。
上野駅の本駅舎は、
1885年に完成する。
設計した 三 村 周 は
工部省の技術者で、
後に独立して三村工場
(現・日本信号の前身の1つ)
という鉄道信号の製造工場を
立ち上げている。
三村は 鉄道技術者養成のため
開校された工技生養成所でも学び、
工部省でも鉄道技術者として活躍した
エ リ ー ト 官 僚 だった。
官僚の身でありながら、三村は
日本鉄道という
私 鉄 に 出 向 して、
駅 舎 の デ ザ イ ン を
手がけた。
上野駅の本駅舎が
赤 レ ン ガ を用いた
洋 風 の デ ザ イ ンに
なったのは、
明 治 新 政 府 が
西 洋 化を急いでいたことの
影 響 を大きく受けている。
当時は
服装から建築物に至る迄、西洋を模倣。
特に庁舎や駅舎、病院といった
公共性の強い巨大建築物は、
西 洋 的 な 外 観 が
求められた。
それは、多くの人が目にする建物を
西洋風で造ることで、
日 本 が
世 界 の 一 等 国
になったと
国 際 的 に ア ピ ー ル
できるという 理 由 だった。
そのため、三村も
政 府 の 意 向 をくんで
上 野 駅 舎 を
洋 風 の レ ン ガ 造 で
デザイン。
国の手厚い保護を受けた
日 本 鉄 道 上 野 駅 は
寛 永 寺 の 境 内 地 に立地。
これは 政 府 が
寛 永 寺 の一画を
官 有 地 として所有し、更に
隣接する区議会議事堂跡地と
小学校跡地も
駅用地として提供された為。
上 野 駅 の 設 計 に
優 秀 な 官 僚 が
派 遣 さ れ、
用地についても
便宜を受けていることからも、
日 本 鉄 道 が
政 府から 手 厚 い 保 護 を
受けていたことが伺える。
純 粋 な 私 鉄
で は な く、
半 官 半 民 の
鉄 道 会 社 と言われる所以。
(大日本国)政府からの手厚い保護は
日 本 鉄 道 にとって
大きなアドバンテージになる が、
一方で政府の指示に従わなければ
ならないという
ジ レ ン マ も
抱 え る ことになる。
仮開業ながら上野に
ターミナル駅を構えた日本鉄道は、
都心進出を果たしたことに満足し、
政府と約束した
新橋駅―横浜駅の間にある
品川駅から線路を分岐させ
川口に至るルートの建設を
進 め な か っ た。
日本鉄道に対し政府は
早急に同区間を建設するように要求。
特に、井上は同鉄道の豹変に
露骨に不快感を示した。
なぜなら、同鉄道が
官営鉄道と 接 続 しなければ、
鉄道の 物 資 輸 送
という 機 能を十分に果たすことが
で き な い から。
実際、日本鉄道は政府から
上野駅ルート案の承認を得る際に、
開業後は速やかに
川口―品川間を結ぶルート案を
実現させるよう約束させられていた。
それを反故にしようとした日本鉄道に
井 上 が 不 快 感を示す
のは 当然だろう。
こうした経緯から、
同鉄道は1885年に
(東京都北区)赤羽駅から分岐する形で
品川駅を結ぶ路線を建設し
日本鉄道品川線と名付けられた。
上野駅を経由せずに
横浜港へと貨物列車を
運行できる品川線が開業した為、
同駅を発着する貨物列車は
減少するように思われた。
しかし、日本鉄道によって
北 関 東や東 北 地 方で
生産された 農 産 物 が
東 京 へ と 輸 送
されるようになったことで、
上 野 駅 は
貨 物 拠 点として
盛 況 となる。
また、その農産品輸送が
北 関 東 ・東 北 地方の
農 業 振 興 に も繋がった。
貨 物で賑わうことは、
上 野 駅にとって
嬉しい悲鳴でもあった。
何故なら、上野駅は
東京都心部台地下という
狭隘な場所に開設された。
そのため、駅前広場は
狭隘で貨物の受け渡しを待つ
運送業者が並ぶと
通 常 の 往 来 に
支 障 を き た し、
事 故 を 誘 発。
こうした問題を解消するべく、
日本鉄道は
上 野 駅 の
貨 物 機 能 の
分 散 化 を計画。
1890年に貨物専用線を上野駅から
秋葉原貨物取扱所
(現・秋葉原駅)迄延伸。
この専用線が供用を開始したことで、
上 野 駅 の 貨 客 は
分 離 された。
、、「北の玄関口」として発展、、
貨 物 機 能 を 喪 失した
上 野 駅 だったが、
北関東・東北地方に
路線網を広げた日本鉄道の
ターミナルということもあり、
旅 客 需 要 は
年を経るごとに増え、それに伴い
サ ー ビ ス も 充 実 した。
1898年、駅構内
旅客手荷物運搬人を配置。
運搬人は目印として
赤い帽子を着用したことから
赤 帽 の 愛 称 で親しまれる。
さらに、1900年には
旅客需要の増加に対応するべく
旅 客 待 合 室 増設。
上野駅が
北 の 玄 関 口 として
本 領 を 発 揮するのは、
大正時代、1923年に起きた
関 東 大 震 災 が
契 機 だった。
震災による火の手は
神田・日本橋・両国・深川
といった 下 町 を
焼 き 尽 く し た。
上 野 駅には
列 車 に乗って
北 へ と 避 難 しようとする
被 災 民 が 殺 到。
いち早く駅へと
逃げ込んだ被災民は列車に乗って
田端駅へと移動して難を逃れたが、
その後に迫った火の手により駅は焼失。
震 災 直 後 か ら、
東 京 の 鉄 道 は
機 能 不 全 に陥った。
上野駅から延びる路線の多くも
不通になったが、
赤羽駅―川口駅間の運転は早急に再開。
政 府 は地方へと疎開する
被 災 民 の 運 賃 を
無 料 にする 措 置 を
講じたため、
被災民の多くは
上野駅から(群馬県)高崎駅を目指した。
被災民が高崎駅を目指したのは、
信越本線・高崎線・上越南線が
交差する要衝だったから。
未曾有の大震災で、
とにかく逃げなければ
という不安を抱えていたことが
察せられる。
上野駅は
翌 日 から始まった
震 災 救 護 においても
北関東・東北各県が配送する
支 援 物 資 の
集 配 拠 点
になる等、その結びつきは強かった。
そして、震 災 によって
壊 滅 し た 上 野 駅 は、
駅 の 再 建 と同時に
大 改 良 に着手。
同時期に
日 本 初 の 地 下 鉄、
東 京 地 下 鉄 道
(現・東京メトロ銀座線の一部)
が 浅 草 駅―上 野 駅間で
地下鉄の建設計画を
進められていたこともあり、
その影響を受けて上野駅の再建計画は
何度も練り直された。
駅舎再建計画では6階建という駅舎を
高層化する案も出たが、
震災後の緊縮財政から幻に終わる。
最終的に、上野駅の改良は
隣接していた操車場を尾久へ、
機関庫の一部を田端へと
移すことで用地を捻出し、
さらに上野公園側の崖中腹に
線路を移設することで
高架線の貫通式ホームと
地上線の頭瑞式ホームが整備された。
新しい上野駅の完成により、
それまで地上線だった
上野駅―東京駅間は
高架線へと切り替えられた。
これにより
1925年から 山 手 線 が
環 状 運 転 を 開 始。
そのほか、
東北本線と東海道本線の直通運転
が検討された。
両線の乗り入れは
戦後に一部の列車で行われており、
その後2015年に
上野東京ラインとして実現するが、
当時は直通しても
需要がないという理由で進まなかった。
、、集 団 就 職 や
帰 省 客で賑わった戦後、、
再建された上野駅は、
(第二次世界大戦)戦災では
駅舎の焼失を免れた。
駅 周 辺 は
焼 け 野 原 になったが
駅 舎 は 無 事。
そのため 上 野 駅 は
戦地から故郷へと戻る
復 員 列 車 や
地方の疎開先から東京へと戻る
引 揚 列 車、
千葉や茨城といった
東京近郊の農家へ
食 糧 を 買 い 出 し
に行く人々、
逆に売りに来る
行 商 人 たちで
ご っ た 返 し た。
それは 上 野 の 街 に
賑 わ い をもたらすと同時に、
戦 災 孤 児 や
傷 痍 軍 人 が
集まる場所になっていった。
上野駅から御徒町駅の高架下には
闇 市 が生まれ、
それは歳月を経て
戦争が遠い時代の記憶になっても
形を変えながら
独 特 な 商 店 街 として
存 在 感 を 発 揮。
現在でも 上 野 駅 の
広 小 路 口 は、
ア メ 横 につながる
出入り口であることから往来が激しい。
戦後の上野駅は
正月・盆といったシーズンに
帰省客が溢れる。
帰省客に応対するべく、
国鉄は1959年(昭和34年)から
駅前広場にテントを設営し、
旅客の安全を確保。
駅前広場では待ち時間に同郷者との
酒 盛 り が 始 ま り、
お 国 言 葉 が
飛 び 交 う といった
独 特 の 光 景 が広がった。
高度成長期にさしかかると、上野駅は
集 団 就 職 列 車 で
上京する少年少女たちで溢れた。
集 団 就 職 列 車 は
上野駅だけの話ではなく、
東京駅・新宿駅、
更には大阪ほか大都市で運行されたが、
1964 (昭和39) 年に発売された
井 沢 八 郎
「 あ ゝ 上 野 駅 」が
大 ヒ ッ ト したことで、
上 野 駅 の イ メ ー ジ
が 特に強くなった。
上野駅広小路口と
不忍口の間に建立されている
井沢八郎「あゝ上野駅」の
歌 碑 と レ リ ー フも、
上野駅 にある。
こうした光景が
上野駅で見られた理由は、
上野駅から
北関東・信越・東北各地に向けて
特 急 列 車 が
多く運行されていたことに起因。
だが、上野駅に
東北・上越新幹線が乗り入れた
1985年(昭和60年)から、
少しずつ過去のものとなっていった。
上野駅発の特急列車や夜行列車が
歳 月 を 経 る ご と に
廃 止 されていったからだ。
国鉄は当初、上 野 に
東北・上越新幹線の停車駅を
設置する意思はなく、
東京駅発着で計画を進めていた。
地元・台東区は
上野駅の賑わいを喪失させない為に
新幹線停車の誘致活動をしていたが、
世間は
東京駅と上野駅という短い区間に
2つも新幹線駅はいらないと
冷ややかな反応だった。
国鉄が翻意して、
上野駅に新幹線を停車させる方針
にしたのは、
東京駅までの建設工事が
計 画 通 り に
進 ん で い な か っ た
ことが大きな 理 由 だった。
上野駅―東京駅の間にある
神田付近は二重高架になる為、
周 辺 住 民から
強 烈 な 反 対が起きていた。
国鉄は建設工事に
取りかかれずにいた為、
その影響を最小限に抑えるべく
上 野 駅 に
新 幹 線 を 停 車
させる 決 断 を下す。
、、遂に「途中駅」上野駅の今後は、、
期せずして上野駅は
新幹線の始発駅となるが、
その恩恵は長く続かなかった。
上野駅発着だった新幹線は、
1991年に東京駅まで乗り入れた。
さらに2001年には、
湘南新宿ラインが運行を開始。
これにより東北本線・高崎線の
一部の列車が上野駅を
経 由 し な く なる。
ダ メ 押 し となったのが、
2015年の
上 野 東 京 ラ イ ン
の開通だった。
2015年には 寝台特急の「北斗星」、
翌年には「カシオペア」が
定期運行を終了。
これらも
上 野 駅 の 北の玄関口、
始 発 駅 としての
地 位 を 低 下させることに
つ な が っ て しまった。
時代とともに、上 野 駅 は
北 の 玄 関 口 としての
印 象 を 薄 く してきた。
いまや
石 川 さ ゆ り が歌った
『津 軽 海 峡・冬 景 色』
に描かれた、あのかつての
上 野 駅 の 姿 は な い。
しかし、他 方 で 近 年は
家族連れや訪日外国人観光客で
にぎわうようになり、
これまでとは
ひ と 味 違 っ た 活 気
にあふれている。
これが 現在の 上野駅の姿。
2020年には上野公園に通じる
公園口駅舎がリニューアルされ、
細長いルーバーと呼ばれる
羽根板を多数使って
周辺の景観に溶け込むような
工夫が施された外装デザインに
生まれ変わった。この
上 野 駅 公 園 口 駅 舎。
同駅舎は 国 内 初 となる
意 匠 登 録 された
鉄 道 建 築 物 となる。
上野駅は、今後ターミナルという
動線の力によることなく、
街 の 魅 力 で
人を呼び寄せることが求められる。
次の時代に向けて
新しい上野駅像の模索が続けられている
、、、以上合体報道記事校正、、
昔々、特急など一切使わず
鈍行列車だけを使い、
いったい何処まで日本列島
わずか一日で行き
帰って来られるものなのか等
実際に体験してことがありました、、
時刻表抱え、乗り継ぎ列車待ち時間空き時間観光など色鉛筆で時刻表ボロボロになるまで書きこんだりして緻密計画、、
1日でも意外と遠くまでいけるもんなんだなあと
つくづく感心しました、、が
眠っているんだか起きているんだか
分からない白昼夢状態、完全フラフラになりました、、(笑)もう出来ないな!(笑)
再掲載
上野駅
未来へ紡ぐ
始発駅