いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

日帰りで門司港まで大人2名

2022年02月04日 | 写真




先月末、夫婦二人で出掛けてきました。






最初は、長女も一緒に行く予定にしていました。






でも、都合で二人で行くことになったので、






だったら、ゆっくり読書をしながら電車で行きたいと、






本が好きな妻の希望で、JR利用で行ってきました。






それなりに鉄道も楽しみながら駐車場の心配もせずに済み、







寒い日ではあったけど、小旅行ができました。






風は冷たかったけど、焼きカレーが一層おいしかったです。







フリーマーケットにも立ち寄る人影がまばらな気温でした。






以前、手に入れたパスポート券を使って、






展望タワーも登ってきました。






旧税関の展示物に、







今年の干支を見付けてきたり、






輸入しちゃいけないので、水際で捕らえたそうです??






風景を楽しんだりするうちに、






午後は天候が回復して、日差しの暖かさも感じられました。






二人で、ゆっくりと港湾風景の散策を楽しみつつ、






今回は、ちょっとお目当てのところにも寄ってきました。






天気がいいと景色も写り映えがしますし、






たどり着くまで風景を見ながら散歩写真をしたりして、






そこは見渡すと、なんとなく異国情緒のようでもあり、






見ようによってはテーマパーク然も醸しているようで、






どう眺めても観光地らしい演出には違いがなく、







それなりの不思議な味わいがありました。







カメラを向けてみても自然に絵になる感じがあります。






多少どこか作り物めいた雰囲気も、ないではないけど、







こうした風景ですから、それなりに目をたのしませてくれる。






観光地としては、いまの時節柄どうだったかは・・・






でも、まあ。少なくとも私たちは、お出掛けしてきました。







関門大橋が街の風景に見え隠れするのも、ここに来てこそですし、






お目当てのオルゴールのミュージアムで、






誕生日のプレゼントにする品物も作ったり、






帰りには立ち寄った喫茶店でケーキセットも、







おいしく頂いてきたことでした。















新年ですね、私も60うん回目でしでし。。。

2022年01月01日 | 日記


年が明けました、いかがお過ごしですか?

私も家族とゆっくり暮らしつつお正月を味わっていますよ。

年末に私たち夫婦、そして妻の姉、それら姉妹の老いた母とで、
都合この4人連れになって、近所のレストランで会食しました。
最近これは私たちが毎月の恒例にしている昼食の集まりですが。

この食事会、年寄りから振舞ってもらう名目で開いておりますが、
定期的に、こういう形で催して、お互いに声を掛け合えばこそで、
この面子が顔を揃え会うという機会にもなったりしています。

別に近所に住んではいます。でも、特に何か用でもないと、
一緒の場所に集まるというのは、設定なしに起こりませんし。
ましてや、今どきの住宅事情。自分で住むには足りていても、
何人も集まれる部屋の用意だなんて、貧乏所帯には望み難く。

身内で集まり外食は、一見贅沢な人聞きに取られそうでも、
そこはむしろ現実というのは、真逆な話がありまして。
だから、これは貧困社会にこそ、社会資源が充実していないと、
そこの厳しさについて、なおさらに救われないことです。

それは表面的に物質的な恵みに満ち溢れているようでも、
それを作ったり、運んだり、提供するための人々が、
それなしで生活は立ち行かない背景がある意味だし。

消費することが成立するというのは、そこでは、
使う側と、それを使ってもらう側で、一セットになり、
買いに行けば、売っていますというのも、同様で、
入り口と、その出口が、循環するように出来てます。

ここには選びようもなく、そこへ参加しないと、
誰しも、自分自身、生きること自体が行き詰まる。

仮に、私みたいに、ほとんど外出すらも少ない人間でも、
この社会のおかげで生活をしつつ、生活するから社会は、
こういう為し方で、自ずと為されいくという話です。

家にいる時間ばかりで、特段そこで社会との繋がりは、
薄いんじゃないかと考えちゃうけど、そうでもなくて、
街の中で生きてる以上、毎月まいつき私一人だけで、
直接間接に、金銭にして数十万の経済が生じてくる。

確かに、自分の手元で動いたお金は、10何万でしょ。
でも、医療にかかっても、自己負担こそ低額でも、
健康保険にしても、自立支援にしても、私一人は、
たかが知れてますが、こういう人間が一定割合で、
こうして居ること自体で、他の人たちの生活に繋がる。
その繋がった流れというので、世の中の動きを形作ってる。

正月早々、大風呂敷ではありませんが。
誰もが、そこに、そのようにして、ある。
そこに生きる。生活するということ、そのものが、
取りも直さず、この社会の成り立ちと、分け隔てようなく、
それ含んで、全てみんなみんな含み込んだ上で、
この地上の生活の一助を為して世界がある。
というお話でした。

だから、そのひと個人が何をするか、しないかと。
それは別の意味で、あなたも、そうやって、
生きていてください。あなたが生きていることが、
別の誰かを養う足しにもなるし、その人がいることで、
ほかの人も、今こうして、共に地上に、
こうしてあることが、できている。

そういう壮大で遠大なお話でした。

またね。今年もどうぞ宜しく。
旧年中は、ありがとさんでしたん~んんん!!!

 


蛇足として、でも、とやかく言って、
何があっても、文句や小言で、注文や要求が、
好きで好きで、大好きで止まない連中も、
そういう事で、そういう役割を務める立場を、
そのようにして帯びていることで、自己実現しとるんちゃう?
 まあ、ええよ。正月だし。好きにさせたるっちゃ。



はたして目標の達成がゴールでいいのだろうか?

2021年12月01日 | 日記


どうも行き成り奇妙なタイトルなのですが。
つらつら考えていて、あることに私は気が付きました。

例えば、病気って治すことを考えて、取り組むものですが。
じゃあ、それで病気を治せたらホントに解決しますかね?
もしも、そこで取組中の疾病を治せたというのならば、
これで所期の目的については、一旦の達成をするにしても。
ただ、病気なんて、いくらでも他にたくさんあるんです。
また治った病気についてだって、再発がおきたりもするし、
いずれまた違った疾患を被るみたいなのも、よくあります。
さらには、病気というのは治せるものばかりとは限りません。

その場合は、病気を治せなくても、いかに付き合いながらで、
これから暮らしていこうかという話になりますけど。
もし仮に治せるような病気の場合にだって、
治るまでは、どう付き合って過ごすかなんですし。

まあ、なかには極端な考え方が好みのひとになると、
とにかく万全て病気が無くなりさえすれば、それでいいんだって。
そこまで拡大したがる向きも、結構おありでしょう。

じゃ、本当に病気の状態というのが、世界から消え失せたら、
それで究極ゴールになるのかと、そう思ってもいいかと問うなら。
私は、そういう風にならないだろうって思うんです。

いうなれば、何か一つ解決をしたら、また違う何かに新たに取り組む。
そういう何かが、必ずまた立ち上るようにして現れてきますからね。
要は、目先の敵を倒したら、次なる敵がまたやってくる。
そういう繰り返しが必ず来るのが現実と思ったほうが賢いです。

つまり取り組んでいくっていう、その何か相手というものは、
ぜ~んぶ当面の課題が、今はそいつだってことですよ。
それらは取り敢えず仮初めの目標に考えておくべきだって。
ええ。それは当たり前といえば、そうなのですが。

私が気が付いたと思っていることはですね。
何か目標を打ち立てて、
その何かをクリアしていこうとするのが、
これが生きるってことなんだという、
このスタンスそのものが、そもそも勘違いなんじゃないか。
錯誤して据えているだけじゃあないかって、
こっちの部分へ自分の目が行くんです。

つまり、何度ゴールを潜ってみても、次のゴールがあるだなんて。
それは結局ゴールなんかじゃないですから。
せめて障害物競技のハードル程度なことですよ。
まあ、陸上競技のトラックには、ゴールがありますよね。

でも、人生はそういう枠の設け方で言ったら、
もう少し違うスパンのあることだとも言えますし。
それはだから、無理をして競技になぞらえるとしたら、
そこは、いかにゴールに辿り着くかという面より、
この競技大会に参加したか、しなかったかの方が、
むしろ重要な眼目だと見るべきかもしれません。
そう金か銀か銅かの話じゃなくて、
自分はコースに出たか、出なかったか、みたいな。

多くの人は、へたな拝金主義で生きていれば、
悪くすると、その成果物で、意義や価値を考えるんで。
そのせいで勝ちか、負けか、そっちにだけ目が行くけど。

そういうのは結果の話として、取りようによっては、
そういう意味にも取れるに過ぎないだけなんで。
むしろ単純に並べて一様に比較をしてみるほど、
一人ひとりの人間の人生なんて単純化するのが不可能です。
それは言ってみれば、様々なジャンルがある音楽を、
どれが一番優れた曲でしょうかって、尋ねるような。
設問そのものが、「おまえ、音楽が何か知らないのか?」
そうセンスを疑われるような感性欠如な思考ですよね。

だから、一人ひとりが生きている人生というのは、
これを考えるとしたら、それはやはり、
どう楽しんだかとか、どう意義深く過ごせたのか。
それで何を経験できたか、やってみて、どんなことを味わえたか。

人生において、何を得られたかの中身とは、
これは、そっちの方だろって思いますよ。

だから、どういう目標をクリアできたかではないんで。
そもそもが、一人ひとりで違うことに勤しんで、
各々は、それぞれ別個の人生に挑んでいるんだから、
これは他との比較で評価できるような意味合いが、
ここには初めからあることじゃない、
個々の独自性に類した中身が本質ですから。

それは冒頭タイトルの、ゴールへ到達する問題じゃなく、
私は、こういうコースを走ってきました。
そうですか、自分は、どこの海を泳いできたんですよ。
ああそうですか。私たちは、あの山を登りましたから。
ほお、いいですなあ。私はそこの川を楽しんできました。
いやあ、私もそこに魅力はあったんですが、キャンプが好きで。

そういう多種多様が、比較して分かるというのが、
むしろ、われわれの生きている、意味だと思うんです。

さてと、近所にお買い物に行ってきましょう。
今夜は何を作って、カミさんを待ちますかねえ。

日が暮れるの早くなりましたから。
急がなきゃ。

じゃ、また。




これもまた営みの一つですから

2021年11月30日 | 日記

先ほどの続きです。
子供は自分で取り組まないと、
自分らしい人生が始められないのだけど、
それと並んで、親の側だって、同じように、
自分の未消化で済ませてきた事柄を認めることと、
そのことに取り掛かることをしないと、
自分も同じように次の段階へと入っていけませんし、
そういう方向に進んでいかないと、
今までしてきたような疑問な振る舞いというのが、
終われないし、やめられないままなのです。
子供が同じことをしてくるから、
自分も同じことを続けないといけなくなるですって?
それは少し、いやいやだいぶ違いますよお。



われわれと別の動物の子離れについて知ってますか。
もちろん種ごとで、それぞれに違うことも多い。
ただ非常にたくさんある事柄ですけど、
巣立つときや、親離れするときに、
それまで食べ物を運んできた育て親たちが、
ある範囲まで成長したら、
親の側から、食べるものを運び続けるのは止め始めます。
子供の側で食べるのを、食べないから、
食べさせなくて済む、ではないんですよね。
ずっと与え続けて来たけれど、それは、ここで終わりだよ、
だから、これからは、もう自力で賄うようにと、
その促しを進めていくのは、親の判断ありきで始まるのです。
子供が今までのように欲しがってねだっても、
切り上げることを行うというのは、育てている側でした。

でも、ほかの動物のことを猿真似することで、
それでいいというのでない、これも分かってはいますけどね。

だから、ここで述べたいなと思うのは。
前の投稿とも繋げて書いていく意味なのですが、

子供が一定の成長に達するような時期、
今度は、自分の親世代。
つまり自分の子供の世代からみて、祖父母ですが。
その人たちの発揮できる能力が以前とは違ってきます。
それはつまり、自分と親との関係の持ち方が、
そこで次第次第に別の状態へと移行するのが始まり出す。

人と人との関係は、その時期その時期で、変化します。
自分がしていること、していくことが、変わっていく、変えていく。
これは自分の判断で、それを行っているという様子は、
傍らから見て、気が付いていくのは自然なことです。

判断の主体すら、イニシアチブを取る側が、そこでは動くし。
この変化を見せて上げられていたんですねえ。

それ見ながら、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが、
もっと自分が小さかったころと、変わっていけば、
自分ではやれなくなっていくことへ、周りの応じ方が変わる。

生活の上で、実行は能力に無理が認められる。
その場合は、肩代わりをする立場から手を貸すという。
この当たり前を知らない人々は、障碍者とは何か、
そこにも気が付けないし、トンデモな勘違いしています。

老人の施設が増え出して来たのと、
発揮する力の上限が、低めな相手への配慮というのを、
無知なままでいる人々が増えた時期は相関してることでしょう。

何かが変わっていけば、その相手とするような、
やり取りも、変わっていくし、変えていく。

ここが見える化されてる機会が、いまとても少ない。
最後には命を終えて死んでいくんだというのすらもが、
そこでの生きてる命の在り方にしても、
目の前で、同居していて同じ家の中で、それを迎えること。
今時ないことです。

知らず知らず目にしていて、身をもって触れながらで、
気が付いたり、その出来事から教わっていくような学び方が、
今は減りつつあることです。

まして今の時代は、近隣とすら、
交流するのもハバカラレル事情があったり。

だから、昔なら、ある程度は自然にいくように流れてきた。
そういうことにだって、今であれば、意識をしながら、
気を配りながらで、意図的な取り組みを持つことが必要です。

それが出来るか、出来ないかが。
ここで問われてくることです。

一見、困ったこと、なくてもいいことに思えるような。
そんな難局であっても、
そのピンチをチャンスにすることができるのは、
これがピンチであるからこそ、取り組める機会にもなるのですから。

なくてもいいこと、あってほしくないこと。
これが感じられるのは、実際です。

でも、現実に起きてるし、迎えてるんですから。
なくていいことが起きた話は、もうしている場合じゃない。

起こったことには対処をしていく、それが行うべきことです。
繰り言の言い換え語を探すのは、もういい加減に終わりにしていく。
いつまでもそれしていれば、先になんか進めません。

先に進むのには、今日、昨日とは違うことを試してみる。

やってみて工夫を重ねる。

日々そうしていれば、振り返った時の過去が、

そのとき既に、まだ短いながらも変わりだしているんです。

生きているとは、時間と付き合うことです。

生きている間、これを続けていくことです。

それが営みだということですから。




やっぱり、これは病気じゃないのだけど。

2021年11月30日 | 闘病


では、なんで「これが病気である」という理解をしていたのでは、
どういったことが手落ちになってしまうか。
そうしたことを今回は書いてみることにしました。

これは、やはり本人の側と、その人の周りの人々の間でおきる。
そうした事柄の一つである訳です。

ここで誤解なきよう予め申し上げておきますが。
これは誰かの失敗であるとか、間違いなんだとか。
そういう指摘をしてみて、そのせいで起きる事象だとか。
それをやってしまう相手側に注意の喚起をすれば、事足りるとか。
そんな次元やレベルの見方や考えは、一旦ここで捨ててください。

とにかく一度、頭を空っぽにしてみるつもりでいて欲しいのです。
間違っても、これが何の話か。
そういった結論に即決させたい気持ちへ先走る方向とかいかず。
もっと距離をとって、落ち着いてからにしてください。
何度か深呼吸をして、自分の頭の考えを止めてみるつもりで、
聞こえてくる音色を聴き分けていく状態になって、
耳を澄ませ、気持ちを開き、聞き届ける用意をしたうえで、

少しでも広い視野と、
また今までより、もう一段、高い観点で、眺めて俯瞰してみる。
そんなつもりで受け止めていただけたら有難いです。



ではでは。

まず、過去に言い古された部分でもあるのですが。
心因的な事柄と、その心因的な類推の範囲を超えた話と、
そういった表面的な区分で、この事柄を考えてみるという、
そうした便宜的な受け止め方を、ここで止めておいてください。
これを先ずお願いしておきます。

それらは、確かに、医学の人々が、物事の組み立てに用いてきた。
そういう歴史があるにはありました。
ただ、それが、何かの範囲を超えたか、超えてないか、というのは。
今では、もっと別の内容として置き換わっているからです。
いうなれば例の論理階型の意味合いでは、どの段階に当たるか。
そうした読み分け方の内容へと観点も移っているからです。
今回は、これは取り上げません。

ただ押さえておくべき事柄としてですが。
これは紛れもなく人が有しているところの「こころ」の問題で、
そこで起きてくる、その気持ちや気分また行動の話だよと。
是非、そこを汲んでおいていただきたい。

何故ならば、「こころ」が壊れた人だから、
エラーやミスが起きるという、この見え方では、
到底それが何であるか、知ることができないからです。

また同時に、「こころ」の問題であれば、
筋を通すように言って聞かせれば、話が通じるというのも、
間違いですから、絶対にやってはダメです。
先程、論理階型という用語を出しましたが、
それは、これが飛び出してくる問題だからです。

つまり表面的には正論で正しいから言えるんだ、というのは。
議論を打つ側が、相手を捻じ伏せて、征服するようにして、
こっちの言い分を押し通すという暴力行為や、虐待行為へと、
堕してしまって、結局、相手を傷付けるだけで終わってしまいます。

そう、この問題は、傷付けているのに、傷付け続けていることに、
そうしている側で気が付けないことと、同じ意味でありますが。
これがなんと、ややこしいことに傷付けてしまう側も、
自分が傷付いているから、そうしてしまうという、
もう一段ここに複雑な入れ子になった構造が潜んでいます。

それで、下手に触れると、余計に傷を深め広げるので、
棚上げにしてく方法が取られてきた意味です。
でも宿題は、味噌や漬物と違って、熟成を待っていると、
いつの間にか美味しくなって出来上がりはしないので。
いまこうして、8050と揶揄するみたいな言い方になっています。
あるいは、退院(できない人)の問題も同行異曲な話であって。

待たないと育っていかなくても、待つだけで育つのでもない。
でもね、育っているんです、もう既に。
すでに育っているから、任せていけばいいのが大半なのです。
任せておいて、任せていないというか。
子育てが終わっているのに、子育てを終えようとしないというか。
子育て時代と違う付き合い方に入るはずなのに滞っている。

そこが問題になってきているのが、この事態なのです。
それは上手な通過儀礼ができたら、それが大切かもしれません。
目に見える仕切り直しであり、過去と違う形になったねという。
確認の取り交わしであり、現実には明確でなくても、
気持ちの上に、キッチリと認め合っておく。
そういう心の通わせ合いをしていく。

この問題にならないで済むというのは、
そこが出来たか、うまく出来なかったか、
それらの違いというのは、そんなところです、きっとみんな。

そう、だから、どう関わるか、
また関わられて、どう応えられるか。
これは気持ちや心、また思いや行動、そういうことであって。
だから、そこは病気か、病気でないかという問題じゃないのです。

また、関わりあうというのも、
これは相手と自分の間にあることで、
相手の中にあるのでないし、
自分の中にあるのでもない。

目で見えないし、手で触れられないし、
捉えどころがないといえば、確かにそうで。
でも、両者で確認しあえるという場面が持てるのは、
これが、そこにあるからこそできるので。

見えないし、触れないからこそ、
上手に確かめ合い続けていないと、見失うんだし。

自分の中にあるんじゃないから。
独り合点で了解しても、通じるはずがないし。

こっちで、もしかして、これこれかな?
そう思ったら、相手に問わないと、
その自分の勘違いを、相手の実際だと思い込んでしまうし。

キッチリ把握したいと思うがばかりに、
そこで念を押そうとしたら、
相手には釘を刺されたという印象に、
受け取られてしまうことも多い。

キャッチボールのつもりで、
グローブ抜きで、しかもボール以外が飛んだら、
怪我をさせたり、暴力を被ったり。

こっちは悪気のないボールを投げたつもりでも、
受け取りがたい物が飛んでくれば、
当たり所が悪ければ、受ける側は痛みを感じます。

痛い思いをさせられて、痛いじゃないかと、
叩き返されて、ああ痛かったのかと、
投げかけた側で気が付ければ、なぜ叩いてくるか。
これが理解できるんだけど。

ヘンに自分を弁護して、こっちが悪いんじゃないと、
そういう言い張り方をするのでエスカレートしていく。
家で起きる暴力の問題というのは、そういうことで。

ここにあるのは、こっちの思いを汲んでほしいという。
そういう気持ちの打つけあいセメギあい。
でもね、子供と大人で喧嘩してもラチがあかないんで。

子供が玩具を買ってと駄々こねたら、
嫌だよ駄目だよと泣いて道に寝転がる親は見ないんだけど。
だんだん力勝負が互角に近づいてくると、
却ってより酷い抗争に持ち込んで、ダダと駄々の捏ねあい、
ぶつかり合いで応酬しあおうというのは何故なのでしょう。

それは、一言で答えられる。
そろそろ独り立ちに舵切りを始める時期が来たってことです。
それが認められない。したくない。

つまり、親子関係のなかで味わった、親をしてみた美味しさを、
賞味期限が来てるのに、食べ続けていたいという欲です。

これは、どこから来るの?
これも一言でたぶん答えられる。

その親をしている側が、自分の代で行う親子関係。
というのは、自分が親の側である場合と、
また子供の側である場合と、そういう二者二通りあるが。

この人が、子供と離れるのを上手く履行できないとしたら。
それは、どう考えても、その人自身が、済んだこと、終えたこと。
そう思い込んで、決めつけて、修了証書を手にしてるつもりで、
その実、ここが案外とキチンと決まりよく終えられてはいない。

これに尽きると思う。

ということはだ、次代の被っている状態が、
その人の中にある、病気だ、病だと、そうしておきたいのは、
そこに理由があるからで、自分が振り返りたくない、
思い出したりしたくない、自分の子供時代。
勘違いしちゃだめです、親の側ですよ、
親の側と、その人の親の間で起きていた不具合や問題が、
祖父母からみて、次々代である、孫世代と自分の子供で再現された。
そういうことですからね。

これを一世代に切り分けて、その人の病気という理論じゃ。
これは解決しませんから。

そう、だから「これは病気です」が、上手な考えではない。
いや、一番に間違っている、勘違いした対処だということです。

果たして、祖父ちゃん祖母ちゃんが生きてると限りません。
でも、8050の80側は、こころの中で思い返すのは、
自分と自分の親とが、如何なる親子をしてきたか、
もうじき人生に幕を下ろすにあたって総括すべきは、
子世代の話と思っていたら、80は成仏しきれないです。
魑魅魍魎になって、さらに次々世代を呪いつづることになります。

考えてもみてください。これ連綿と残り続けるけど、
それは自分と自分の親たちとの落とし前ができないと、決着しません。
まさか、80になって自分と自分の親たちとの問題とは思ってないでしょ。
つまり、だから、それで、延々と、引き継がれてきたんでしょう。

私、すでに60代ですが、自分の中で、やはり自分の親世代と、
今いる自分との問題は、さらに前世代だは認めるし、わかるんです。
きっと、たまたま自分には継ぐ代がいないんで、
そこが見て取れたんだろうと思う。

子宝は子宝だけど、子宝を授からないなりの宝を
自分は授かったのかもなあ。