◆春に挑む 波佐見センバツ初出場・上/原点
(2011年1月29日長崎新聞掲載記事)
名将赴任「強くなりたい」
「強くなりたいです」-。この一言から波佐見野球の歴史は始まった。
1982年。無名の波佐見高へ得永祥男前総監督(故人)が赴任した。佐世保工高を春夏通算4度甲子園へ導いた名将を町民は歓迎した。
一からの出発だった。黒土がないグラウンド、軟式専用のネット。部員も遊び感覚の十数人しかいなかったが、妥協せず、厳しい指導に徹した。野球の楽しさを伝えるための熱心な姿勢が、選手たちの心に響いた。
6月、最初の練習試合を迎えた。結果は2試合で約50失点の大敗。今まで感情をあらわにすることがなかったナインが、泣いた。自然と悔しさが芽生えていた。「強くなりたいです」。試合後のグラウンドで、泣きながら校歌を歌った。ここが原点だった。
人間教育も重視した。「良き選手たる前に良き高校生たれ」。あいさつ、身なり、ルールの厳守-。乱れていた生徒たちの生活態度は、次第に変わった。人としても成長しながら、野球に没頭していった。
86年秋、努力が実り初の九州大会4強入り。周囲は祝福し、報道陣は「甲子園でどんなプレーがしたいか」とはやし立てた。全員が「甲子園に行けると思っていた」。
だが、準決勝は海星に1-8でコールド負け。選抜選考委員会で落選し、甲子園は夢と消えた。しばらく、県大会でくすぶる日々が続いた。
95年、現監督で祥男前総監督の長男、健(41)がコーチに就任。年末年始返上で沖縄合宿を敢行するなど、猛練習で力をつけた。翌年夏、"親子鷹(だか)"で念願の甲子園に初出場。豪打で8強まで駆け上がった。
2001年夏。祥男前総監督は胃がんを患いながら指揮を執り、全国大会へ導いた。「最後の甲子園になるだろう」。結果は初戦敗退。花道を飾れなかった。翌々年2月、祥男前総監督が60歳で他界した。父が夢見た全国制覇は、息子に託された。
以降、健監督が宮原寛爾部長(53)と二人三脚でやってきた。これまで同様、自分なりに厳しい練習や人間教育を貫いた。だが、思うような戦績を挙げることができない年月が続き、甲子園は遠い場所になっていた。「成長して変わらなければ...」。葛藤が続く中、同じ県北地区の新鋭、清峰が台頭。06年春に準V、エース今村猛(19)=広島=を擁した09年春は、日本一へ駆け上がった。
◇ ◇
01年夏の甲子園から10年。秋の九州大会で過去3度、8強の壁に阻まれた波佐見に念願の"春の便り"が届いた。父から子へ託した日本一の夢。ライバル校の清峰がもたらした転機。県勢2年ぶりの全国制覇へ期待は膨らむ。春に挑む波佐見ナインの姿を追った。(運動部・中島崇雄)
◎沿革/県立波佐見高
1949年に県立川棚高下波佐見分校として開校。普通科普通、陶芸デザインコース、商業科がある。生徒は462人(男子282、女子180)。学校長は下春雄二氏。
野球部は79年創部。部員74人。82年に佐世保工から故・得永祥男前総監督が転任。96年に夏の甲子園に初出場し、8強入りを飾った。2001年にも夏の甲子園に出場。現在、長男の健監督がチームを率いる。
OBには07年秋にプロ入りした大平成一外野手(日ハム)。このほか大学、社会人球界に有力選手を輩出している。男子サッカー部などのスポーツのほか、陶芸部などの文化活動も盛ん。
◆春に挑む 波佐見センバツ初出場・中/転機
(2011年1月30日長崎新聞掲載記事)
生徒主導で自主性育成
「清峰に勝ちたい」。強い思いが、得永監督の指導法を見つめ直すきっかけとなった。
2004年夏、県大会準決勝で新鋭の清峰にコールド負け。強豪の波佐見にとって屈辱は大きかった。以来、得永監督は「殺気立ってる」と言われるほど清峰を意識した。夏の県大会では05、08年に準決勝、06年は決勝で対戦。いずれも「これでもかと練習し、このチームならと自信があった」。だが、雪辱は果たせなかった。
いつも清峰は好機で打ち、波佐見は空回りした。「なんであんなに自信が持てるんだ」。直接聞けば早かったが、清峰の吉田洸二監督(41)は1歳年下。「プライドが邪魔して聞けなかった」
厳しい指導の中で完璧を求め、できなければ一から十まで教えてきた。その結果「選手たちに失敗を怖がらせ、勝負どころで力を出せなかった」。苦悩の末、たどり着いた答えだった。
そして、4、5年前から「しんどい練習を繰り返すより、考えさせる指導に変えた」。生徒主導の練習で自主性の育成を目指した。試合中はノーサイン。ベンチでどっしりかまえ、選手を信じて辛抱強く見守った。「失策をしても頭ごなしに怒鳴らず、失敗を糧に考えさせた」。指導者として一皮むけた。
09年春、清峰が日本一へ駆け上がった。「祝福よりも先を越された悔しさが大きかった」。その年の夏休み、吉田監督から清峰での鳴門工(徳島)との合同練習に誘われた。「もっと特殊だと思っていた練習は自分たちがやっていたスタイルと同じだった」。今まで抱いていたわだかまりが消え、敵対心も和らいだ。その後、自信を持って生徒主導の指導を続けた。
変化を象徴する場面がある。選抜出場を懸けた昨秋の九州大会準々決勝。八回2死二塁で代走出場した江口が、内野安打の間に好走塁で生還した。毎日自主練習で「球威や方向、タイミングを意識して走った」。その成果が勝負どころで表れた。
選手との信頼から生まれる懐の深い野球。「今季は理想に近いチーム。選手一人一人が自分の意思を持って動ける」。前回の甲子園出場から苦節10年。得永監督は今、確かな手応えをつかんでいる。
◆春に挑む 波佐見センバツ初出場・下/挑戦
(2011年1月31日長崎新聞掲載記事)
冬を越え一回り成長
昨秋の九州大会準決勝。重量打線を誇る九州国際大付(福岡)に2-4で敗れた。得永監督は「実力だけなら格段に相手
が上。コールド負けしてもおかしくない試合でした」。選手たちの秘めた力を実感した。
個々の強い気持ち、チームの結束力が実力差を埋めた。「チームのために絶対先制」。二回1死一、三塁、山口主将が放った打球は、二塁を強襲し適時打となった。エース松田は三回に失策、暴投絡みで逆転を許したが、心は折れなかった。「支えてくれる仲間のためにも勝つ」。四回以降毎回得点圏に走者を背負いながらバックにもり立てられ、強気の内角攻めで大量失点を防いだ。
昨年11月、得永監督と福崎元コーチ(36)は、各地区の優勝校が出場する明治神宮大会を視察。1回戦計4試合をネット裏から見つめた。「日大三(東京)は完成度が高く、明徳義塾(高知)は体格がすごい」。実力の違いを肌で感じた。
ただ、雲の上の存在という印象はなかった。2人のメモには「精神面はうちが上」。意見は一致した。「体力、技術を近づければ勝負できる」
早速、肉体改造に取り組んだ。重松康志トレーナー(42)が中心となり組んだメニューを実践。瞬発力、体幹強化に汗を流した。休日は学校近くの鴻ノ巣公園で、伝統の坂道ダッシュ。食事の量も大幅に増やし、秋よりも全員の体重は3キロ以上増えた。山口主将は「驚くほど体格が良くなった。実戦でどれだけ生かせるか楽しみ」と目を輝かせる。
現在、18人の登録選手はほぼ白紙。指導陣は「最近あいつの打撃がいい」などと褒め、意識的に競争心をあおる。特に外野手のレギュラー争いは加熱中。中堅田中は「ほかの人が褒められると負けてられないと燃える」、左翼志田も「みんなうまくて誰が選ばれるか分からない。毎日必死でやっている」。切磋琢磨(せっさたくま)しながら、技術向上に励む。日々、甲子園でプレーするイメージを高めている。
選抜出場が決定した28日。選手たちから「全国制覇」という声が飛び出した。高い目標を掲げて厳しい練習を繰り返してきたからこそ、出た言葉だろう。波佐見ナインが甲子園での全力プレーを誓う。
【編注】「福崎元コーチ」の崎は大が立の下の横棒なし
(2011年1月29日長崎新聞掲載記事)
名将赴任「強くなりたい」
「強くなりたいです」-。この一言から波佐見野球の歴史は始まった。
1982年。無名の波佐見高へ得永祥男前総監督(故人)が赴任した。佐世保工高を春夏通算4度甲子園へ導いた名将を町民は歓迎した。
一からの出発だった。黒土がないグラウンド、軟式専用のネット。部員も遊び感覚の十数人しかいなかったが、妥協せず、厳しい指導に徹した。野球の楽しさを伝えるための熱心な姿勢が、選手たちの心に響いた。
6月、最初の練習試合を迎えた。結果は2試合で約50失点の大敗。今まで感情をあらわにすることがなかったナインが、泣いた。自然と悔しさが芽生えていた。「強くなりたいです」。試合後のグラウンドで、泣きながら校歌を歌った。ここが原点だった。
人間教育も重視した。「良き選手たる前に良き高校生たれ」。あいさつ、身なり、ルールの厳守-。乱れていた生徒たちの生活態度は、次第に変わった。人としても成長しながら、野球に没頭していった。
86年秋、努力が実り初の九州大会4強入り。周囲は祝福し、報道陣は「甲子園でどんなプレーがしたいか」とはやし立てた。全員が「甲子園に行けると思っていた」。
だが、準決勝は海星に1-8でコールド負け。選抜選考委員会で落選し、甲子園は夢と消えた。しばらく、県大会でくすぶる日々が続いた。
95年、現監督で祥男前総監督の長男、健(41)がコーチに就任。年末年始返上で沖縄合宿を敢行するなど、猛練習で力をつけた。翌年夏、"親子鷹(だか)"で念願の甲子園に初出場。豪打で8強まで駆け上がった。
2001年夏。祥男前総監督は胃がんを患いながら指揮を執り、全国大会へ導いた。「最後の甲子園になるだろう」。結果は初戦敗退。花道を飾れなかった。翌々年2月、祥男前総監督が60歳で他界した。父が夢見た全国制覇は、息子に託された。
以降、健監督が宮原寛爾部長(53)と二人三脚でやってきた。これまで同様、自分なりに厳しい練習や人間教育を貫いた。だが、思うような戦績を挙げることができない年月が続き、甲子園は遠い場所になっていた。「成長して変わらなければ...」。葛藤が続く中、同じ県北地区の新鋭、清峰が台頭。06年春に準V、エース今村猛(19)=広島=を擁した09年春は、日本一へ駆け上がった。
◇ ◇
01年夏の甲子園から10年。秋の九州大会で過去3度、8強の壁に阻まれた波佐見に念願の"春の便り"が届いた。父から子へ託した日本一の夢。ライバル校の清峰がもたらした転機。県勢2年ぶりの全国制覇へ期待は膨らむ。春に挑む波佐見ナインの姿を追った。(運動部・中島崇雄)
◎沿革/県立波佐見高
1949年に県立川棚高下波佐見分校として開校。普通科普通、陶芸デザインコース、商業科がある。生徒は462人(男子282、女子180)。学校長は下春雄二氏。
野球部は79年創部。部員74人。82年に佐世保工から故・得永祥男前総監督が転任。96年に夏の甲子園に初出場し、8強入りを飾った。2001年にも夏の甲子園に出場。現在、長男の健監督がチームを率いる。
OBには07年秋にプロ入りした大平成一外野手(日ハム)。このほか大学、社会人球界に有力選手を輩出している。男子サッカー部などのスポーツのほか、陶芸部などの文化活動も盛ん。
◆春に挑む 波佐見センバツ初出場・中/転機
(2011年1月30日長崎新聞掲載記事)
生徒主導で自主性育成
「清峰に勝ちたい」。強い思いが、得永監督の指導法を見つめ直すきっかけとなった。
2004年夏、県大会準決勝で新鋭の清峰にコールド負け。強豪の波佐見にとって屈辱は大きかった。以来、得永監督は「殺気立ってる」と言われるほど清峰を意識した。夏の県大会では05、08年に準決勝、06年は決勝で対戦。いずれも「これでもかと練習し、このチームならと自信があった」。だが、雪辱は果たせなかった。
いつも清峰は好機で打ち、波佐見は空回りした。「なんであんなに自信が持てるんだ」。直接聞けば早かったが、清峰の吉田洸二監督(41)は1歳年下。「プライドが邪魔して聞けなかった」
厳しい指導の中で完璧を求め、できなければ一から十まで教えてきた。その結果「選手たちに失敗を怖がらせ、勝負どころで力を出せなかった」。苦悩の末、たどり着いた答えだった。
そして、4、5年前から「しんどい練習を繰り返すより、考えさせる指導に変えた」。生徒主導の練習で自主性の育成を目指した。試合中はノーサイン。ベンチでどっしりかまえ、選手を信じて辛抱強く見守った。「失策をしても頭ごなしに怒鳴らず、失敗を糧に考えさせた」。指導者として一皮むけた。
09年春、清峰が日本一へ駆け上がった。「祝福よりも先を越された悔しさが大きかった」。その年の夏休み、吉田監督から清峰での鳴門工(徳島)との合同練習に誘われた。「もっと特殊だと思っていた練習は自分たちがやっていたスタイルと同じだった」。今まで抱いていたわだかまりが消え、敵対心も和らいだ。その後、自信を持って生徒主導の指導を続けた。
変化を象徴する場面がある。選抜出場を懸けた昨秋の九州大会準々決勝。八回2死二塁で代走出場した江口が、内野安打の間に好走塁で生還した。毎日自主練習で「球威や方向、タイミングを意識して走った」。その成果が勝負どころで表れた。
選手との信頼から生まれる懐の深い野球。「今季は理想に近いチーム。選手一人一人が自分の意思を持って動ける」。前回の甲子園出場から苦節10年。得永監督は今、確かな手応えをつかんでいる。
◆春に挑む 波佐見センバツ初出場・下/挑戦
(2011年1月31日長崎新聞掲載記事)
冬を越え一回り成長
昨秋の九州大会準決勝。重量打線を誇る九州国際大付(福岡)に2-4で敗れた。得永監督は「実力だけなら格段に相手
が上。コールド負けしてもおかしくない試合でした」。選手たちの秘めた力を実感した。
個々の強い気持ち、チームの結束力が実力差を埋めた。「チームのために絶対先制」。二回1死一、三塁、山口主将が放った打球は、二塁を強襲し適時打となった。エース松田は三回に失策、暴投絡みで逆転を許したが、心は折れなかった。「支えてくれる仲間のためにも勝つ」。四回以降毎回得点圏に走者を背負いながらバックにもり立てられ、強気の内角攻めで大量失点を防いだ。
昨年11月、得永監督と福崎元コーチ(36)は、各地区の優勝校が出場する明治神宮大会を視察。1回戦計4試合をネット裏から見つめた。「日大三(東京)は完成度が高く、明徳義塾(高知)は体格がすごい」。実力の違いを肌で感じた。
ただ、雲の上の存在という印象はなかった。2人のメモには「精神面はうちが上」。意見は一致した。「体力、技術を近づければ勝負できる」
早速、肉体改造に取り組んだ。重松康志トレーナー(42)が中心となり組んだメニューを実践。瞬発力、体幹強化に汗を流した。休日は学校近くの鴻ノ巣公園で、伝統の坂道ダッシュ。食事の量も大幅に増やし、秋よりも全員の体重は3キロ以上増えた。山口主将は「驚くほど体格が良くなった。実戦でどれだけ生かせるか楽しみ」と目を輝かせる。
現在、18人の登録選手はほぼ白紙。指導陣は「最近あいつの打撃がいい」などと褒め、意識的に競争心をあおる。特に外野手のレギュラー争いは加熱中。中堅田中は「ほかの人が褒められると負けてられないと燃える」、左翼志田も「みんなうまくて誰が選ばれるか分からない。毎日必死でやっている」。切磋琢磨(せっさたくま)しながら、技術向上に励む。日々、甲子園でプレーするイメージを高めている。
選抜出場が決定した28日。選手たちから「全国制覇」という声が飛び出した。高い目標を掲げて厳しい練習を繰り返してきたからこそ、出た言葉だろう。波佐見ナインが甲子園での全力プレーを誓う。
【編注】「福崎元コーチ」の崎は大が立の下の横棒なし
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