神を崇敬することができるなら、他のことは望まずとも与えられる。
私達はしばしば、よこしまな思いに捕らわれるが、神様は常に正しき願いだけに応えられる。
私の上には常に神がある。
誰の上にも常に神がある。
私達は神に見られており、神に聞かれている。
神は私達の目を使って見ており、私達の耳を使って聞いており、私達の頭を使って考えており、私達の心を使って感じている。
私達の間違った使い方を正すことができるのは、神様の正しい使い方に従うときだけだ。
だから、神様に一切を委ねる。
“神様あなたによって正しく用いられるとき、私の感覚、身体、心、知性はより善いものになります。”
私達人間は「愛という本質を持つもの」として定められている。
その本質が脅かされるとき、動物は擬死という防衛本能を発揮し、私達人間の心は解離という防衛本能を発揮する。
つまり、動物は死んだふりをし、私達人間は自分が存在しているという感覚を喪失する。
愛が圧殺されること以上に耐え難いことは他にないからだ。
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