肉体、心、知性、魂といったものはすべてコーシャ(繭或いは鞘)です。
コーシャが有るということは、当然何者かがコーシャを纏って居るということです。
繭の中に蚕が入っておらず空っぽの繭だけが在るというのは不合理です。
鞘の中にエンドウ豆が入っておらず空っぽの鞘だけが在るというのも同様に不合理です。
したがって、何者かが、肉体をコーシャとして纏い、心をコーシャとして纏い、知性をコーシャとして纏い、魂をコーシャとして纏います。
五うん仮和合を説く仏教では肉体や心や知性や魂を何者かによって纏われたものだと言うことは不可能です。
それらを纏って居る本体や実体の存在を想定しないからです。
然し、ブラフマニズムやヨーガでは実体を想定している為、コーシャを説きます。
五うん仮和合の説は快苦に囚われないことを説くのに有利ですが、コーシャの説はアートマンの存在を説くのに有利です。
然し、コーシャが説かれるのは覚醒を促し覚醒の道を辿るようにするためです。
自己がコーシャを纏っており、その自己に目覚めることがゴールだからです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます