すぐ近くにある世界:野鳥,昆虫,航空機などの写真

都市部の近隣でも身近で見られる野鳥を中心に、
捏造(餌付け、ヤラセ)のない「本当の世界」の
写真を載せています。

[3]“あの写真”の実際と、 某氏と某『鳥の雑誌』の残念ぶりと...

2024年11月16日 | 野鳥・鳥類
前々記事、前記事から続いて、 某『鳥の雑誌』投稿コーナーに掲載された写真に関して...
この“不可解”な一連について書いたとなると、 併せて示しておくのにも 意味があるのかも?、といったところ。


これ単体は、 もし 『あちら』の“不可解”が「これだけ」だったとしたら、 いちいち書くほどでもなかった程度のこと、ながら...

(1回目にも載せた)応募のメールでは

<テーマ:気象>

(ここに画題 : 応募の文面では 漢字とカタカナでの表記)
2017年 4月 大阪府内
(ここにレンズスペック) , F4.5 1/4000秒 ISO 200
「気象」のテーマに含まれるのか、は
少々“びみょ~”な感もありつつ・・・

強風で荒れる水面での捕食行動の一瞬。
自然界では、小さな獲物を捕らえるの
にも、曲芸的な能力での大きな労力が
必要です。

と、 ホワイトバランスの項目は記載しなかったところ、 『あちら』からのメールで わざわざ

掲載にあたり,添付いたしましたこちらのお写真の
・カメラの機種名
・撮影地(市区町村まで)

・ホワイトバランスの設定
をお教えいただきたく存じます。



ホワイトバランスに関しては...
調節が “晴天”“太陽光”からアンバー寄りとか
マゼンタ寄り(緑かぶり感を緩和)、というような設定
だったので、 直接に指定した実数ではないですが、
色温度の部分としては「約5350k」が分かり易いでしょうか。
ただ、 そもそも、
メーカーやソフトの違いにも横断的に汎用性がある情報には
なり難い感じもあって、 参考になるべき対象ほど むしろ
誤った理解に誘導しそうな割に、 そうならない対象には
情報力は弱く...
簡潔な表記で積極的に記載するのは、 意義は『?』の
功罪ある項目にも思えます。

と返信して

ご返信いただきありがとうございます,承りました。
たいへん失礼いたしました。
応募の際に(名字)さまがご提供いただいた情報のみ掲載させていただきます。

の やり取りがあった。

のだが・・・
その結果の誌面では...、 どこから湧いて出たのか、の、 この一連の どこにも無かった『WBオート』と記載されている。

この経緯が、 わざわざのやり取りは無くての 応募から直で、なら、 経験的に、 このテの誤記載は どこでも ありがちな事故。
杜撰といえば杜撰... だからといって “重箱の隅を...”のような批判をするのは、 見識として疑問だろう。

明示しても、しなくても、 『撮影データ』の 型式や数値そのものは、 絶対的に確定している。
これは、 写真を見る側にとっても、 経験や知識が少ない部分ほど 有益に活かせる参考情報にもなるところ。
それが 具体的に明記されていると、 その 機械的な絶対値のイメージから 確かなものとして信用してしまいそう、でも...
どこの場でも、 記載されている内容は、 何でも全てを 無思考で真に受けられるほどの確度は無いもの。
参考に活かすのは良くても、 無思考で何でも受け売りするだけでは、 間違った理解で迷走する原因になったりも・・・
そういう撹乱材は、 前々記事、前記事で書いた、 あたかも解っているかのように語られる 自然言語でのお話だけではない。

わざわざのやり取りがあって、でも、 これ「だけ」だったら、 まだ、 何らかのミス、で流して済ませられる程度のこと。
あるいは、 『あちら』の残念ぶりを指摘した後からでも 有効な対応がされていれば、 この部分の意味も違ってくるだろうところ。
実際、 まだ『あちら』が どう対応するのか判断できない段階で送信したメールでは、 この部分を書くのは省略している。
でも・・・
有効な対応がされないのも含めての、 この掲載の一連が ここまで“不可解”“違和感”ばかりの中に、 ここにも、となると...
これも、 それぞれを個別に切り分けた個々の評価とは違う 全体の事情があって表れた1つだったのかも...、 とも見えてくる。

応募に明記したテーマとは違う扱いにした経緯も、 こちらからは判断できない。
『あちら』が、 どこにでも多々いる、 この世の実際とは違う世界が 見えて聞こえて、 現実も言葉も意味を持たない残念さんか...
あるいは、 一連の“不可解”の各所が、 そもそもから 改ざんする明確な意図を持って掲載したのか...
何であれ、 こういう、 『あちら』を“人”として接することへの 根幹的な疑問が深い実例に満ちた対象とは、 関わり難くなる。


・・・ といっても、 この『鳥の雑誌』の事情からすれば 当然、か。

鳥写真では、 殆ど全てほどが 初心から『ヤラセ』に直行するのは、 一般まで広く 公然の常識。
写真は主要目的ではない バードウォッチングでも、 『餌付け』の『ヤラセ撮影会』巡回が お決まりコース。
そのどちらも一体の内輪では、 『餌付け』『ヤラセ』が『優秀な証明』として 公然とご自慢にご熱心。
でも、 その現実では不都合な対外的になると・・・
そこでは、 自身そのものの『餌付け』『ヤラセ』を罵倒してまで、 全てを真っ当に写してきた設定を声高に語るお芝居に興じる。

それを、 そのお姿の残念ぶりには触れずに 表向きは体裁良く応接してもらえるのも、そっとスルーしてもらえるのも、 社交儀礼...
言及されると自身が不都合なことには触れられずに ご勝手に語っていられても、 その残念ぶりに気付かれていない...のではない。
のだが...
その自身は、 バレずに 巧みに演じられている成功率100%の実例を積み上げてきた...つもり。
そんな内輪では、 なりすませているつもりの“極意”を教え合い、 実践し合って、 成功体験として証明し合っていられる。

それが、 得意げでいれば より得意げでいられるほど、 喜々としていればして より喜々としていられるほど...
知的面での いわゆる健常者は、 見せられる(見えてしまう)側の方が恥ずかしい思いをさせられている、 哀しい活況。
それでも、 残念さんと解っているからこそ、 その場は受け流してもらえるのが 世の中の優しさ。
だから、 残念さんは、 その残念ぶりこそ優れているつもりでいられる 同類の残念さんとしか関われない同士だけで集っていく。

そして、 そんな残念さんの知能では、 自身にはご都合が良い虚構を語っては 実体験の記憶に昇華させてしまうのも 定型。
だから、 ますます、 同類の残念さん同士としか 関われない。
でも、 同類の残念さん同士だけで集えば、 ご勝手な妄想を無限に膨らませて 事実として証明し合っていられることでもあり...
その集いの中では、 実在しない経歴を、 実在しない生態のご解説で証明を補強した 妄想世界での実績がご自慢で、 お幸せ。

そんな、 倒錯した残念に満ちた世界では...
この『鳥の雑誌』が、 残念さんに不都合が生じない世界でなければ、 圧倒的多数層に購買させられる営利活動にはなっていない話。
そちら側の内輪相応なら、 現実とは無関係な言動も必然、と受け取るしかない...のだろう。

続:“あの写真”の実際と、 某氏と某『鳥の雑誌』の残念ぶりと...

2024年11月09日 | 野鳥・鳥類
前記事から続いて、 某『鳥の雑誌』投稿コーナーの写真に関しての 2回目...
専門家そうな肩書さんのコメントの、 画一的には表せないのがナーバスなところでも、 そこにある“違和感”の部分を。


この 専門家そうな肩書さんのコメントの 写真自体への視点は、 写真(静止画)に見える要素を語句に訳した列挙。
・・・、 写真(静止画)へのコメントだから、 それで順当...と思っていられる??

写真で見せられるもの、であり、 写真に見えているもの、は、
“特定の一点から見えた、 特定の一瞬の、 一部分だけ”
が、 写る仕組みの原理通りに『四角い平面』になった、 写真特有の見え方。

そんな写真だけを見て思い描くことは、 その全体で、 写真を見ている側の自身相応が表れたもの。
これは、 文言に挙がることだけではない、 知らず(解らず)に語りようがなく抜け落ちることも含めての“全体”。

こういうところは、 何の文言さえあれば正しい、とか、 何がある(無い)から正しくない、とか...
極度に単純化した画一的な短文との整合で一律に決まるようなものではないのが、 表すのは難い ナーバスな要素。
なので、 実経験が無い 文字的な知識だけしかないと、 語りようがないのも、省略したのも、 区別できない話にしそう、だが...
実経験がある視点からは、 実態があって語られる自然さも、知ったかぶりの不自然さも、“感じられる”ものだろう。

当たり前すぎることだが・・・
“自然”は、 “人の勝手な嗜好”とは無関係に実在しているもの。
『ヤラセ』で “人の勝手な嗜好”に都合良く 多彩に飾り付けた見映えを自慢したところで 『捏造』。

自然の鳥の“ありのまま”を写すのと、 “撮影セット”の箱庭で演じさせて写す『ヤラセ』とでは、
写すまでの準備プロセスも、 必要な知識と情報量と 時間と 労力と etc...も、
実際に写す際の状況も 技能も 把握している空間のスケールも対象物の数も、
事情が“無関係”ほど違うこと。
そして、 (『ヤラセ』の箱庭なら 殆どを事前に整備しておける)周囲・背景などでの不確定要素への感覚も、 根本的に違う。

これは、 実際の経験が無い 門外漢や『ヤラセ専門さん』は、 知る機会が無い。
一応・・・、
『ヤラセ専門さん』と形容しても、 “証拠写真”レベルまで 自然の鳥の“ありのまま”を写すことが一切無い、というのではない。
でも、 『○○が写っている』 『○○が△△している』さえ判れば満願、の世界観とは違う、 作品趣向の写真があるもの。
それを写せるための事情が“無関係”ほど違うことこそが、 殆ど全てほどが 初心から『ヤラセ』に直行する理由そのもの、だろう。
そんな、 “証拠写真”レベルなら“ありのまま”を写すことがあっても 『ヤラセ専門さん』と表すのは、 形容とは そういうもの。
自身が『知らない』ことは、 それを『知らないということ自体に気付きようがない』のが、 当然すぎる 物事の道理。
それで、 『鳥を写す』級にまで極度に要約し過ぎれば同じ短文を充てられる共通だけで混同して語られるのが類型。

また当たり前すぎることだが...
実世界は、 『ヤラセ』の箱庭とは次元が違いすぎる「広大な空間」に 無数の要素が“人の勝手な嗜好”とは無関係に存在している。
それが、 (写っていないものまで)全てが“人の勝手な嗜好”とは無関係に、 それぞれ別々に動いて変化している。


専門家そうな肩書さんのコメントで 『じゃま』と表されているところも含めて、 写っている全てが その一端。

自然を写すのが自然写真、とはいっても、 評価される基準は “人の勝手な嗜好”での感覚。
事実関係としてなら それが実際だからといって、 ただ そのまま写すだけで 高評価される写真作品になることは、 殆ど無い。
自然の“ありのまま”を写すのでも、 背景や周囲の要素で “人の勝手な嗜好”に合わない難がある『じゃま』ができる時には、
周囲にあるものなら、 構図に入らないように フレミングや トリミングするとか...
前景や背景なら、 撮影位置で 重なりを変えるとか...
主要被写体が動くものなら、 難があるところから離れるのを待つとか...
状況は加工しない 撮影自体の技能的な行動で、 より“人の勝手な嗜好”に良く合う画にしようとするのは 現実的な必然。
こうした画作りは、 『ヤラセ』で 写す状況の方を変えて『四角い平面』を整形する創作とは 類似性も一切全く無い、のだが...
残念さんは、 その現場を実際に直接見てですら、 自身の大前提は何でも 他者まで一緒くたにしてしまって、 混同する。
それで、 『ヤラセ専門さん』は、 写真の評価に、 写す状況の方を変えることでしか成立しない指摘をしてあげてしまう、が...
現実の自然は、 無数の巡り合わせが生す一端の 結果的な『四角い平面』の一部分だけを切り貼りして取り換えたりはできない。
『四角い平面』の都合なら 周囲を広く取り入れた方が良いからといって、 そこにも印象が良い状況があったとは限らない。
あるいは、 難があるところ自体は構図内にあっも、 その状況にある動きで 難が緩和するタイミングがあったりする、が...
その『四角い平面』なら好印象の部分も、 一瞬でもタイミングが前後していたら 致命的な難があったのかもしれない。
まして、 いつ、どこで、どうなるのか、を そもそも予測しようがない一瞬のシーンの写り方は、 選びようがない巡り合わせ次第。

これは、 そこにある情景のままを切り撮る画作りに (広い意味での)類似性がある経験があれば 当然に知っていること、なので...
そこにあっただろう世界の見え方が、 結果的な静止画の表面をなぞるだけの『四角い平面』になるのでは 不可解。

写っているものを表す語句なら挙げられても、 全体の連動性は見えずに “静止画での見え方”を別個に切り分けた羅列になるのも、
感想的な感覚が、 実在した時空とは無関係に 『四角い平面』を切り貼りで加工した合成を語るのも、
その状況として 時間進行がある3次元世界の情景を思い描ける知識も経験も無くての 門外漢レベルの感想文では 必然の類型。

自分の写真以外のことを書くと、 ますます“怪文書”になってしまうのだが・・・
左ページの写真への 専門家そうな肩書さんのコメントでは、 特に顕著だろう。
その機会に無かった情景は、 その機会には写せる可能性から無かったこと。
実際の現実が、 『四角い平面』を切り貼りで合成して語る情景にはならなかったのは、 『もったいない』ことなのか?
そんな 合成世界の創造主さまが『もったいない』ではない写真とは、 いつ写せるのだろう?
『四角い平面』の表面をなぞるだけの文言に挙がる要素だけでも多いが、 それだけではない多数が 同時に都合良く揃った情景・・・
それが揃った場所が、 遠すぎても、 近すぎても、 光が悪い方向でも、 光が悪いタイミングでも...
それぞれの距離感が、 離れすぎていても、 近すぎて悪い重なりになっても...
写るどれが1つでも、 向きが悪くても、 動きの中の形が悪いタイミングになっても、 印象が悪い傷や欠損箇所があっても...
周囲に、 印象が悪い構造物や漂流物があっても...
etc... etc... etc...
見えるアラ探しだけに限らず、 『~~だったら もっと良かった』に そこには存在していないものを持ち出したりも定番で...
そんな、 合成世界の創造主さまの中だけの、 実在していない妄想の情景との違いを語ってあげる「だけ」では、 意味を持たない。
その自身は “上から目線”で否定的な言を発した優劣感に酔って マウントをとったつもりでいられても...
その類を挙げる「だけ」なら、 永久に 何にでも指摘してあげて ご指導してあげている気取りでいられるだけの 不毛な戯言。
それは、 実在の状況で より高評価な結果が望めただろう 技能なり理解なりの指南とは 根本から全く似てもいない、のに...
『より評価が高い写真との違いを指導した』
みたいな馬鹿げた要約の短文に置き換えたトンデモ解釈で混同しているらしい残念さんが、 プロ・アマ・一般を問わず大勢。

そして、 “あの写真”での『じゃま』の件も...
これに触れるなら、 類似する撮影経験があれば、 否定的にも 受容的にも 相反する方向性が複合する多角的な考察がある事象。
でも、 その視点で見るのは、 (上に書いたように、) 時間進行がある3次元世界での事情。
『四角い平面』の表面をなぞる「だけ」の 誰が見てもわかることを わざわざ発する「だけ」で完結、では、 意味を持たない。
・・・ 公募の場でも、 自由課題で、屋外でのスナップとは無縁な誰かの講評で、なら、 そうしかならない事態もありそうだが...
事情が違う、 ジャンルを特定した『専門誌』であり、専門家そうな肩書さんでありで そうしかならないのでは、 残念すぎる話。
これには、 専門性の超々初歩も無い...みたいに 論理的風味に表すより...
幼児の、 何でも知らなすぎるからこそ 小っっっさな世界「だけ」が全てでいられて自信満々の使命感で教えてくれて得意げ、の趣。
それが あたかも 専門的な見識かのように扱われるのでは、 単に 無意味な無駄だけではなく、 ここでも また、 極論なら...
それを書いた自身が無駄な存在というだけとは違う、 その自身が存在していない方が良かったことにもなる繰り返し。


前記事の分とも併せて、 この 専門家そうな肩書さんのコメントが、 (安直で平易な“証拠写真”レベルとは違う趣旨での) 鳥の情景を 自然の“ありのまま”で写すことに 僅かでも経験がある視点で書かれているとして接するには、 違和感があり過ぎる。

ここの過去記事でも 度々書いてきたことだが...
実際とは違う世界が 見えて聞こえてしまっていて 『この世のものではない世界』の設定に暮らしている対象とは 関わり難いもの。
まして、 それが喜ばれる集団活動ともなれば、 なおさら。
もっとも、 営利活動では、 社会的道義性より 損得基準の営業戦略で判断されるのが常で...
残念なプロほど、 世の残念さんには 自身との共通を根拠に信仰されるのが、 大口需要獲得に重宝され 重用されそうな事情。
・・・ あるいは、 主催側のところで既に 自身の残念ぶりとの共通で共鳴しての選択なのか...
は、ともかく...
他のコンテストなどでも、 物事の道理として成立していない 露骨に残念な妄想披露が垂れ流されるのは 恒常的に続いていること。
『専門誌』には、 無責任に撒き散らされる膨大な虚構にまででも 少しでも正していく側の気概があるのが当然そうなもの...
だが、 そうではない営利活動でしかないらしい。
だからこそ・・・
社会的意識のキレイ事では、 その残念な状況を 少しでもマシにする為に、 真っ当な内容で関わる必要があるのだろう、とか...
「世の中と関わるのは、 “知的障害者”と関わらされること」
と割り切って、 触らせても不快でなくいられる範囲の、 核心的なものは除けた内容で関わる、とかもあるだろう、とも説けるが...
選ばれたところで、 “残念さん”の“おままごと”に使わせて 愚行に加担しただけにしかならないのは、 当然でしかない。
その残念の度が過ぎる活動に関わるのは、 道義性でも疑問が大きい。
それが 自分に直接関係しての残念、となると、 なおさら、 無関係な他者は無責任に叫べるキレイ事とは 事情が違うことになる。
それは、 言葉も現実も意味を持たない対象には、 当然、 いちいち「さようなら」を言う意味も無いだけの話でしかない。

“あの写真”の実際と、 某氏と某『鳥の雑誌』の残念ぶりと

2024年11月02日 | 野鳥・鳥類
「ここだけを見ても わからない内容」とも思いますが、 某『鳥の雑誌』投稿コーナーに掲載された写真に関して。
ここは、 撮影地や機材情報なども 具体的な詳細は総じて極力明示しない“匿名”のスタンスなので...
当該の対象を直接は明示しないながら、 探せば 事情次第では判り得る箇所はありつつ。

こういうことでは、 『あちら』に残念ぶりを指摘すれば、 以降は タテマエと実際が違う扱いになるだろうことは 想像するに易い。
それで、 多くには、 自己顕示に利用できさえすれば内容も社会的道義性も問わない思考での“損得”の判断で、 スルーする...
あるいは、 むしろ、 表向きは称賛でも演じて見せるのが 賢明な得策として鋭意実践されるところ、なのだろうが...
自分には、 この世の実際とは違う世界が見えて聞こえてしまって 言葉も現実も意味を持たない対象と関わりを続けるのは 難しい。

これについてのメールを『あちら』に送信したのは、 お盆の前、 8月7日。
その上で 『あちら』が どう対応するのか、しないのか、を確認してから書くとなると、 時差が大きくなるもの。
『あちら』は有効なアクションをしないよう...となると、 それが 既に最終的な確定済み、と判断するので...
都合が悪い現実は 指摘されても無視して、 あたかも真っ当な『専門誌』名目の設定を演じ続ける、ということなのだろう。

“書き言葉”では長文になるので、 複数回に分ける予定。
まずは、 具体的な事実がある“あの写真”の実際の状況を中心にした部分についてを。


そもそもの、 応募時に記載していた 当該部分は

<テーマ:気象>

(ここに画題 : 応募の文面では 漢字とカタカナでの表記)
2017年 4月 大阪府内
(ここにレンズスペック) , F4.5 1/4000秒 ISO 200
「気象」のテーマに含まれるのか、は
少々“びみょ~”な感もありつつ・・・

強風で荒れる水面での捕食行動の一瞬。
自然界では、小さな獲物を捕らえるの
にも、曲芸的な能力での大きな労力が
必要です。
※ 元のメールは プレーンテキスト形式、 上記は HTMLの仕様で“複数連続する空白文字は1つだけ”の表示

これを、 なぜ、 明記しているのとは違う、 もう一方の別テーマ名目にしたのか。
それも、 その 別テーマ名目で扱うには当てはまらない一文のところは取り除いてまでの ご丁寧ぶり。

その他にも、 “不可解”と“違和感”ばかり。

専門家そうな肩書さんのコメントも、 「鳥の種名」 「カゲロウ」 「捕食」 ...
写っている要素の幾つかの単語は含まれていて、 ワープロソフトが検知する構文エラーではないだろう体裁には なっているが...
ワープロソフトや 生成AIに入力して 問題を指摘されない体裁なのと、 内容が現実に対して適切かとは 別。
写っている要素の単語の幾つかを含めただけの『織り込み作文』では、 写っている状況と直結するのではない『言葉遊び』。

もちろん、 コメントに書かれているのは、 実際の現場を知らない写真だけを見ての想像。
所詮 全て、 自身の想像は 同じ自身の見識が同じ当然を証明にした自己内連鎖で育んだ濃縮熟成なのは 誰でも同じ必然。
それは、 実際を知っていて見れば、 “知ったかぶり”であり、“妄想”であり、とはいえ...
概要は反しない範囲でなら、 “実際の具体的な状況”との相違は 少なからず寛容に見るべきところ。
ても・・・

この撮影場所は、 『海』ではなく、 汽水域からも遠い、 完全に淡水の河川。


写っているカゲロウだろう虫は、 羽化している過程。
水中での成長を経て、 いよいよ 空中と地上へ進み出る、 劇的な変化の時...
でも、 まだ白っぽいのが明瞭なので、 “初めて飛び立てる”ようになるまでには、 まだ しばらくの時間が必要だろう。
“その時”を待つ、というか、 外敵からも見通しが利いて 捕食されるリスクが高い水面で 運を天に任せるしかない状況。

・・・ 一応 書いておくと...
カゲロウの幼虫が『海』には生息しないのは、 直接の知識は無くても、 自然への基礎的な理解があれば イメージできるはず。

写す事情では、 川面を流れているので、 いつ、どこを通りかかるか 予測できない対象。
それが、 密度は低く、 たまに通りかかっても、 好条件で写せる範囲は数秒のうちに通り過ぎる速さで流れていく。
そして、 写真として期待できる時間帯は、 1日の中で 1時間半とか程度。
その限られた機会の一瞬に 鳥が捕食を狙うシーン自体の巡り合わせが、 そう都合良くは あってくれない。

それも、 天候などで、 そこで望み得る最良を仮定した“絵に描いた餅”でも 鑑賞する写真として使える画になる日は 僅か。
好条件での写真を見ると、 いつでも写せるもののように語られがちだが...、 そういつでも写せるのではない。
同じように、 種名を言えるだけでありがたがられるのではない 身近な普通種には、 何でも簡単に写せると語られがちだが...
居るだけなら ありきたりに見ているからといって、 いつでも 何でも 都合良く写せるのではない。
実際、 今年だと、 この狙いに 10回近く行った結果が、 1コマもシャッターを切っていない、というより...
現場で機材を取り出して 写せる状態に準備しておいてみる状況から、 一度も無かった。
・・・のは ともかく...

淡水域の多くでは、 よほどの強風が吹いていても 波は『海』ほどには荒れない。
そして、 (よほど広い湖なら別だが...、) 風が止めば 程なく 水面は静まる。
そんな 淡水域での波は、 “ここ”の“今”の、 写真に直接は写らない「風」が表れているだろうもの。
だから、 小鳥サイズで このスケールの波でも、 淡水域では “ここ”の“今”にある強風が“見える”要素にもなり得る。

(写真に直接は写らない) その「風」の中でも活動している、 平静な時より困難の度が高い情景が、 伝わることを期待する部分。
『○○が △△している』だけの写真の意向ではない...
それが、 かな部分をカタカナ表記にしたのも含めての画題であり、文章であり、だったのだが・・・

同じ写真を見るのでも、 そこが 淡水域か 『海』かの認識が違うと、 そこに思い描く「風」へのイメージは 大きく違ってくる。
『海』で 印象として推すような「風」が吹いている状況なら、 人サイズのスケールで見ての荒れた波になる。
小鳥サイズのスケールで この波しかない『海』なら、 そこに“見える”のは、 周辺地域までの広域が穏やかな日和の情景では?

同じ写真でも、 状況設定を『海』として見るのでは、 この鳥が「風」に苦労しながら活動しているイメージは弱いだろう、
というより、
とても小さく軽い虫の運動性では ちょっとした一時の風で影響を被って、 鳥は その風の恩恵で獲物に与れそう、というのでは...
画題と矛盾する話にしていて、 表現的な意図であり、応募の意図でありとも、 状況の実際とも、 正反対ほど違う。

それを『応援』してあげるとは、 支離滅裂ぶりに気付けない自身は 楽しげな文章を書ける才覚...のつもりでいられるのだろうが...
何でも無関係に、 ただ自身のスケール感の中に当てはめたような “小ぢんまり”した情景として『応援』してあげても、ねぇ・・・

そして、 残念さんほど、 眼前の現実ですらの万事で 、 自身と同類の残念さんの愚かな妄想披露にこそ同調しているのが 世の常。
まして、 その妄想披露が、 あたかも専門家そうな肩書さんで、 出版物の活字印刷で、ともなれば、 なおさらのこと。
そんな、 専門家そうな肩書さんの妄想披露を真に受けて 『実際とは違う状況』の方が見えてしまう 同類の残念さんは多そう。
これには、 そう簡単にあるのではない写真を “残念さん”同士の“おままごと”で“無駄”に使われた感の 不快と嫌悪しかない。

あるいは、 写真を見れば、 専門家そうな肩書さんのコメントが 実態とは違うだろうことが 確定的に推定できる人もいるだろう。
でも、 テーマのところから 応募に明記してあるのとは変えられている経緯は 知り得ない。
これでは、 専門家そうな肩書さんのコメントを、 応募者の方が虚偽を書いていたものを踏襲したことでの誤りとも思われかねない。
こちらからは 知りようもなければ 対応もしようがないところで 不実の評価を着せられるのでは、 馬鹿げた迷惑。

専門家そうな肩書さんのコメントが、 無駄なだけとは違う、 むしろ 何も書かなかった方が良かった、のでは、 極論なら...
それを書いた自身が無駄な存在というだけとは違う、 その自身が存在していない方が良かったことにもなる。


そして、 この 専門家そうな肩書さんのコメントの 写真自体への視点は、 写真(静止画)に見える要素を語句に訳した列挙。
・・・、 写真(静止画)へのコメントだから、 それで順当...と思っていられる??

その、 画一的には表せないのがナーバスなところでも、 そこにある“違和感”...は、 次回の予定。

イワツバメ 飛翔羽繕い|風切羽まで空中で、って...

2024年07月20日 | 野鳥・鳥類
前記事に続いて、 飛びながら“羽繕い”する イワツバメ。
別テイクの2コマ。



右の翼上面辺りを 羽繕い、だろう。

自然物でも 人工物でも、 『人』が見て“飛んでいる”と感じる動きには、 上昇するのは必須ではない。
全体を表せば落ちている動きでも、 紙飛行機のように 滑空で移動しながら滞空時間も伸びることも“飛んでいる”と感じるもの。
だから、 翼が開き気味なら、 視覚的な印象には、 まだ“飛んでいる”感はある??



こちらは、 右の風切羽を羽繕い。
...を 空中で、って x x x

風切羽は、 飛ぶために必要な翼として 直接的に機能する構造物。
空中にいながら 翼を広げられないと、 当然、 急降下...というより、 殆ど垂直に自由落下する x x x
そのまま墜落...しないうちに上昇するには、 羽繕いできるのは 一瞬の間だけ。

飛行能力が高いから 曲芸的な動きもできる...とは言える、が・・・
陸地では、 とまれる場所は 普通にあるのに??
能力を不要なところにまで使ってしまうことで、 労力を浪費しているようにも見える x x x

怪奇現象... 頭が無い鳥が飛んでいる!?|真面目な自然写真

2024年07月13日 | 野鳥・鳥類
夏には 季節性の定番イメージで需要がある期待に応えて? 心霊系の“怪奇現象”が現れがち??
それは、 『人』の世界だけではなく、 自然界の生き物でも遭遇する??



自然の『鳥』の世界でも 謎の“怪奇現象”が!? ...ではなくて x x x
全く真っ当で真面目な自然写真。

イワツバメが 飛びながら“羽繕い”している、 他種の殆どでは見られない 特徴的な行動の姿。
お手入れしているのは、 背中左側の 尾に近い後ろの方辺りか。

上空の鳥を写すのは、 背中側は 体や翼でブラインドになって、 この動きでは 何をしているのか判り難い写り方になりがち。



別テイクの似たシーンで、 背中側が窺える角度。

触っているのは、 上写真より もっと遠い、 尾羽の付け根の下面辺りか。
“とまり”の状態でなら何でもない動きでも、 飛びながら、となると 事情が全く違う...
それを、 自発的に ふつ~にやっている、 「謎」感もある生態。

イワツバメ 飛翔捕食

2024年06月29日 | 野鳥・鳥類
狙いのイワツバメに戻って...

別テイクの2コマ。
上コマは、 経験的には、 具体的な目標物は見定めずに飛び回っているのではない、 見つけた特定の対象に向かって行く時の印象。
リアルな実際では 向かおうとしているのが「捕食」だったのかは 定かではない、が・・・
捕食の流れの姿は こういう雰囲気、のイメージ。





「鳥が 飛んでいる虫を捕食しようとするシーン」は いくつかの種類で写したことがあるが・・・
口を開くタイミングの 虫との距離感は、 その時によって 定まらない。
ピントなど技術的な要素の成否では「その一瞬」に迫れていても、 どう写るかは 巡り合わせ次第。

これは、 機材・技能・状況の総合で 飛翔をたくさん写せれば、 長い時間スケールの中でなら いつかは写せるのが必然のシーン...
とはいえ、
例えば、 カワセミのダイビングとか 鷺などが獲物を持ち上げた後のような、 誰にでも見える動きからの捕らえた後を写せれば
「捕食の“瞬間”の撮影に『成功』した」
でいられるのとは、 “瞬間”の意味も、 そもそもの全般から 全く無関係ほど 遠い世界...
なのだが・・・

鳥全般の情景の中には、 『捕食』のように 文字に訳してしまえば 別の機会に同じ語句を充てて表せる要素は 多々ある。
それで、 他者の写真を見れば、 自身が写したことがある中の要素を文字訳して作れる語句を探し回って...
被写体の行動だったり、 種名や 撮影場所だけですらの、 “言葉遊びゲーム”で共通して充てられる○○を1つ叫べさえすれば、
「私は ○○の撮影に『成功』しているので、 この○○も 撮影に『成功』できることを、 私は ちゃんとわかっている」
と 一律のお決まりで話を広げた妄想を周囲にもご熱心に語り回ったのを事実の証明として ご勝手に舞い上がっては、 更に転がって
「『いっしゅうかんまえ』から 私だけが先に撮影に『成功』していたのを、 私は ちゃんとわかっている」
「私が教えてあげて 撮影に『成功』できるようにしてあげたのを、 私は ちゃんとわかっている」
にも逝ってしまう、 この世のものではない優越意識でお幸せでいられる『残念さん』が、 どこにでも多々いるもの...
...多々というか、 厳密な実数とは違う意味で使う“感覚的な表現”でなら「ほぼ全数が」レベルで異口同音が耳タコの定型 x x x

そして、 語られるお幸せな妄想が より残念すぎるほど、 同類の『残念さん』には より都合が良いのが 福音として喜ばれる。
それに沿えば 自身も特別に優秀でいられる、とか、 自身の同じご自慢を事実と証明し合えるから 正しい見識、といったご都合で...
妄想が 際限なく残念すぎればすぎるほど、 より多くの『残念さん』が信仰して集って 意気揚々のご陽気な団体活動が盛況でも...
『残念さん』同士でなら この世のものではないことを認め合えて お幸せでいられるからといって、 この世の現実とは 無関係 x x x

ムクドリ 飛翔|普通種だからといって...

2024年06月18日 | 野鳥・鳥類
イワツバメ狙いの時に通りかかった、 他の飛翔体... その1。



ムクドリは、 自分的な傾向では、 長年総じて 写す機会は少ない。
これは、 写真とは関係ない日常行動の時も含めて 意識して見ていても、 効果的に狙える状況は少なくての成り行き。
ありがちな、 ありがたがられる種類には 写しさえすれば優秀な証明と意気込んで熱心でも 普通種には無関心、とは、 全く違う話。

ありきたりにたくさんいて いつでも見られる普通種は、 写すだけなら、 その『いつでも』相応で写せる、が...
だからといって、 いつでも 何でもを 都合良く見られて写せるのではない。
そこに、 写真では、 色々な要素の“見ると写すとは大違い”が重なり合った複雑さが連なる。
その多要素が同時に揃う必要があるのが、 写せるだけならいつでもあっても 効果的に写せる状況は少ない、のだが...

鳥写真では、 評価の尺度が 種名だけ、とか、 せいぜい 写っている大きさや ○○している位しか見えない止まりが 多々ありがち。
そんな とても多くには、 いるのが見える鳥を「写せる状況が少ない」とは、 通じる期待が遠すぎる要素が多すぎそうな x x x
あるいは、
目視で見ただけでは、 好要素の断片を超拡大した訳文を一体に寄せ集めて映像化生成した幻想が あたかも現実として見えていがち。
これは、 見ているリアルタイムでの認識から既に...
まして、 後で振り返る記憶ともなると、 更に大幅な編集が加わっているもの、で...
実在したベストを遥かに超える好機が乱発している幻想を語って、 『いつでも 何でも 簡単に』写せると思われがち x x x

イワツバメ飛翔・頭掻き,羽繕い|わざわざ飛びながら...??

2024年05月25日 | 野鳥・鳥類
イワツバメは、 電線にとまったりもするが、 なぜか、 頻度は少ない。
とまった方が楽にできそうな 日常の行動の色々を、 飛びながら行うのが見られる。



飛びながら“頭掻き”。
「見る」だけ、なら、 長く飛び回り続けている種類... アジサシや カラスなどでも 時々ある行動、ではありつつ・・・
「写真に捉える」には、 好条件の事情が、 目視での観察でイメージするより 異次元にシビア。
鮮明に写せる近距離で、 写り方の 光も角度も良い状況は、 稀で、 しかも 飛び回る中での一瞬だけ。
それを、 画角内で追えて、 ピントが正確に入って、 動き方と タイミングも、...と都合良くは なかなか揃ってくれないシーン。

速い飛行からの 翼を広げてできる動きなら、 はばたけなくても『紙飛行機』のような状態で、 極端に急な落下はしない。
普段よりは失速する加減が大きいので 降下しながらも、 しばらくは惰性で滑空して、 その後で『鳥』に戻って 失速を立て直す。



こちらは、 脚の辺りを“羽繕い”か。

イワツバメは、 脚に細かい羽毛があるのが、 身近にいる他の小鳥では見ない特徴。
でも、 とまっている機会が少なめなのが、 見て知る機会も少なめ?

イワツバメ幼鳥 飛翔|幼顔

2024年05月18日 | 野鳥・鳥類
イワツバメは、 形が“燕尾服”ではないこともあって、 成鳥も幼鳥も 外見の大枠には差が少ない。
そして、 普通の動き感で 速く機敏に飛んでいるのを写したら 幼鳥だった、ということが よくある印象。
巣立ち後の幼鳥は、 “ぎこちない飛び方”に見える期間は とても短くて 急成長するよう。



分かり易すぎるレベルで 嘴が黄色くて、 顔立ちは まだ雛の幼い雰囲気も。

ただ『飛んでいる』だけではない色々な状況が揃うと、 普段は陰になることが多い両翼の下面に 広く光が入る瞬間がある。
好条件は なかなか揃ってくれない写り方でもあり。

これは、 鷹の帆翔で 似た写り方がよく出るのとは、 事情が全く別物。
でも、 鷹の帆翔を写したのを混同して、 こういうのも写せるスキルがあるつもりでいる“残念さん”も ありそうなパターン x x x





上写真からの続き。

円弧を描くように回り込んでから 直進に向いていくところ...と表せば、 飛行機でも普通に見られて 日常的な感覚の動き。
超ぉ機敏な瞬時に翻る 軌道に連続性がない方向転換も多く見るツバメ類の飛び方としては...でなら、 わりあい穏やかな流れ、か。
とはいえ、 普通にある緩やかな旋回では、 画も 頻度と難度の普通相応に平凡な 浅い角度にしかならない。
鮮明に捉えるには、 近距離で、 急な変化での “人ができる機動能力の感覚とは異次元すぎる動き”を追える必要があるシーン。

イワツバメ飛翔|標的へ?

2024年05月03日 | 野鳥・鳥類
直近の冬の鳥写真で載せたのは、 全て「同じ日」に写した分だけになり...
これは、 昨夏に ここに載せたトンボの飛翔写真が 「同じ日」の分が2セットだったのと同じようなパターンの再来 x x x

自然写真では、 期待している狙い目でも、 巡り合わせが揃わないと 写せる可能性自体から全く無いままに終わることにもなる。
それが、 街の近郊で 野生の生き物を写せる状況となると、 ますますバリエーションが狭く限定されていく感が強い。
その 時期も限られる状況に 気象的な好条件も揃うのが期待できない時には、 他で“何か”を拾えるのを期待する選択肢は 少ない。
写せた結果として残るのは、 大部分が 集中的に写せた「特定の日」の 似たようなシーンの並び、になりがち。



ハードディスク内の使用量低減に 過去分を整理した中にあったものの供養 x x x

ツバメの類は、 速く機敏に飛び回る。
とはいえ、 ただ『飛んでいるのを写した』のが判りさえすれば良い『だけ』なら、 たいして難しくはなく写せる。
だから、 それ『だけ』ではない“動き”があるシーンを捉えたいところ。
・・・といっても...、
ふつ~に見ると 『飛んでいるだけ』??



上とは別テイクの、 (たぶん)個体も別のコマでの 連続風味仕立て。
テイク数が多く続くと、 見渡して意識できる範囲の持ちコマの中で こういう組み合わせになる画に気付いたりもする。

たくさん写していての経験的な感覚では、 どちらも、 何かの具体的な対象... 獲物か 別の個体かに向かっている時の印象。
捕食の狙いだとすると、 まだ ずっと遠くまで飛んで行くのか、もう眼前なのか、は、 写している現場でも判断できないシーン。

オオタカ飛翔|たいていは、 枯れ木も山の...

2024年04月01日 | 野鳥・鳥類
オオタカは、 野鳥や自然の話題で “象徴”的に扱われがちな 有名人キャラの1つ。

かつては、 レッドデータブックに挙げられ 希少野生動植物種の保護対象になっていることが マスメディアでの露出度も多く...
『オオタカ』と発しさえすれば環境意識?かの 本質が薄ぅいアピールに インスタントな“象徴”として消費される風潮も x x x

それも、 後の状況変化を反映して 保護の指定が外されてから もう結構経っている現代では、 いわば「普通種」。
・・・でも、 未だに、 既にこの世のものではない知識の亡霊が徘徊し続けているような x x x

“象徴”的に扱われがちで 有名人キャラの種類には、 「~~じゃない方」より 遥かに多くが ありがたがって群がる。
そして、 『見た』『写した』だけ...から『知っている』だけレベルでも 超ぉ積極的に話題に挙げたがられがち。
そんな“象徴的に扱われることが多い鳥”“ありがたがられる鳥”は 他にも色々あるながら・・・
それらの中で、 現代のオオタカは、 街的な地域の身近でも普通にいて、 接される総数が特に多い。
それが、 カワセミとも共通する、 話題や写真に 特に特に...頻出する事情。
すると・・・、
単に 主観の「嗜好」で象徴的に扱われがちなだけを、 ご勝手に『特別な意味』に作り換えた お幸せなご教義が喜ばれて・・・
ただ写しただけで 皆が『特別に優れたこと』に『成功』していると祀り上げ合う お幸せ教徒さんの団体活動も 各地で無数に盛況。

無限ほどの多数が自称する『特別に優れたこと』と同等に『成功』すれば、 自身も『特別に優れている』証明が 無限ほど多数??
教団の外から見れば・・・
無限ほどの多数と同等の横並びこそが、 誰にでも簡単にできるのが当然にすぎない 客観的証明そのもの...なんですけど x x x



この時は、 林がブラインドで オオタカがいること自体が把握できていなかったところから 不意に飛び出して...
でも、 すぐに 引き返すに近い方向に戻って行った x x x
旋回は 遠ざかる方で、 すでに 視線が逃げ気味 x x x
突発で“見える位置”に現れてから 3秒位?しかない一瞬に即応できないと、 その後になれば もう飛び去って行く後ろ姿だけ。

鳥の飛翔写真狙いでは、 まだ見えていない鳥にも瞬時に反応できる体勢での集中を何時間も続けるのは 普通にある。
もちろん、 願望的に期待するのは、 こういう「ただ“写っている”だけ」の画ではない...のだが...
それ以上の「!」な写真になる可能性があり得るチャンス自体が、 そうそう逢えるものではなく・・・
それでも 『枯れ木も山の賑わい』用にはなる?のが、 世の嗜好での都合の良さ...でもあり、 “利かされ”感の退屈でもあり。



わりあい 光が良く入っている感じもある、が・・・
オオタカは 光が入り易い印象が強くて、 飛翔でも 条件のアラが目立たずに“それっぽく”写せるのは 特に簡単な種類。
これが もし、 他の種類が 同じ位置に 同じ向きと形でいるシーンだったら、 光が悪い印象の写り方になっていた...かも。


鷹の類の飛翔は、 普段の全般では、 一連の状況が長~ぁ~ぁ~い時間 見え続けていることも 少なからずある。
まぁ・・・、
お幸せ教団さんだと、 10とか15も集って 狙いはオオタカだけの一点でも、 自力で見つけられるのは せいぜい 5~10回に1度。
でも、 連続して見え続けている時間は、 「秒」ではなく 「分」の単位...、 時には 5分以上とかも。
それが、 どこでも定型、 教団外の周りから教えてもらえてから 集いの中で伝え合って... から、 教えてもらった相手にまで
「教えてくれたところにオオタカが出てるよ! アンタが鳥なんか見つけられないクズだから、 私が先に見つけて教えてあげたよ!」
の 『周囲の助力の又売り先生』兼『支離滅裂な恩の押し売り先生』を崇拝していられる『残念さん』でも 飛翔も写せる事情。
世の一般では「能ある鷹は...」とも使われるところに・・・
その鷹ネタで 『そもそも無い爪をひけらかしている先生』、 更には、 その奇行を崇めていられる教団とは、 可笑しな縁 x x x

こういうところで、 金銭に依る部分の“機材を揃えた”だけで 知識や技能が無い新参さんが、
「私は、 あの!、 オオタカを狙っています!」
はたまた、
「この私ほどにもなれば、 究極の才能がないと挑戦すらもできない、 あの!、 オオタカの撮影にまでも挑戦しています!」
的な優越意識を叫び合う教団に入信するのは、 即で 門外漢向けには“それらしく見せられる写真”を持てるのが好都合そう...
かもしれないが・・・
誰でも 最初から すぐにできて当然なだけの結果に、 無数の簡単すぎる矛盾にも気付けずに信仰されるご教義を“合成”して・・・
実態は 「まだ、 せいぜい オオタカぐらいしか写せない」のを、
「この私は、 究極の才能がある証明の、 全世界で一番難しい、 あの!、 オオタカの撮影にまでも『成功』しましたぁ!」
的な高揚に舞い上がって 優越意識に陶酔しがち。
これは、 カワセミをはじめ、 他の“ありがたがられる種類”をご神体として群れ集われる全てでも共通。
・・・だからといって、 それも、 自身の中では喜んでいられるだけ、なら、 それぞれのご自由なこと...
なのだが・・・
周囲は いちいち写す必要も無いことには ただ静かにスルーしている状況を、
「他のクズ共は『成功』できない証拠に、 皆、 毎回『挑戦しようとカメラを構えることすら諦めるしかない』と泣き叫んでいる」
の、 そもそも存在し得なくて 当然に実在もしない情景を語って 互いに証明し合った お幸せな優越意識を駆って、
「難しすぎて諦めるしかないと泣き叫んでいるアンタごときクズでも『成功』できるように、 この私が指導してあげますよ!」
と ご熱心な使命感で纏わり付き回ってあげてしまう 『ますます残念さん』直行便片道切符...が定番コース。
でも、
そんな、 多重の矛盾を連ねて そもそも成立しようがない『残念』なご自慢を称え合っていられる お幸せ教団支部には事欠かない。

鳥写真を撮りたいのか?
“先天的な知的能力の特性が共通する同類さん”同士だけでの教団の中だけで 優秀ぶりを証明し合っていられさえすれば お幸せ?
というか...、 多々が 教団の中だけに留まっていてはくれない“慈善活動ごっこ”にも進出してしまうのだが x x x
それと これは、 『鳥を写す』式の 極度に断片すぎる短文でなら同じにも表せても、 そもそもの発端の意向から 全く違う。
当然、 その行動の一部で 同じ状況に交錯していても、 そこに見ているものは、 目的意識も 価値基準も 根本から別の世界。


そういった『残念』な言動は、 自身は“その世界”の外にいて「見るだけ」だからといって 無関係ではなく・・・

ネット世界でも リアル世界でも、 称される全てが“自称”。
どれだけ自信に満ちていても、 どれだけ盛大で華々しい文言でも、 世の実態における客観性には 保証は無い。

『残念さん』にとっては 超~ぉ~盛大な文言が躍る『自慢作』...
そのご自慢が、 自身の私見として、では、 悪意も偽りもない 率直な語りでも・・・
別の人は、 『それ』には写そうとする価値も無く、 異次元に上回るコマすら 「不要」で 軽々と消し去る、とか。
それなら、 その“別の人”が、 自己評価では「平凡」「惜しくも残念な感じ」とか低調風味でも 現に“消さずに残す”レベルは?

・・・でも、 実態など考えようともせず、 表面にある 目を引く文言だけを 機械的直訳で真に受けて、 知識として覚えられがち。

あるいは、 ヤラセや合成などでの創作に 虚構の説明を騙る『捏造』(フェイク)も、 プロ・アマ問わず 大昔から続く古典芸。
こちらは、 名声欲に営利にと私欲の為に 偽りを流布して世の知識的理解なり情報なりを歪めてまで邁進する“反社会的”思考。

色々な分野で、 実態とは無関係すぎるのに 広く浸透している『迷信』を 門外漢が意気揚々と語ってきて閉口する定型があるはず。
「百聞は一見に如かず」 「聞くと見るとは大違い」・・・
実体験が無くて騙られるお噺では、 僅かでも実体験をすれば すぐに必ず知る基礎から “門外漢式の常識”の『迷信』が闊歩する。
その自身は上手く正しく演じられている確信の自己採点は、 内容が成立していなくても気付けない自体に気付けないだけ。
それで、 自称・自然写真家の類さんの、 世での扱いは“権威”的な“大御所”級から大多数の『残念』な実態が丸バレ...とかも。
初心の最初から全てが『捏造』だけ、 実在の自然には 未だに目を向けたことすら無いまま...でないのなら 何なのだろう??

『残念』なご自慢も、 “反社会的”な作為の『捏造』(フェイク)でも、 『鵜呑み』 『オウム返し』で 知ったかぶりの連鎖...
・・・ここにも 何だか“鳥”絡み x x x
そして、 『鵜呑み』 『オウム返し』の尺もなく...
気に留まった単語1つ2つだけを拾い出して、 自身の『残念』な世界観の語りで 意味を解らずに使うだけ、の幼児式作文も。
ここでも、 コンテストで選考する自称・自然写真家の類さんが 自然にも写真にも何故か無知な実情が丸バレ...は、 昔も今も常態。
「生態」を『静体』の【せいたい】と混同している『残念な知識』での選考と 支離滅裂な講評すら、 優れた経歴に化ける始末。

それで表れている 他者の“見える反応”も また、 『文言の機械的直訳』も 『数的な多さ』も、 信憑性とは無関係。
むしろ・・・
『残念さん』ほど、 何にでも自信に満ち満ちて、 盛大で華々しい文言で優越意識を叫んでいられるのが、 世には ありふれた定型。
そんな『残念さん』が叫ぶ優越意識こそ、 同類さんには、 自身の優秀ぶりを証明し合える麗しい見識として 篤く信仰される。
だから、 数的な概況を簡略に単純化した図では 三角形の階層ピラミッドで描かれる お馴染みの分布パターンでの必然で...
『残念』を多重に連ねて 物事の道理として成立しようがない言説ほど、 より多く叫び合われているのが、 世には ありふれた定型。
一方の、 『残念』だと解る人は、 強いての事情は無ければ ただスルーして、 外面的には 存在自体が殆ど表れてこないもの。

物事の道理として成立していない言動は、 その内容個々の現場に物的立証は無くても 「真に受けるのは愚か」なのは判断できる。
でも、 誰でもが関わるのではない分野に 実体験での具体的な知識があるのは、 世の全体の中では 少数だけ。
だから、 現実が語られるのを 正しい知見と解り、 実在し得ないことが語られるのを偽りと解るのは、 その少数だけに限られる。
対して・・・、
圧倒的に多くを占める門外漢には、 いつか どこかで聞いた記憶で“いかにも それらしくて好まれる単語”だけが知識の全て。
そんな特定単語を より多く発しさえすれば、 内容が支離滅裂でも、 圧倒的大多数には『優れた知見』として喜ばれていられる。
そして、 自身が真に受けている ご勝手な嗜好に合わされた『迷信』と同じでこそ 『正しく優れた知見』として受け入れられる。
それを利用した生業の“大御所さん”らに称される『実績』は、 そもそもが 内容への評価ではなく、 営利での『業績』の話。

こういうことは、 写真とか 自然とか 特定分野だけでの特殊な事情のはずも無く、 世には どこにでも ありふれた定型。
社会的に通じる肩書も、 テレビ・新聞・雑誌なども含めて 称される実績のご立派ぶりも、 言説の妥当性の保証になるはずも無い。
ありがちな、 『自身の言動の安全』を『他者を模倣する』ことに頼っても、 そもそも意味を成していない浅知恵。

ネタ元が 権威的扱いから 他の一般まで 何でも、 思考停止で 『物事の道理として成立していない言動』をトレースすれば・・・
“人”の知能で順当な 現実世界の言動をするより、 むしろ、 リアルな桁違いも遥かに超える多くとでも篤い親交が持てるのかも。
そんな数的活況に属するのが 優れた行い...好ましい振る舞い...と信じるのも それぞれ次第、でも・・・
同時に、 現実が見えている“人”からは 『残念さん』『反社構成員』として扱われるのと引き換えになっているのは 単なる当然。
そうなっても、 ネタ元の所為にはできない 自己責任 x x x

オオバン|超望遠は『超~遠くを望む』...だけではなく...

2024年03月23日 | 野鳥・鳥類
普段見ているフィールドによっても違いそうながら・・・
草をついばんだり、 潜水して水草を採ったりしていて、 「草食性」の印象?
実際は 「雑食」。
状況次第では 生きた魚を捕食したりもするのを知ると、 イメージが変わるかも。

・・・でも、 潜水できる推進力はあっても 泳ぐのは遅めで、 俊敏に逃げられる動物を捕らえられる機会は稀。
小さな虫を捕食したのが“見えて”いても 気付き難い。
それで、 “認識する”の趣旨での“見える”のは もっぱら草食シーン、という事情。





大砲レンズで写したもの。
多少トリミングしたものを縮小しているながら、 元画像でも 胴の中ほどより前だけしか入りきらないスケール。

街的な環境での鳥撮りでは、 種類によっては とても近い距離で写す機会が多くあったりもする。

静止画になった写真だけ見ると、 簡単に写せる“静体”っぽいかも?
実際には、 進んでいて 通過していくところ。
引きのスケールで見れば スムーズな等速直線運動的でも、 アップでは 顔に不規則な動きが大きめな印象があって 結構 追い難い。

大砲レンズは、 性能も見た目も華々しい 象徴的機材...でも・・・
せっかく豪華機材を使っても、 大きさ重さで 取り回しが熟せなくて、 超~遥か遠くだけしか写せないパターンも。
大砲レンズ = 超望遠レンズ ... だから 『超~遠くを望む』専用レンズ、で、 王道を邁進している??
もちろん、 超~遠くからだけしか写せないものなら “遠いにしては”高解像で写せるのが 機能性の一端ではある...
が・・・
小~中口径で 頑張りが利いた動的な写真に多面的な実績があるのだと、 大砲レンズでは 結果が むしろ低レベル化することもある。
鳥写真での大砲レンズは、 近すぎる位の距離で超~鮮明に写せる効果を どこまで活かせるかでも 実効の価値が大きく違ってくる。

ハシビロガモ頭掻き|“頭”掻き...というか

2024年03月16日 | 野鳥・鳥類
頭に光沢がある種類の鴨は、 動きの中で 角度と形の組み合わせに 光の都合が揃うタイミングは かなり限定される。







“頭”掻きというか... “目”というか...

ホシハジロ飛翔|風が強い季節

2024年03月14日 | 野鳥・鳥類
“海ガモ”とも表される、 マガモなど『いかにも鴨』の“淡水ガモ”と ミコアイサなどとの 中間的なキャラ感。
太めの体型と、 潜水を繰り返す採餌行動の組み合わせ。
“海ガモ”とはいっても、 「活動するのは主に淡水域」の種類も含まれるグループ。

飛び立つ時には、 たいてい水面を助走するので、 あまり機敏な印象ではない、か。
飛び立てた後は速い、が、 旋回性は低い。
方向を変えるのは 軌道が大きな円弧になって、 機敏というよりは 直線的なイメージの速さ。



1月に写した分の続き。

できれば 微風の穏やかな水面で写したいところ...
でも、 冬鳥がいる季節は 風が強い時が多いので、 水面が荒れた状況でも写しておく方に寄りがち。
一応『冬らしい状況』と 言えなくもない...のか x x x

リアル世界(現実世界)に ちゃんと実在している本来の情景のままを写した、 “人の勝手な嗜好に合うように状況を作為的に改変して創作された虚構”のない 絶対非演出スナップです。

野鳥写真:大空を自在に翔ける飛翔写真 = 鳥の行動で「最も鳥らしい特徴が表れた魅力」とも言える 飛ぶ姿を中心に、 カワセミ(翡翠),オオタカなど猛禽類(鷹)といった人気の種類から バードウォッチングで“ものさし鳥”にも使われる普通種まで 幅広く。 多くは ネイチャーフォト系や動物写真系のフォトコンテストでの入選・入賞が出ている場所でのものです。 (撮影地は記載しません)
他に、 昆虫写真や ネコ写真(野良ねこ写真)、 航空機 など...
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