何がどう、という画でもないながら x x x “静体”的な帆翔ではない “動体”の飛行シーン。
まぁ、 こういうのを写しても リアル世界での使い道は 殆ど無いのは カメラを構える前から すでにわかっているわけで、 そもそも こういう画を写すことを期待して やっているのではないが x x x
●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。
- - - - - - - - - -
野鳥写真に適したシーズンを 秋冬と思っている向きも多いのかも。
でも、 これから向かっていく冬には 風景が枯れて 色鮮やかな写りにはならないもの。
それでも、 もちろん、 冬鳥 = 冬季にしか見られない種類は多いし、 春夏にも見られる留鳥でも 冬季には狙えても 夏季には期待が低いシーンなど、 写せる時に写しておかないと その写真を得られないものには、 それを狙いたいモティベーションは 高く持てる。
対して、 留鳥が ただ写っているだけでは、 解像感としては鮮明に写せたところで、 春夏に写せたのと比べれば 価値は 遥かに低い。
・・・ というか、 「○○がいた」とか 「○○を見たことがある」の証拠写真を “鳥の写真を写す”ことだと思っている向きには 目的を全て満たして 万歳で完結していても、 それとは違う意向で “鳥の写真を撮っている人”にとっては、 冬季に どれだけ多数を写していても、 春夏に一度でも写せれば、 もう 冬季に写していた意味は 実質的に消え去って、 全て 元々写していないのと同じに帰すことになるだけで、 積極的なモティベーションは 持てない季節。
なのだが・・・、 これからの時期は、 オオタカを、 うんと遠くでまで いちいち ありがたがる撮影会の集いも 目立ちがちなのが 毎年のこと。
各地のどこででも見られる留鳥を、 冬季に、 毎回 殆ど同じに ただ写っているだけで 延々と喜び続けていられる面々には、 オオタカの 何が魅力なのか・・・
オオタカも含めた 鷲鷹の類は、 飛翔写真というだけでよければ、 必要なスキルは とても低いレベルで 充分に写せる。
なので、 機材さえあれば 誰にでも写せて、 その写真の優劣には、 撮影者のスキルよりも 機材の差が そのまま表れる要素が大きい。
こういう特徴は “カワセミ写真”とも共通して、 鳥の写真を撮ることへの 自身の能力を向上させる努力をすることもなく 知識もスキルも乏しいままで、 それでいて、 最初から すぐに ご自慢するネタは得たい面々にとっては 『写せる結果を金で買える』ことで 都合が良い鳥ではあるだろうが・・・
初歩的なことだが、 飛翔写真を写すことは、 鳥の写真を写すことでの優劣と 直結する要素ではない。
“とまり”だけを写していても、 鳥の写真を撮るのが上手い人もいれば 下手な面々もいる。
飛翔写真を多数写していても、 鳥の写真を撮るのが上手い人もいれば 下手な面々もいる。
とはいえ、 鳥において 飛ぶことは特徴的な能力であり、 また、 飛翔写真も撮れるスキルが高ければ 期待できる写真のバリエーションが広がるので、 象徴的な要素として 羨望されがち。
だから、 飛翔写真を写せることが “鳥の写真を撮るのが上手い”と 思い違いをしている向きも 多いように見える。
そこから、 写真を文言に置き換えれば 「飛んでいる鳥が写っている」と表すのが 完全に違うとまでは いえないけれど... な愚作で 舞い上がってしまって・・・と なりがち。
その思い違いと 写真自体への無知、 そして 鳥には門外漢の誤ったイメージでありがたがられる種名との総合で、 豆粒ほどのケツ写真でまで 「“あの”オオタカの飛翔写真の撮影にまでも『成功』したぁ~」と 自身を祀り上げた幻想に浸っている面々同士だけでの 滑稽な集いが形成されているのが、 毎度毎度のお噺。
写した写真の自己評価の基準は それぞれ次第で 千差万別・・・ というか、 自画自賛の内容も、 その根拠として語られる ご解説も、 全てが 自称で、 世の中全体と照らした 広い観点での客観性があるとは限らない。
なので、 鳥には門外漢の同類さん同士だけでの集いの面々にとっては、 “鳥の写真を撮っている人”の感覚では 写っていたところで価値もない“ゴミ写真”にすらも 遥かに及ばないものでも 高等すぎて 想像することもできないことで、 全く稚拙すぎるものを 格別に優れたものとして ご自慢し合って 称え合うことが成立して、 優越感の幻想に浸り続けることになる。
もちろん、 それが 他者から見れば どれだけ稚拙で お恥ずかしいお姿でも、 自分の中だけ、同類さん同士だけでの内輪の中だけ、で ご満悦でいるだけなら それぞれのご自由・・・ ではあるのだが・・・
そういう面々となると、 周囲の人にとっては 写したところで あまりに無価値で 馬鹿馬鹿しすぎるから 当然に 平然とスルーしているものまで いちいち大量激写しては、 あべこべに
「他の皆が 誰も見つけられない “あの”オオタカを見つけることにまでも 『成功』した」
「他の皆が 難しすぎて カメラを構えることすら諦めてしまっているほどものものまでも 撮影に『成功』した」
と はしゃぎ合って、 ますます お幸せな幻想を広げてしまうのも 定番中の定番。
そして、 門外漢だからこその幻想でしかない優越感を駆って、 ますます 得意満面に、 ますます (自身の方が 周囲より 圧倒的に 超絶に 優れているつもりで) 周囲の皆の為に、と 使命感に燃えて、 ますます お恥ずかしいご指導の押し売りに お励みになられて 付き纏い続けて・・・、が、 どこのフィールドでも 常に多々いて、 延々と繰り返され続けている情景。
周囲に写真を見せて 「良い写真が写せて よかったですね」的な応接をしてもらえるからといって、 それは、 リアル世界では ごく当然に行なわれている 社交上の形式的な儀礼とか、 (稚拙すぎることがわかっていても) 「あなたにとっては それが良い写真なのなら、」はサイレントして 表立っては聞こえが良い文言で接してあげている “世の中の優しさ”であって、 (自身が発した文言が、 ご自慢をしている、いない、には関係なく、) 世の中とは そういうもの、というだけのこと・・・ なのだが、 何でもお幸せな面々には、 ご勝手に
「私では 一生かけても ただの一度すら 絶対に写せるはずもない、 これほどまでにも素晴らしい写真の撮影に『成功』できるなんて、 凄すぎます!!」
といった、 実際に言われた文言とは いささか違いすぎる、 そして、 極めて高い割合で 限りなく類似したお噺に化けて 聞こえてしまうものらしい。
あるいは、 稚拙すぎるご指導を押し売りして、 「そんな(無駄な|くだらない|マヌケな|etc...)ものまで 写す必要なんか ないんですよ」と クールにスルーされるのは、 これも 「それを写すのなら 誰にでも簡単にできるけれど、 その程度のものを どれだけ完璧に写せたところで 何の価値もない写真でしかないのだから、」を サイレントした応接・・・ なのだが、 これもまた、 何でもお幸せな面々には、 ご勝手に
「そんなにも 難しすぎるものを写すなんて たとえ何万回挑戦したって永久に不可能で 無駄だとわかりきっているから、 世界中の誰もが カメラを構えることすら諦めているほどものものまで 写そうとする必要なんか ないんですよ」
といった類の、 いつでも 何処でも 毎度毎度 お馴染みの 色々な定型が付け加わった ずいぶん長大な文言に化けてしまって、 あべこべに ご自身が超絶に優秀なつもりの幻想を 事実として再確認してしまう。
はたまた、 それなら サイレントせずに 「それを写すのなら 誰にでも簡単にできるけれど、 その程度のものを どれだけ完璧に写せたところで 何の価値もない写真でしかないだから、 それで良い写真を撮れているつもりでいられること以前に、 そんな くだらない 無駄なものまで 写そうとしているところから もうすでにマヌケすぎるんですよ」と 明言すれば?・・・、 また それはそれで、
「あれほどまでにも素晴らしい写真の撮影にまでも 『成功』しておられる あなたほどものお方にもなれば 簡単にできると思われるのでしょうが、 私程度の者にとっては どれだけ完璧に写せたつもりの写真でも、 あなたほどものお方には 足元にも及ばない 何の価値もない くだらない マヌケすぎる写真にしかならなくて 写そうと挑戦するのも無駄だとわかりきっているから、 カメラを構えることすら 諦めるしかないんですよ」
といった類に 化けてしまうだけの話で...
当たり前すぎることだが・・・
自身が 何かをできたからといって、 それは 「他の誰にもできないことに 『成功』した」のではない。
自身ができたことを 他の人が 誰も 自身のように大はしゃぎしていないからといって、 それは 「他の誰も 『成功』できていない」のではない。
他の人が 誰もやろうとしていないからといって、 それは 「できないから やろうとすることもできない」のではない。
自身には できるとは想像もつかないからといって、 それは 「他の誰にも できていないこと」なのではない。
自身は知らない(見ても理解できない)からといって、 それは 「存在していない」のではない。
自身が知らなかった何かを教えてもらったからといって、 それは 「他の誰も知らないことを 発見した」のではない。
自身は 自身が知っていることは全て知っている(どちらも同じものだから 当たり前 x x x)からといって、 それは 「全てを知っている」のでもなければ 「自身の理解や行動が正しい証明」でもない。
等々・・・
幼児なら、 こういうことが まだ わかっていないのは 普通のこと。
だから、 大人から見れば 他愛もないことをしては 得意げに教えてあげに来たり、 何かを教えてもらうと 得意げに 断片的な単語のいくつかを復唱して 自分が教えてあげた気になって 喜んでいたりするもの。
でも、 一般論としては、 相応の年齢になれば...といっても、 小さな子どもでも その実際が わかるようになっていくこと。
これは、 一般論としては 全く当たり前でも、 相応の年齢になるだけ... つまり 生まれてから 相応の年数が経過するだけで 無条件に得られることではなく、 誰しもが それぞれに、 幼児のうちにおいての経験・・・ 大人から見れば ありきたりな日常の諸々の中で、 気付き、学んで、 わかるようになっていくこと。
だが、 一般論からは外れている、 物理的な外見は 成長しても、 “知的面での特性”で、 そんな 小さな子どもでも わかるのが 当たり前にすぎない程度のことでも (まだ わかるようになれていない 過渡的な段階ではなく、 ずっと) 理解できるようになれない存在として お生まれになった面々もいるのも、 この世界の現実。
いわゆる 健常者なら、 小さな子どもでも、 特に教えられるものだけではない 身の回りの色々な事柄から 自然に様々な 無数の小さな学びを積み重ねて、 より “人”としての あるべき理解を備えて 成長していくもの。
だが、 それが望めない“知的面での特性”をお持ちの面々は、 目の前にある 現実のありのままは理解できず、 それでいて、 自身のご勝手で 一部の断片だけをつまみ出して、 自身のご勝手で 経緯の前後関係や 自身と相手を入れ替えたり ありもしないものも付け加えて、 自身のご勝手で ご都合良く繋ぎ合わせた 実在していないものが 見えて、聞こえてしまうことで、 その 自身のご勝手で創作した支離滅裂な妄想を 現実として理解した学びを 積み重ね続けてしまう。
これは、 思考や言動に表れるパターンが、 “お幸せな自己陶酔”だけでなく、 自身が愚行をしておいて他者の所為にするとか 元から実在しないものが そのまま無いだけが 無くなった(盗まれた)ことになるといった “被害者嗜好の実現”でも、 自身が優れていて 正しいことになっている設定から先の嗜好が違うだけで、 自身の願望にご都合が良く作った妄想世界に暮らしている 本質的な構造は 全く同じだろう。
当然ながら、 そういう“知的面での特性”をお持ちの面々が リアル世界の実際とは無関係な理解をしてしまうのは、 鳥や 写真のような 特定の要素に関してだけに限られるはずはなく、 日常の あらゆる全てで、 物理的には リアル世界にありながら、 リアル世界の実際とは違う妄想世界が 見えて、聞こえて 暮らしているもの。
そして、 年齢とは無関係に ずっと幼児然とした理解と言動のまま、 いわゆる健常者での成長とは むしろ 逆方向、 周囲への迷惑が 更に一層 拡大し続ける一途に進行する成長をしてしまう。
言動として『やっていること自体』は同じで、 実際の幼児であれば、 すぐに常識をわきまえた 普通の“人”に成長していく過程での 今だけの一時しかない 可愛らしい情景として 好意的に微笑ましく見られる振る舞いでも、 それが“知的面での特性”で、となると、 周囲は そこに隣接する状況になるだけでも 社会的なマナーやモラルにおいて 著しく神経質にならざるを得ない。
そして、 それが、 幼児や 認知症での事象とは 全く比較にならない 遥かに長期間の 何十年も ずっと続く。
(前記の繰り返しにもなるが)
そういう面々が、 いつでも例外なく 過去の実際の現実を憶えていない(実際とは違うことを言い張る)からといって、 記憶すること自体ができないのではなく、 現実とは違う妄想を 現実として理解した記憶を積み上げているもの。
また、 言動や その基になる 物事の見え方に 幼児との類似性が多く、 あるいは、 知能が幼児程度と表すことが 当てはまる部分が多くあるからといって、 幼児のように 幼児程度の知能での理解力ならあるのとは 事情が根本的に違う。
そのため、 外的に表れている言動の 断片的な要素だけしか見えていない “知的面での特性”への理解を欠いた 軽率なご親切で、 幼児も含めた“人”への接し方としてなら真っ当な 「事実を正しく述べて 丁寧に諭す」ようなことをするのは、 無駄・・・ なだけでは済まず、 より一層の 支離滅裂な理解で ご自身を祀り上げた お幸せな妄想 あるいは あべこべな被害妄想を拡げて、 より一層の 使命感や 正義感での 迷惑な言動に駆り立てさせることの助長になる。
これは、 直接的に 迷惑なことをするのは 自身ではなくても、 その親切のつもりこそが、 周囲の人であり 世の中でありへの 無責任な迷惑行為にもなる。
だから、 周囲の いわゆる健常者の殆どは、 そういう面々の言動で 多くの迷惑を被っていてもなお、 社会的通念として 周囲の方が 犠牲を強いられてまでの 配慮した対応を求められざるを得ない対象だと わかっているからこそ、 福祉的観点からの対応をしているのもの。
だからこそ、 “世の中の優しさ”に浸かって暮らしている お幸せな面々は、 ずっと お恥ずかしい言動を晒せば晒すほど ますますご満悦で...の 無限ループで、 お恥ずかしい言動を晒し続けることが お幸せでいられて、 お幸せにお恥ずかしい言動を晒し続けることに なるのだが。
鳥関連に戻って・・・
経験として、 カワセミ等の 他のどんな鳥でも同じだが、 各地で盛況な、 ありがたがられる鳥をお目当てにした撮影会で 賑やかに語り合われている 華々しい盛大な文言で飾り付けられたご自慢とご解説の内容が、 そもそも 実在しない...というか、 殆どが 多重に矛盾して実在しようがない、 幻想世界に暮らしている面々の お幸せな妄想噺でしかないことに、 例外があるとは思えない。
いわゆる健常者なら、 いわゆる(知的面での)健常者には あり得るはずがない言動をしている対象が、 いわゆる健常者では あり得ないことは、 当たり前に わかること。
妄想世界に暮らしている面々に 社交上の配慮として 形式的には その言動に沿っているかのような応接をしてあげるからといって、 そのお噺を 真に受けているのとは、 全く違うこと。
妄想世界に暮らしている面々の言動 あるいは 存在自体を そっとスルーして 話題に挙げることがないからといって、 その実際がわかっていないのとは、 全く違うこと。
お幸せな幻想世界に暮らしている面々同士だけで 得意満面に語り合われているお噺が 何の実態もないことにすら気付けずに 真に受けて 復唱し合い、 その集いでの設定に沿った評価で 称え合っていられるのでは、 それらとは別の “鳥の写真を撮っている人”とは あらゆる物事が 根本から全く違う世界が 見えて、聞こえている存在だからだろう。
まぁ、 こういうのを写しても リアル世界での使い道は 殆ど無いのは カメラを構える前から すでにわかっているわけで、 そもそも こういう画を写すことを期待して やっているのではないが x x x
●●お手軽「鳥の写真バッジ」が作れます●●
→ 作り方は、 ページ左側[カテゴリー]欄の 『●●お手軽「写真バッジ」が作れます●● 作り方の説明』を参照。
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野鳥写真に適したシーズンを 秋冬と思っている向きも多いのかも。
でも、 これから向かっていく冬には 風景が枯れて 色鮮やかな写りにはならないもの。
それでも、 もちろん、 冬鳥 = 冬季にしか見られない種類は多いし、 春夏にも見られる留鳥でも 冬季には狙えても 夏季には期待が低いシーンなど、 写せる時に写しておかないと その写真を得られないものには、 それを狙いたいモティベーションは 高く持てる。
対して、 留鳥が ただ写っているだけでは、 解像感としては鮮明に写せたところで、 春夏に写せたのと比べれば 価値は 遥かに低い。
・・・ というか、 「○○がいた」とか 「○○を見たことがある」の証拠写真を “鳥の写真を写す”ことだと思っている向きには 目的を全て満たして 万歳で完結していても、 それとは違う意向で “鳥の写真を撮っている人”にとっては、 冬季に どれだけ多数を写していても、 春夏に一度でも写せれば、 もう 冬季に写していた意味は 実質的に消え去って、 全て 元々写していないのと同じに帰すことになるだけで、 積極的なモティベーションは 持てない季節。
なのだが・・・、 これからの時期は、 オオタカを、 うんと遠くでまで いちいち ありがたがる撮影会の集いも 目立ちがちなのが 毎年のこと。
各地のどこででも見られる留鳥を、 冬季に、 毎回 殆ど同じに ただ写っているだけで 延々と喜び続けていられる面々には、 オオタカの 何が魅力なのか・・・
オオタカも含めた 鷲鷹の類は、 飛翔写真というだけでよければ、 必要なスキルは とても低いレベルで 充分に写せる。
なので、 機材さえあれば 誰にでも写せて、 その写真の優劣には、 撮影者のスキルよりも 機材の差が そのまま表れる要素が大きい。
こういう特徴は “カワセミ写真”とも共通して、 鳥の写真を撮ることへの 自身の能力を向上させる努力をすることもなく 知識もスキルも乏しいままで、 それでいて、 最初から すぐに ご自慢するネタは得たい面々にとっては 『写せる結果を金で買える』ことで 都合が良い鳥ではあるだろうが・・・
初歩的なことだが、 飛翔写真を写すことは、 鳥の写真を写すことでの優劣と 直結する要素ではない。
“とまり”だけを写していても、 鳥の写真を撮るのが上手い人もいれば 下手な面々もいる。
飛翔写真を多数写していても、 鳥の写真を撮るのが上手い人もいれば 下手な面々もいる。
とはいえ、 鳥において 飛ぶことは特徴的な能力であり、 また、 飛翔写真も撮れるスキルが高ければ 期待できる写真のバリエーションが広がるので、 象徴的な要素として 羨望されがち。
だから、 飛翔写真を写せることが “鳥の写真を撮るのが上手い”と 思い違いをしている向きも 多いように見える。
そこから、 写真を文言に置き換えれば 「飛んでいる鳥が写っている」と表すのが 完全に違うとまでは いえないけれど... な愚作で 舞い上がってしまって・・・と なりがち。
その思い違いと 写真自体への無知、 そして 鳥には門外漢の誤ったイメージでありがたがられる種名との総合で、 豆粒ほどのケツ写真でまで 「“あの”オオタカの飛翔写真の撮影にまでも『成功』したぁ~」と 自身を祀り上げた幻想に浸っている面々同士だけでの 滑稽な集いが形成されているのが、 毎度毎度のお噺。
写した写真の自己評価の基準は それぞれ次第で 千差万別・・・ というか、 自画自賛の内容も、 その根拠として語られる ご解説も、 全てが 自称で、 世の中全体と照らした 広い観点での客観性があるとは限らない。
なので、 鳥には門外漢の同類さん同士だけでの集いの面々にとっては、 “鳥の写真を撮っている人”の感覚では 写っていたところで価値もない“ゴミ写真”にすらも 遥かに及ばないものでも 高等すぎて 想像することもできないことで、 全く稚拙すぎるものを 格別に優れたものとして ご自慢し合って 称え合うことが成立して、 優越感の幻想に浸り続けることになる。
もちろん、 それが 他者から見れば どれだけ稚拙で お恥ずかしいお姿でも、 自分の中だけ、同類さん同士だけでの内輪の中だけ、で ご満悦でいるだけなら それぞれのご自由・・・ ではあるのだが・・・
そういう面々となると、 周囲の人にとっては 写したところで あまりに無価値で 馬鹿馬鹿しすぎるから 当然に 平然とスルーしているものまで いちいち大量激写しては、 あべこべに
「他の皆が 誰も見つけられない “あの”オオタカを見つけることにまでも 『成功』した」
「他の皆が 難しすぎて カメラを構えることすら諦めてしまっているほどものものまでも 撮影に『成功』した」
と はしゃぎ合って、 ますます お幸せな幻想を広げてしまうのも 定番中の定番。
そして、 門外漢だからこその幻想でしかない優越感を駆って、 ますます 得意満面に、 ますます (自身の方が 周囲より 圧倒的に 超絶に 優れているつもりで) 周囲の皆の為に、と 使命感に燃えて、 ますます お恥ずかしいご指導の押し売りに お励みになられて 付き纏い続けて・・・、が、 どこのフィールドでも 常に多々いて、 延々と繰り返され続けている情景。
周囲に写真を見せて 「良い写真が写せて よかったですね」的な応接をしてもらえるからといって、 それは、 リアル世界では ごく当然に行なわれている 社交上の形式的な儀礼とか、 (稚拙すぎることがわかっていても) 「あなたにとっては それが良い写真なのなら、」はサイレントして 表立っては聞こえが良い文言で接してあげている “世の中の優しさ”であって、 (自身が発した文言が、 ご自慢をしている、いない、には関係なく、) 世の中とは そういうもの、というだけのこと・・・ なのだが、 何でもお幸せな面々には、 ご勝手に
「私では 一生かけても ただの一度すら 絶対に写せるはずもない、 これほどまでにも素晴らしい写真の撮影に『成功』できるなんて、 凄すぎます!!」
といった、 実際に言われた文言とは いささか違いすぎる、 そして、 極めて高い割合で 限りなく類似したお噺に化けて 聞こえてしまうものらしい。
あるいは、 稚拙すぎるご指導を押し売りして、 「そんな(無駄な|くだらない|マヌケな|etc...)ものまで 写す必要なんか ないんですよ」と クールにスルーされるのは、 これも 「それを写すのなら 誰にでも簡単にできるけれど、 その程度のものを どれだけ完璧に写せたところで 何の価値もない写真でしかないのだから、」を サイレントした応接・・・ なのだが、 これもまた、 何でもお幸せな面々には、 ご勝手に
「そんなにも 難しすぎるものを写すなんて たとえ何万回挑戦したって永久に不可能で 無駄だとわかりきっているから、 世界中の誰もが カメラを構えることすら諦めているほどものものまで 写そうとする必要なんか ないんですよ」
といった類の、 いつでも 何処でも 毎度毎度 お馴染みの 色々な定型が付け加わった ずいぶん長大な文言に化けてしまって、 あべこべに ご自身が超絶に優秀なつもりの幻想を 事実として再確認してしまう。
はたまた、 それなら サイレントせずに 「それを写すのなら 誰にでも簡単にできるけれど、 その程度のものを どれだけ完璧に写せたところで 何の価値もない写真でしかないだから、 それで良い写真を撮れているつもりでいられること以前に、 そんな くだらない 無駄なものまで 写そうとしているところから もうすでにマヌケすぎるんですよ」と 明言すれば?・・・、 また それはそれで、
「あれほどまでにも素晴らしい写真の撮影にまでも 『成功』しておられる あなたほどものお方にもなれば 簡単にできると思われるのでしょうが、 私程度の者にとっては どれだけ完璧に写せたつもりの写真でも、 あなたほどものお方には 足元にも及ばない 何の価値もない くだらない マヌケすぎる写真にしかならなくて 写そうと挑戦するのも無駄だとわかりきっているから、 カメラを構えることすら 諦めるしかないんですよ」
といった類に 化けてしまうだけの話で...
当たり前すぎることだが・・・
自身が 何かをできたからといって、 それは 「他の誰にもできないことに 『成功』した」のではない。
自身ができたことを 他の人が 誰も 自身のように大はしゃぎしていないからといって、 それは 「他の誰も 『成功』できていない」のではない。
他の人が 誰もやろうとしていないからといって、 それは 「できないから やろうとすることもできない」のではない。
自身には できるとは想像もつかないからといって、 それは 「他の誰にも できていないこと」なのではない。
自身は知らない(見ても理解できない)からといって、 それは 「存在していない」のではない。
自身が知らなかった何かを教えてもらったからといって、 それは 「他の誰も知らないことを 発見した」のではない。
自身は 自身が知っていることは全て知っている(どちらも同じものだから 当たり前 x x x)からといって、 それは 「全てを知っている」のでもなければ 「自身の理解や行動が正しい証明」でもない。
等々・・・
幼児なら、 こういうことが まだ わかっていないのは 普通のこと。
だから、 大人から見れば 他愛もないことをしては 得意げに教えてあげに来たり、 何かを教えてもらうと 得意げに 断片的な単語のいくつかを復唱して 自分が教えてあげた気になって 喜んでいたりするもの。
でも、 一般論としては、 相応の年齢になれば...といっても、 小さな子どもでも その実際が わかるようになっていくこと。
これは、 一般論としては 全く当たり前でも、 相応の年齢になるだけ... つまり 生まれてから 相応の年数が経過するだけで 無条件に得られることではなく、 誰しもが それぞれに、 幼児のうちにおいての経験・・・ 大人から見れば ありきたりな日常の諸々の中で、 気付き、学んで、 わかるようになっていくこと。
だが、 一般論からは外れている、 物理的な外見は 成長しても、 “知的面での特性”で、 そんな 小さな子どもでも わかるのが 当たり前にすぎない程度のことでも (まだ わかるようになれていない 過渡的な段階ではなく、 ずっと) 理解できるようになれない存在として お生まれになった面々もいるのも、 この世界の現実。
いわゆる 健常者なら、 小さな子どもでも、 特に教えられるものだけではない 身の回りの色々な事柄から 自然に様々な 無数の小さな学びを積み重ねて、 より “人”としての あるべき理解を備えて 成長していくもの。
だが、 それが望めない“知的面での特性”をお持ちの面々は、 目の前にある 現実のありのままは理解できず、 それでいて、 自身のご勝手で 一部の断片だけをつまみ出して、 自身のご勝手で 経緯の前後関係や 自身と相手を入れ替えたり ありもしないものも付け加えて、 自身のご勝手で ご都合良く繋ぎ合わせた 実在していないものが 見えて、聞こえてしまうことで、 その 自身のご勝手で創作した支離滅裂な妄想を 現実として理解した学びを 積み重ね続けてしまう。
これは、 思考や言動に表れるパターンが、 “お幸せな自己陶酔”だけでなく、 自身が愚行をしておいて他者の所為にするとか 元から実在しないものが そのまま無いだけが 無くなった(盗まれた)ことになるといった “被害者嗜好の実現”でも、 自身が優れていて 正しいことになっている設定から先の嗜好が違うだけで、 自身の願望にご都合が良く作った妄想世界に暮らしている 本質的な構造は 全く同じだろう。
当然ながら、 そういう“知的面での特性”をお持ちの面々が リアル世界の実際とは無関係な理解をしてしまうのは、 鳥や 写真のような 特定の要素に関してだけに限られるはずはなく、 日常の あらゆる全てで、 物理的には リアル世界にありながら、 リアル世界の実際とは違う妄想世界が 見えて、聞こえて 暮らしているもの。
そして、 年齢とは無関係に ずっと幼児然とした理解と言動のまま、 いわゆる健常者での成長とは むしろ 逆方向、 周囲への迷惑が 更に一層 拡大し続ける一途に進行する成長をしてしまう。
言動として『やっていること自体』は同じで、 実際の幼児であれば、 すぐに常識をわきまえた 普通の“人”に成長していく過程での 今だけの一時しかない 可愛らしい情景として 好意的に微笑ましく見られる振る舞いでも、 それが“知的面での特性”で、となると、 周囲は そこに隣接する状況になるだけでも 社会的なマナーやモラルにおいて 著しく神経質にならざるを得ない。
そして、 それが、 幼児や 認知症での事象とは 全く比較にならない 遥かに長期間の 何十年も ずっと続く。
(前記の繰り返しにもなるが)
そういう面々が、 いつでも例外なく 過去の実際の現実を憶えていない(実際とは違うことを言い張る)からといって、 記憶すること自体ができないのではなく、 現実とは違う妄想を 現実として理解した記憶を積み上げているもの。
また、 言動や その基になる 物事の見え方に 幼児との類似性が多く、 あるいは、 知能が幼児程度と表すことが 当てはまる部分が多くあるからといって、 幼児のように 幼児程度の知能での理解力ならあるのとは 事情が根本的に違う。
そのため、 外的に表れている言動の 断片的な要素だけしか見えていない “知的面での特性”への理解を欠いた 軽率なご親切で、 幼児も含めた“人”への接し方としてなら真っ当な 「事実を正しく述べて 丁寧に諭す」ようなことをするのは、 無駄・・・ なだけでは済まず、 より一層の 支離滅裂な理解で ご自身を祀り上げた お幸せな妄想 あるいは あべこべな被害妄想を拡げて、 より一層の 使命感や 正義感での 迷惑な言動に駆り立てさせることの助長になる。
これは、 直接的に 迷惑なことをするのは 自身ではなくても、 その親切のつもりこそが、 周囲の人であり 世の中でありへの 無責任な迷惑行為にもなる。
だから、 周囲の いわゆる健常者の殆どは、 そういう面々の言動で 多くの迷惑を被っていてもなお、 社会的通念として 周囲の方が 犠牲を強いられてまでの 配慮した対応を求められざるを得ない対象だと わかっているからこそ、 福祉的観点からの対応をしているのもの。
だからこそ、 “世の中の優しさ”に浸かって暮らしている お幸せな面々は、 ずっと お恥ずかしい言動を晒せば晒すほど ますますご満悦で...の 無限ループで、 お恥ずかしい言動を晒し続けることが お幸せでいられて、 お幸せにお恥ずかしい言動を晒し続けることに なるのだが。
鳥関連に戻って・・・
経験として、 カワセミ等の 他のどんな鳥でも同じだが、 各地で盛況な、 ありがたがられる鳥をお目当てにした撮影会で 賑やかに語り合われている 華々しい盛大な文言で飾り付けられたご自慢とご解説の内容が、 そもそも 実在しない...というか、 殆どが 多重に矛盾して実在しようがない、 幻想世界に暮らしている面々の お幸せな妄想噺でしかないことに、 例外があるとは思えない。
いわゆる健常者なら、 いわゆる(知的面での)健常者には あり得るはずがない言動をしている対象が、 いわゆる健常者では あり得ないことは、 当たり前に わかること。
妄想世界に暮らしている面々に 社交上の配慮として 形式的には その言動に沿っているかのような応接をしてあげるからといって、 そのお噺を 真に受けているのとは、 全く違うこと。
妄想世界に暮らしている面々の言動 あるいは 存在自体を そっとスルーして 話題に挙げることがないからといって、 その実際がわかっていないのとは、 全く違うこと。
お幸せな幻想世界に暮らしている面々同士だけで 得意満面に語り合われているお噺が 何の実態もないことにすら気付けずに 真に受けて 復唱し合い、 その集いでの設定に沿った評価で 称え合っていられるのでは、 それらとは別の “鳥の写真を撮っている人”とは あらゆる物事が 根本から全く違う世界が 見えて、聞こえている存在だからだろう。