生まれていたとする大胆な着想をベースに展開する同名の
小説を映画化した“ダビンチ・コード”が話題
となっていたのは何年前のことだろう
原作者のダン・ブラウンは、有名なレオナルド・ダビンチの
『最後の晩餐』のなかで女性的に描かれたヨハネ
とされる人物をマグダラのマリアだとして、そのマリアが子を
宿し、その子孫が現存しているという衝撃的な内容の虚構
(フィクション)を作り出しました。
そんなミステリーに人々の耳目が集まっていた2006年に
米国の科学教育団体(ナショナル・ジオグラフィック協会)が
1970年代にエジプトで発見されたパピルス紙の束に関する
修復鑑定作業および解析の結果について、初期キリスト教
の幻の外典 とされていた『ユダの福音書』
のコプト語(古代エジプト語に由来する言語)による写本の
断片であると判明した、と同年4月6日、同協会のワシントン
本部で発表したのです。
初期キリスト教父であるエイレナイオス(ラテン語
ではイレナエウス) の『異端反駁』 (AD180年頃)で、
『ユダの福音書』 は、グノーシス主義の異端の書
として言及がされていたもので、すでに当時からその存在
が示唆されていた書物です。
それによれば、イエスを処刑に導いた「裏切り者」と
して名高いイスカリオテのユダが、実はイエスの
弟子のなかの誰よりも真理を授かっていて、「裏切り」
自体もイエス自身がユダに命じたものであるとしています。
言い換えれば、
ユダは「裏切り者」どころか英雄であって、イエスを
最もよく理解していた使徒であり、預言を成就させる手段
としてイエスに頼まれて処刑のための引導を渡したという
ストーリーなのです
もし、この古代文書が本物で、この記述が真実であったと
すると単に歴史が書き換わるだけではなく、聖書の記述に
誤謬(ごびゅう)があったことになるわけで、キリスト教という
宗教そのものを根底から揺るがし、信頼性を傷つけ、教義
への信憑性を失わせる重大なる瑕疵となるわけです。
何にしろ、ユダの「裏切り」には謎が多すぎます。
福音書(正典)の中で描かれるイエスの側近の不信心は
イエスの処刑を前に、弟子たちの離反やペテロの否認など
信じがたい逸話に溢れていますが、ユダの「裏切り」に
勝る不可解はありません
とにかく最後の晩餐から磔刑に処され遺体が安置される
までの過程で疑問に思うことは多々ありますが要点だけを
箇条書きにすると …
最後の晩餐の席順からユダの序列はNo.2か、それに
次ぐ高い地位にあったと推察される
ユダの心にいつ背信の気持ちが芽生えたのか
裏切りの動機は、彼の自由意志だったのかどうか
イエスは裏切りを知っていたのに回避する具体的な
行動をとらなかったのはなぜか
ゲッセマネの園で最後の祈りを捧げる際に使徒たち
に目を覚ましているよう命じておいたのに皆、眠って
しまったのはどうしてなのか
処刑当日の十二使徒たちの行動がほとんど聖書に
書かれていないのはなぜか
その一方で裁判から磔刑に至るプロセスでイエスに
手を差しのべる使徒以外の人々の登場は何か
不可解で不思議な光景ばかりです
『マタイによる福音書』ではユダは金目当てでユダヤ教の
祭司長たちにイエスの引渡しを持ちかけ、銀貨30枚を得た
とされ、『ヨハネによる福音書』では高価な香油をイエスの
足に塗ったマリアを非難したことに続けて、彼が使徒たちの
会計を任されながら不正を行なっていたと記されています。
まるで、「ここに裏切りの動機があるぞ」 と言わんばかり
の描かれようですが、銀貨30枚にどれほどの価値がある
のかわかりませんが、自分の師を裏切るのに十分な金額
であるとは思えません
最後の晩餐のシーンではイエスから「裏切り」が
予告され、「パンを浸して与えるのがその人だ」として浸した
パン切れをイエスから手渡されます。
この時、サタンが彼の中に入り、イエスは 「為すべきこと
を今すぐしなさい」 と彼に言います。(ヨハネによる福音書)
イエスは起こるべきことをすべて知っていて、むしろ自ら
進んでユダに指図をしているかのようです
そのくせ、
『マルコによる福音書』では 「生まれなかった方が、その
者のためによかった」 とまでイエスに言われるのです。
これでは、
身も蓋も、糞も味噌もないこき下ろされようです
ユダは祭司長たちと群集をイエスのもとに連れてきて、
イエスに接吻することで捕縛すべき人を示すわけですが、
この演出がまた、こころ憎いのです
イタリアのマフィアが裏切り者を処刑する時のセレモニー
として定着したこの儀式は「ユダの接吻」を真似た
もので、映画『ゴッドファーザーPARTⅡ』でも
その描写に心が震えたものです。
その後、『マタイによる福音書』では自らの行いを悔いた
ユダは銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺します。
『使途言行録』によると、ユダは裏切りで得た金で買った
土地(畑)に真っ逆さまに落ち、体が裂けて内臓がすべて
飛び出して死んだことになっています。
ただし、
土地が買えたとなると、銀貨30枚はそこそこの金額だった
のかもしれませんが、それにしてもメシア(救世主)であると
信じたはずの己が師を「裏切る」に足るだけの価値を
そこに見い出すことなど到底できません
こうして、イスカリオテのユダはキリスト教世界において
は“悪の権化”として忌み嫌われているわけですが、
確かに、表面上はそうであっても、ユダの「裏切り」に
ついては、昔から議論が絶えなかったのです。
というのも、多少なりとも目端が利けば、聖書にある記述
の不自然さに首を傾げ、疑問を抱くのが普通の人の感覚
だと思われるからです。
おそらくそれは、新約聖書が編纂されて間もない頃から
の大いなる疑問だったのではないでしょうか
何故なら、聖書ではユダが「裏切り」に至る動機や
理由については何も語っていないからです。
もちろん、
“金で売った”という シナリオ ですが、それは
「マルコ」や「マタイ」からの伝承で、「ルカ」や「ヨハネ」では
“悪魔の仕業”とされています。
しかしユダはすぐに後悔して金を返したあとで首を吊った
ので、“金目当て”とするには少々無理がありますし、
“悪魔の所為”にするとなると … 動機も理由も
あったもんじゃありません
そもそも「為すべきことを今すぐしなさい」
と催促するイエスには「ユダに裏切らせる」という
目的 があったとしか思えませんし、ユダの「裏切り」
がなければ、イエスが磔になることもなく、“十字架”も
“ロンギヌスの槍” も “トリノの聖骸布” も
“復活” もなくなって、イエスはキリストにもなれずに
“神の子”としての神性も消し飛んでしまうのです。
ですからイエスとしては、たとえ何がどうであったとしても
人間の罪を背負っての贖罪としての「非業の死」
を人々の目に見えるかたちで完璧に成就させなくては
ならなかったのです。
メシアはアブラハムの子孫(創世記13章15節~16節)で、
ダビデの家系の中から(サムエル記第二7章12節~14節)、
処女を通して(イザヤ書7章4節)、ベツレヘムで生まれる
(ミカ書5章2節)と預言されていました。
ここまでは必要条件を十分クリアしています。
残る最終章はユダの「裏切り」に始まり、裁判を経て
、磔の刑に処される過程の一切を クライマックス と
なるキリストの「復活劇」に向けて、いかに印象的かつ
効果的に演じるかにかかっていました。
(詩篇22章16節~18節)、(イザヤ書53章2節~11節)
要するに、
旧約聖書に記された「メシアの到来」の預言を
そのままに、すべてが完全に成就するように準備
されていたのです。
だからこそ、
弟子たちに手配させたロバに乗り(ゼカリヤ書9章9節)、
わざわざ東門からエルサレムに入ったこと(エゼキエル書
44章1節~2節)も … ユダが銀貨30枚でイエスを売り渡す
こと(ゼカリヤ書11章12節)も … 後悔して神殿に投げ返す
こと(ゼカリヤ書11章13節)も …
すべてが「神」(イエス)の計画であり、その通りに
万事抜かりなく推移したわけです。
そして、
「主よ、なぜあなたはわたしを見捨てられたのですか」
(詩篇22章1節)がイエスの最期のセリフとなるのです。
あとは、3日後の「復活」(詩篇16章10節)をもって
完全無欠のメシアの誕生物語は完結を迎えます。
つまり、ユダのそれは、
主イエスのイエスによるイエスのための「裏切り」で
あり、同時にユダのユダによるユダのための「裏切り」
でもあったのです。
結論を急げば、ユダの「裏切り」が計画されたプロット
であったとすれば成功によって、ユダにはそれなりの論功
行賞が約束されていたはずです。
…にもかかわらず彼が最高の背信行為である自殺
(首を吊って死ぬこと)を選択した理由が、これまでどうして
も解せなかったのですが、この疑問に明確に答えていると
思われるのが、異端の書とされる『ユダの福音書』
のなかに見つけることができるのです。
さて、
問題の『ユダの福音書』の冒頭には、「過ぎ越し
の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の
対話でイエスが語った秘密の啓示」と書かれています。
いかにも興味をそそられるキャプションです。
つまり、イエスとユダが最後の晩餐の前の1週間に極秘
の話し合いを持ったということですから、否応なく惹きつけ
られるわけです。
イエスは神に祈りを捧げる弟子たちを見て笑います。
この神とは、天と地を創造した旧約聖書の神で、イエスは
「真の姿を理解せよ」 と弟子たちに迫りますが、
弟子たちは目を向けようとはしません。
そんななかでユダひとりだけがイエスの前に立ち、イエス
の来たところ、つまり神の国を言い当てるわけです。
そこでイエスは
ユダに「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、私から
物質である肉体を取り除くことによって、内なる真の自己、
つまり神の本質を開放する」というのです。
要するに「裏切り」をユダに要請しているわけです
裏を返せばイエスがユダに格別の信頼を置いていること
が窺える内容で、「他の者たちから離れなさい。そうすれば
お前に神の王国の神秘を語って聞かせよう」
ただし、
「その王国に至ることは可能だが、お前は大いに
悲しむことになるだろう」 とユダの耳もとで囁きます。
そのうえで、イエスはユダに、
「お前は皆に非難され死を選び、弟子の地位を他の者に
明け渡すことになるのだが、すべての弟子を超えた存在に
なるだろう」 と約束するわけです。
確かに、すべての弟子を超えた最大の「裏切り者」
となったユダからすれば、まさに“悪魔の囁き”以外
のなにものでもなかったのかもしれませんが …
「すべての弟子を超えた存在」などと持ち上げられれば、
ユダでなくとも「裏切り」に加担するのに抵抗できる者
がどれほどいるでしょうか
ユダが「裏切り」に至るまでのプロセスがそのままに
如実に垣間見られるような思いがします。
それにしても、
この記述通りであるとすれば、イエスの処刑当日の使途
たちの不可解な行動は辻褄が合います。
当初、彼らがイエスの意図を、理解できなかったのも無理
からぬことです。
いずれにしても、イエスの死は避けられないし、教祖の死
は教団の消滅や分裂を招きかねません。
処刑の当日に、彼らが姿を見せなかったことも、そうした
危機感が背景にあったのかもしれません。
こうして、正典ではどうにも納得できなかった先に挙げた
7つの疑問点が異端の書である『ユダの福音書』
によって、次々に氷解していったのです。
これに対して、
前述のエイレナイオス(2世紀末のリヨンの司教で
初期キリスト教父)は口を極めて『ユダの福音書』
を攻撃し、AD375年にはエピファニオス(サラミスの
司教で初期キリスト教父)もこの書を批判します。
とどのつまりが、
2世紀から5世紀にかけての初期キリスト教の時代に、
この禁断の書は多くの人たちに読まれていて、少なから
ざる影響を与えていたと言うことにほかなりませんが、
だからこそ、正統をもって任じる一派は激しくこれに反発
し、攻撃を繰り返して、結局は勝利を得たというわけです。
結果から言えば、イエスの死と復活を体験して、初めて
その死の意味を理解した使徒たちは揺るぎないイエスの
愛に深く帰依し、命がけで布教活動を開始します。
その後のキリスト教の隆盛については言をはさむ余地が
ありませんが、
それが、ユダというひとりの弟子の「裏切り」の結果
なのか、イエスの練りに練られた魂胆の結果なのか、
はたまた、イエスとひとりの弟子による計画だったのか、
あるいは、イエスを教祖とするカルト教団の共同謀議
の結果なのか、今となっては誰も知ることができません。
ただひとつだけ確かなことは、
「男の風上に置けないヤツ」とは、卑怯者で
恩をアダで返すようなヤツを指して言いますが、少なくとも
イスカリオテのユダには相応しくありません
言うなれば、
彼は「男の風上にも風下にも置けない」
特殊なヤツで、神に対するサタン = イエスに対するユダと
いう立ち位置にあるだけでなく、神とイエス = イエスとユダ
との関係のなかで、神とサタンとイエスとの関連が生まれ、
それがそのままイエスとサタンとユダとの関連性のなかで、
特別な相互関係を形成するアモルファスな存在なのです。
先に 印と下線で示したイエスがユダの耳もとで囁いた
「王国に至れるが大いに悲しむ」
とはそのあたりの事情を告げているのです。
それこそが秘密の教義、所謂(いわゆる)秘義であり、
『ユダの福音書』が異端の書で
あるとされる最も大きな理由なのです
なにせ、サタンによる
『悪魔のための福音書』
・・・ なのかもしれないのですから
※ 尚、本文中の聖書の引用文は紙幅の関係で割愛し、
出典先の聖書の章と節にとどめましたのであしからず
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