透明人間たちのひとりごと

風上にも風下にも置けぬ

 8月31日、富士市のロゼシアターを皮切りに浜松、静岡と
10年ぶりに県内3公演(静岡新聞社・静岡放送ほか主催)
が予定されている劇団四季ロック・ミュージカル
「ジーザス・クライスト=スーパースター」
は1973年に歌舞伎のメークや和楽器の演奏を取り入れた
「ジャポネスク・バージョン」で始まった劇団四季の
ミュージカルの原点です。

 今回の「エルサレム・バージョン」では、土ぼこり
が舞う砂漠を舞台にしたリアルな描写が特徴的で、神格化
される運命をひとりの人間として悩むジーザス(イエス)
の姿を激しいロックの旋律に乗せて綴るわけです。

 “影の主役”となるのが、ジーザスが起こす数々の奇跡に
驚き、待ち焦がれていた「神の子」の到来に歓喜しながらも
権力の思惑からジーザスを十字架へと追い込んでしまう
ユダヤの群衆たちと苦しみのなかでジーザスを裏切ること
になる使徒ユダの存在です。

 奇跡を目の当たりにしながらも、権力者たちに誘導されて
ジーザスの処刑を求める群衆とジーザスに献身的な
捧ぐがために苦悩の果てに悲劇的な最後を遂げるユダ

 8月末にスタートして、12月までに全国で53都市68公演の
演出を手掛ける浅利慶太氏ですが、

 ジーザスを死なせたくない焦燥塊根慟哭

 そして、無念失意の末に死を選んだであろうユダの
生きざまをどのように描くのか興味の尽きない演目です。

 ところで、

 「男の風上に置けないヤツ」とは、卑怯者で
恩をアダで返すようなヤツを指して言う言葉だけど、それは
ユダには相応しくないとして、言うなれば

 「男の風上にも風下にも置けない」ような
特別なヤツが“イスカリオテのユダ”だと2号さんは
『裏切り者ユダの福音書』 に書いていますが、

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/378.html(参照)

 そのあたりの真意はともかくとして、

 この「風上にも置けない」という慣用句には
以前から疑問を持っていたのです

 奇しくも2号さんが追加したように

 「風下にも置けない」とするのならば、天上天下、
上意下達、上座下座、上位下位 … と、上から目線で下に
対して見下すような言い回しだとしても、たとえば、自分の
風下にさえ立っていて欲しくないような卑劣で見下げ果て
ヤツに対して使用する場合の言葉としても、なんとなく
頷(うなず)けるのですが …

 どうして 「風上にも置けない」 になるのだろうと
思って調べてみると …

 symbol2 【風上に置けない】

 《風上に悪臭を発するものがあれば風下では臭くて困る
ところから》性質や行動の卑劣な者をののしっていう言葉。
              (デジタル大辞林 & goo辞典)

 なるほど、風上で臭い屁を放つヤツだとか、川上で小便を
垂れるような何をするかわからないヤツだからこそ、自分に
とっての風上や川上には置きたくないわけか …

 そう言われたらそんな気もするし、鼻つまみ者の面汚しを
指して、そう表現するのもありかも … などと思わないわけ
ではないのですが、

 それなら 「風上に置けない」に限定するべきで、
 
 「風上 にも 置けない」 の“にも”だとすると
「風上」 以外にも置くべきところがあって、そこに置いて
もいいのだけれど、他に置ける場所がないかと探してみた
結果、結局は 「風上」 にも置くに置けない状態であると
いうニュアンスに聞こえてしまいますase2

 でも、それが臭くてたまらないものであれば、まずそれを
風下に置くのが普通でしょう

 風下に置いても臭ってくるくらいに卑劣極まりのないヤツ
だからこそ、風上どころか風下にも置けない。

 つまり、風上に置けないのならば、まだ風下に置けるだけ
マシで、「風下にさえも置けない」 という悲惨な
状態なわけです。

 そう考えると、「風上に置けない」 という言葉より
「風下にも置けない」 という表現方法のほうが
愚劣極まりない人間の置きどころのない状況 がより深く
伝わるような気がしますpeace

 だとすると、2号さんのユダに対する

 「風上にも風下にも置けない」という表現は
イエスを十字架に送ったユダに対する使途や弟子たちの

 「ヤツは裏切り者で『風上に置けない』ばかりか
、残酷で卑劣で何をしでかすかわかったもんじゃないから、
『風下ですら置くに置けない』ましてや身近に
置くなど言語道断だ」 みたいな怒りと蔑みですね 

 要するに、「村八分」じゃない「村十分」の完全否定です

 それが故に、

 以来、二千年の間 「裏切り者の代名詞」 として
その王座君臨してきたわけですが、王座に君臨すると
いえば、ユダのことを指して「裏切り者の王者」
とか「裏切り者の王様」とは表現しませんよね。

 たとえば、

 ダイヤモンドなら「宝石の代名詞」であり「宝石の王様」と
言っても特に違和感はありませんし、力道山が「プロレスの
代名詞」で「プロレスの王者」だと聞かされても誰も文句を
つけないでしょう。

 ペレが「サッカーの代名詞」で「サッカーの王様」であって
も多分それは同じです。

 力道山やペレが、それぞれのスポーツの「代名詞」であり
「王者」や「王様」であっても、違和感をさほど感じないのは
、「代名詞」や「王者」や「王様」には、その種類や世界での
第一人者No.1であるといった意味合いや要素が
含まれているからです。

 でも、

 さくら、蝉、もみじ、雪と言ったら、それぞれに春夏秋冬の
「代名詞」になりますが、「王者」・「王様」ではありません。

 より正確に言えば、自然界の事象面や事柄に関しては
「代名詞」とするよりも「風物詩」の方が似合いますが …

 同様に、ピカソ、ベートーベン、アインシュタインと並べた
ら、それぞれに芸術家、音楽家、科学者としての第一人者
ですが、「代名詞」にも「王様」にもなり得ません。

 単純には優劣がつけられない分野での天才たちであり、
他にも優れた仲間やライバルが大勢いるからです。

 それでは、「〇〇は△△の代名詞」という場合のパターン
と「〇〇は△△の王様」との違いはなんでしょうか

 先に

 「代名詞」であり、同時に「王者」「王様」
成り立つには、そのなかでNo.1である必要があると言い
ましたが、No.1の意味合いがそれぞれ少し違うのです。

 「代名詞」は、「最もよく知られた知名度」でのNo.1
であるのに対して、「王者」「王様」は、「何らかの
点で最も優れたもの、あるいは善悪は別にして、最も突出
したもの」という意味でのNo.1なのです。

 ですから、「裏切り者」 として悪名を馳せたユダは、

 「裏切り者の代名詞」であっても「王様」とは
呼ばれないわけです。

 「裏切り者」は、どこまでいっても「裏切り者」
しかなく、そこに優劣をはかっても意味がないということ
でもあるのですが … ase2

 例外として 「裏切り者の代名詞」にして「王者」
であり、かつ「王様」たる人物というか人格的な存在
ひとつだけ挙げるとすれば、悪魔(サタン)dokuro
置いて他にないでしょうase2

 これこそが、

 「風上にも風下にも置きたくない」

 ものの筆頭だと思われます

 さてさて

 またしても、2号さんの アイデアヒント にして
次々蛇足を書き足してしまいましたase2

 一言すれば、「裏切り者」ですね

 2号さんにとって、

 「風上にも風下にも どこにも置きたくない」
 のはひょっとしてサタンdokuroなどではなく、
 獅子身中の虫であるボクなのかもしれませんase2

コメント一覧

バカボンのパパのパパ
2号さんが5号さんを風下に置いたところで問題は起こらない(臭いの影響はない)のだ!
だから風下は無視してもいいのだ!
問題は風上にあって「風上に置けない」が正しいのだ!
2号さんは5号さんをダシにして、5号さんは2号さん利用する。
だから、本当はどっちもどっちなのだ!
餃子ライス
「風上に置けない」ましてや「風下にさえも置けない」
けだし、名言であり、まったく同感です。
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