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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 失楽園

 常日頃から『旧約聖書』の神を狭量の持ち主である
と感じていたダ・ヴィンチは、特に「失楽園」に至る
経緯に大いなる疑問を抱いていたのです。

 いわゆる、原罪を負うシーンですね。

 蛇の誘惑は確かに狡猾ですし、その結果として蛇は
嘘をついてしまうことになるわけですが、そもそも蛇
には嘘を言う必要などなかったのです。

  
     『原罪アダムとエヴァ』 部分

 アダムとエヴァが神に従わなかったという事実だけ
が欲しかったのです。

 神へのささやかな抵抗や反抗の軌跡を神に見せつけ
たかっただけなのです。

「わたしがあなたたちを土の塵から造ってあげたのに
決して食べてはいけないと命じておいた善悪を知る木
の実を食べてしまうとは ・・・(何と嘆かわしい)」

 そう神に言わせてみたかったのです。

 神に一泡吹かせてやりたかっただけのことが、楽園
から追放されて「死を賜る」という大袈裟な原罪事件
へと発展してしまったのは、蛇としても予想外の展開
であったとダ・ヴィンチは感じ取っていたのです。


    失楽園 ameblo.jp        アダムとエヴァ?

 本当の意味で

 神はアダムとエヴァを愛していたのでしょうか? 

 そこに、

 「利己心」や「支配欲」は、なかったでしょうか?

 ダ・ヴィンチには「愛」ある存在の物言いや振る舞い
だったとは、到底のことに思えませんでした。

 「愛」とは、見守り育てるもので、見返りを求めない
もののはずです!

 親は子を愛しています。子を愛する親は子にいろいろ
な制限を課すことがあります。

 たしかに、

 親は子の個性を伸ばす事と同時に、事故を避け、病気
を防ぐためにさまざまな制約を設けることはあります。

 横断歩道を渡る時には、左右をよく確認してから渡り
始めるように諭すことも、そうした制約のひとつです。


 手を上げて横断歩道を渡る子供 www.irasutoya.com

 「横断歩道があろうとなかろうとも、あなたを愛して
いるから道路はどうとでも好き勝手に渡りなさい」など
と言う親が果たしているでしょうか?

 最低限の常識をわきまえた大人(オトナ)として成長
できるように、してはいけないこと、なすべきことなど
を教えようとするでしょう。

 エデンの園にある2本の木を示し、それを禁ずるとは
まさに漢字の「禁」の字ですが、神が「善悪を知る木」
と「命の木」を置いたのは、そうした制限が目的であり、
いずれ彼らに与える予定であったとする意見もあります
が、ダ・ヴィンチには納得がいきません。

 しばしば人間は、愛と支配を混同させます。 利己的
な傾向に走った結果が支配につながるのです。

 それが、現在、

 言われるところの〝ネグレクト〟に匹敵(相当)する
怠慢なのでしょう。

 さて、ここで考えなくてはなりません。


     考える男のシルエット frontier-eyes.online 

 神が人間に制限を課すのは「利己心」からでしょうか?

 「利己心」は被造物が持つかもしれない心の状態です。

 より高い地位を渇望したり、より多くの所有物を所望
し、熱望することから生ずる欲望です。

 しかしながら、

 神は全能者であり、創造主である神は、 初めから最高
の地位にあり、 誰かから与えられないとやっていけない
ということもありません。

 変色したり腐敗する要素がまったくない存在です。

 ならば、

 神に 「利己心」など、あろうはずもないことは    
明明白白にもかかわらず、ダ・ヴィンチには神の狭量が
見えてしまうのです。

 人間を試したり、支配する「我欲」のようなドス黒い
汚いものがチラついて見えるのです。

     
       『旧約聖書』のエピソード www.newlifeministries.jp

 少なくとも、『旧約聖書』の神は実に嫉妬深く傲慢で    
怒りっぽく、しかも、怠惰であると感じます。

 平和と秩序は、人間の利益にならないでしょうか?

 現在の世界は、秩序立っていて平和な社会ですか?

 決して、そうとは言えないでしょう。

 善悪の区別が一定ではなく、いろいろな宗教や思想に
振り回されて、戦争や抗争や暴力を誘発しているのでは
ないでしょうか?

 それを、

 悪魔(ルシファー&サタンなど)の所為にして、体裁     
よく纏め上げたのが『聖書』であると、ダ・ヴィンチは
考えていたのかもしれません。

 しかし、いささか逆説的に聞こえるかもしれませんが、
だからこそ「そんな世界に必要なものが『聖書』であり、    
『神』なのです」と彼らは切り返してくるでしょう。

 彼らとはクリスチャンたちです。

 「人類および宇宙に存在する理知ある被造物のすべて
は神を中心とする秩序を学ばなければなりません」

 「それが完全な平和と秩序にいたるのです」と ・・・

  神の要求は負いきれない類のものではありません。

 アダムとエヴァの物語で言えば、

 園にある豊富な果実の中からたった1本の木の実を
避けさえすればそれでよかっただけのことですから。

 要するに、

 責任ある者の愛は、相手の福祉(幸せ)を希求して
制限を課すことがあるのです。 

 したがって、

「愛ある制限は過酷ではない」という結論に到達し、
アダムとエヴァは謂れのある原罪を負ったのです。

 そして、イエスは、

  
   『イザヤ書』53章 5節 www.bible.com

 その原罪を贖うために十字架につけられたのです。

 以上、『ダ・ヴィンチの罠 利己心』より、適宜に引用
いたしました。

コメント一覧

小吉
昨晩坐禅をしながらアダムとエヴァが禁断の実を食べなかったらどうなっていたのだろうということについて考えていて、そのままであったのなら、楽園はずっと「そのまま」で、それは例えるなら「人間のいない地球」のようなものなのではないかと思いました。
人間だけが知恵を持ち、「知」を進化させてきた。そのため地球に対しての罪を犯すようになる。(環境破壊など)
じゃあ人間がいなければ良いのかと、「人間のいない地球」に思いを巡らせていたのですが、ただ植物と動物が生まれて死んでいろんなものが「循環」しているだけの星にいったいどんな「意味」があるのだろうと考えました。

物事の複雑さはあっても、それは分子と分子が結合したり離れたりするだけのこととあまり変わりがないように思いました。

では、人間が人間となった意味とはなんなのだろうかと、考えていくと「コメント欄」では収まらないのでここで終わりにします。
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