透明人間たちのひとりごと

極東国際軍事裁判 2

 q A級犯罪、B級犯罪、C級犯罪

   次の4つの中からA級犯罪を選んでください。

  窃盗罪  強盗傷害罪  殺人罪  わいせつ罪

 おそらくは、 の殺人罪を選択する人が大多数を占める
ことは疑いようもありません。

 それでは、

 A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯だとしたらどうでしょうか

  symbol2kirakira2 まさに、そこなのです

 戦争犯罪人の罪状区分をA項、B項、C項 と訳す
べきところをA級、B級、C級 と、あたかも罪の軽重
や責任の度合いをランク付けするが如きに誤訳 したことに
すべてが集約されているのです。

 諸々の元凶 が、ここにあると言っても過言 ではない
ほどの誤りであり、それはまるで日本の未来と現在の苦悩
を予言するような悲しい誤訳誤審 があったのです。

 DEATH BY HANGING絞首刑

 まさに死刑に相当する罪を犯したと換言できる誤りです。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)1 の続編
を連続でエントリーできるように5号が順番を譲ってくれた
ので、次回 2号の輪番時にお返ししようと思いますが …

 『極東国際軍事裁判2』 では東京裁判の法廷
のシーンから独断と偏見を交えて見て行くことにしましょう。

 すべての法廷闘争が終わり裁判長が被告に刑の宣告を
する最終法廷(宣告)シーンが舞台です。

 被告荒木大将の登場にはじまり、東条大将が暗いドアに
姿を消し、さらに 3人の欠席被告の刑が言い渡されるまで
の時間は、わずかに17分間の出来事でした。

 ウェッブ裁判長が朗読を急いだとはいえ、2年半にわたる
大裁判のフィナーレとしては、あっけなさすぎる結末です。

 死刑の宣告があることは予想されていましたが、それは
せいぜい2~3人にとどまり、無罪の判決も多数あるものと
見込まれていました。

 ニュルンベルク裁判では、22人の被告のうち、死刑12人
、終身刑 3人、有期刑 4人、無罪 3人 という結果でしたが、
東京裁判はニュルンベルク裁判と違い「平和に対する罪
・「人道に対する罪」など起訴内容の大部分が立証不十分
とみなされ、当然、判決は 「ニュルンベルク以下」 だろうと
期待されていたのですが …

 全員が有罪

 しかも、量刑は死刑 7人、終身刑16人、有期刑 2人 と、
まさかの「ニュルンベルク以上」の結果でした。

 ウェッブ裁判長の宣告する判決は、日本全国にラジオで
中継放送され、「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」、そして
インプリズンメント・フォア・ライフ(終身刑)」 と … 生と死
を交錯させる裁判長の淡々とした声が電波に乗って、家庭
で、職場で、街頭で、耳を傾ける国民に伝えられました。

 多くの国民の反応は、感慨無量とは程遠い複雑な戸惑い
のなかで静かな低頭と沈黙だけがその場を支配し、法廷の
動揺もまた、同質の重い黙思を底流にした空気に包まれて
いたのです。

 「なんという馬鹿げた判決か  重松は平和主義者だ。
無罪が当然だし、松井、広田が死刑とは考えられない」

 常識的にはそうだったのでしょう …

 1946(昭和21)年1月19日、連合国軍最高司令官ダグラス
・マッカサーは、極東国際軍事裁判設立に関する特別宣言
を発し、極東国際軍事裁判が開かれることになります。

 連合国は第二次世界大戦後、ドイツのニュルンベルクで
ナチス・ドイツの戦争指導者を国際軍事裁判で裁いており
、東京裁判はこれに対応する内容のものですが、裁判官
には、マッカーサーが布告した極東国際軍事裁判所憲章
に基づいて、オーストラリアのウィリアム・ウェッブ裁判長を
はじめとする11名が任命され、戦争犯罪人の被疑事実を
調査し訴追する主任検察官には米国のジョセフ・キーナン
が任じられました。

 同年4月29日(昭和天皇誕生日)に11カ国の連合国は、
開戦時の首相だった東条英機ら28人を重大戦争犯罪人、
所謂(いわゆる)A級戦犯として起訴します。

 5月3日から東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校の大講堂に
つくられた法廷で裁判が始まり、1948(昭和23)年4月16日
の審理終了までに実人数419人(延べ1000人以上)の証人
が証言台に立ち、4336通の書証が受理されています。

 そして 11月4日から判決文の朗読が行なわれ、同月12日
に被告人に刑が言い渡されたのです。

 その内容は、前述したように 28人全員が有罪、うち7人が
死刑、16人が終身禁固刑、2人が有期禁固刑というもので、
裁判中に病死した者が2人、不起訴処分が1人でした。

 この東京裁判は、ニュルンベルク裁判とともに侵略戦争を
引き起こし遂行した指導者として個人が罰せられた世界で
最初の事例であり、国際法上においても重要な意味を持つ
裁判ですが、その公正性については開廷当初から疑問視
する声があったことは、『極東国際軍事裁判1』

exclamation http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/349.html(参照)

でも触れていますが、詳しく検証してみたいと思います

 少し長くなる予感がしますので、紅茶や珈琲でも啜(すす)
りながら、ゆっくりと読み進めてみてください


 1 東京裁判とニュルンベルク裁判の違い

 ニュルンベルク裁判では、米、英、仏、ソ の4カ国が対等
の立場で裁判所憲章を制定して裁判の運営にかかわった
のに対し、東京裁判は裁判所憲章の公布、裁判長・判事・
検事の任命など、裁判の根幹をなす重要な決定がすべて
連合国軍最高司令官マッカーサー個人の判断に委ねられ
ていたのです。 

 さらに、容疑者の逮捕から被告人の選定までもが米国の
主導で進められ、国際検事団主席検事に任命された前出
のジョセフ・キーナンと米国検事団が到着すると被告選定
のための本格的調査が始まり、巣鴨プリズンに収監されて
いた容疑者への尋問をはじめ、日本の各階層各分野での
要人への喚問が、およそ5ヵ月間にわたって連日、延々と
繰り広げられたのでした。

 その結果が2号をして、勝者敗者峻別
これほどまでに見せつけられた事例は近世において皆無
と言っても差し支えないとまで言わしめたわけですが …

 日本はポツダム宣言を受諾して降伏した以上、ポツダム
宣言に定められた条件に従うのは当然ですが、それ以上
のものに服する義務も必要もないはずです。

 戦争犯罪については、ポツダム宣言第十条に明記される

  ★ 「我等の俘虜を虐待した者をふくむ戦争犯罪人

 すなわち、宣言を発表した当時に知られている戦争犯罪
である戦争法規違反者だけが対象となるべきなのです。

 ところが、公布された「極東国際軍事裁判所憲章」には、

 A:平和に対する罪  
 B:通例の戦争犯罪
 C:人道に対する罪

 …の3項が重大な戦争犯罪として規定されており、
これらの罪を犯した者がそれぞれにA級B級C級
戦争犯罪人 に分類されて裁かれたわけですが、
これらは先行して行なわれたニュルンベルク裁判で制定
された「国際軍事裁判所憲章」を参考モデルとしたもので
ポツダム宣言の履行(一切の戦争犯罪人に対して厳重な
処罰を加える)を約束して開かれることになった東京裁判
では、B項以外はそぐわない罪状なのです。


 2 日本とドイツの降伏の仕方(条件)の違い

 ドイツはヒトラーが自殺し、首都ベルリンも陥落占領され、
ドイツ全土で戦った結果として無条件降伏をしたわけです
が、日本は本土での決戦を前にして、ポツダム宣言という
降伏勧告(条件)を受け入れて白旗を掲げたわけです。

 それもこれも連合国がポツダム宣言遵守する
というからです。

 その意味からも連合国はドイツの戦犯と日本の戦犯とは
同一視すべきではなく 「平和に対する罪」 および
「人道に対する罪」 などポツダム宣言後に創作
された戦争犯罪については、ドイツに適用できたとしても、
日本には適用できるはずのないものなのです。


 3 裁判官の適正と選定について

 問題点は、すべての裁判官が戦勝国側の人間によって
構成されていたことです。

 裁判の公正を期す意味からも中立国や日本からも選出
されなくてはならないものであり、せめて判決を下す判事
だけでも中立国から選ばれるべきだったでしょう

 国際法の世界的権威で、英国の内閣官房長官を務めた
ロバート・ハンキー卿の 「もし、自分たちが戦争に負けて
いたとしたら、日・独・伊の3国だけによる裁判に納得した
だろうか」という旨の発言の他にも、東京裁判の開廷日に
米国のベン・ブルース・ブレイクニー弁護人からも動議が
発せられました。

 初日の陳述で 「連合国の判事が職業に対して いかに
誠実であろうと、公平ではありえない。 どうして被告人は
中立国判事による裁判を受けられないのか」 と発言した
のですが、この正論はあっけなく却下されてしまいます。

 『東京裁判 ― もう一つのニュルンベルク』の著者である
アーノルド・C・ブラックマン氏(UP特派員として東京裁判
を取材)によれば、ブレイクニーの動議に対してキーナンは
「『複数の中立国ないし中立な人々が来日して、侵略戦争
の責任を裁判する』ためには、人類が火星に着陸するまで
待たなければならないだろう」 と延べて、法廷内の笑いを
誘うにとどまったとしています。

 また、裁判官の適正や選定については下記のように数々
の問題が指摘される人選になっていました。

 ① 米国のヒギンズ判事 right 所属のマサチューセッツ州
   上位裁判所は、地域限定の管轄権しかなく、等級も
   中間にすぎないことから、キーナンは任命に異議を
   唱えていましたase2

 ② カナダのマクドゥガル判事 right モントリオール裁判所
   での陪席判事の経験しかありませんでしたase2

 ③ ソ連のザリャーノフ判事 right 法廷での公用語である
   英語をまったく話せませんでした

 ④ 中国の梅汝敖判事 right そもそもが裁判官の資格を
   もっていませんでした

 
 そんなわけで、11人の裁判官のうち、国際法の学位を
もっていたのは、なんとインドのパル(パール)判事
ただひとりだったのです。

 さらに、法治国家の裁判では、過去、係争中の事件に
関係した者は裁判官の資格がないにもかかわらず …

 ⑤ フィリピンのハラニーヨ判事 right 偵察部隊の中佐として
   日本軍の捕虜になっていた人物でしたnose4ase2

 極めつけは、

 ⑥ 裁判長であるウェッブ判事 right ニューギニアにおける
   日本軍の不正行為に関する調査を行なった戦争犯罪
   委員だったのです

 弁護団はこうした裁判官の不適格性を指摘して、忌避の
申し立てを行なうのですが、それは議論されることなく却下
され、裁判は続けられたのでした。


 4 弁護人の選定と審議の公正性について

 被告人には弁護人を選任する権利が認められていました
が、裁判所はいつでも弁護人を否認することができるという
、被告にとって非常に不利な条件が課せられていました。

 ウエッブ裁判長は、弁護団が数多くの証拠を提出すること
によって「我々はすでに百トンの謄写用紙を費やし、多大な
インクを消費しました。 我々はまさに両方品切れとならんと
いう危機に瀕しております」との警告を発し、この後、裁判
に無価値であると判断された弁護側の証拠は 次々に却下
されるようになるのです。

 上智大学名誉教授の渡部昇一氏は 「検察側の提出した
証拠はどんどん取り上げるのに、弁護側の証拠はほとんど
却下されたのは、それらの資料に妥当性がなかったからで
はなく、弁護側が出した証拠だから却下されたのである」と
断じています。

 1948年11月21日、ブレイクニー弁護人は、マッカーサーに
提出した減刑嘆願の覚書のなかで、証拠採用の不公平さ
を問題にして、裁判所は検察側が提出した証拠については
二次的三次的な噂、伝聞の類、自称専門家の意見といった
ものまでも受理し、これらの証拠に基づいて事実の認定を
行なったが、弁護側の証拠には事実であることを証明する
根拠がないという理由で受理されなかったと訴えました。

 しかし、この覚書が反映されることはなかったのです

 また、裁判官の定足数を過半数の6名としていたために
5名の裁判官が欠席しても審議が続けられ、出席裁判官
の過半数の同意が得られれば、有罪の認定や量刑などの
決定が可能でした。 そして、これは、死刑判決にも適用
されたのです。

 近代国家の裁判所では死刑の宣告に関しては、裁判官
の全員一致が通例であり、この方針によって、広田弘毅は
6対5の1票差、東条英機ら6名は7対4の3票差で死刑が
宣告されたというわけです。

 つまり、全員一致で死刑とされた被告は、誰ひとりとして
いなかったのです。


 5 法的根拠のない連合国の政治的パフォーマンス

 1946年5月6日、被告の抗弁を求められた日本人弁護団
副団長・清瀬一郎は、前述した 34 の理由による異議を
申し立てます。

 「正義と公平との要求のために、ウェッブ卿がこの裁判を
なされることは適当ではない」として、裁判官忌避の動議を
起こしたのです。

 この発言に法廷は混乱し、ウェッブ裁判長は一時休廷を
宣言しますが、その後 裁判長席に着いたニュージーランド
のノースクロフト判事は「連合国軍司令官マッカーサー元帥
に任命された裁判官を忌避することはできない」 との強引
な根拠によって忌避動議を退けたわけです。

 これに続いて清瀬弁護人は 「平和に対する罪」
の事後法、所謂(いわゆる) 「法の不遡及」法律
を制定前の事実にさかのぼって適用しないという原則

について、さらには、もしそれを裁くのであればその権限は
どこにあるのかという 「法廷の管轄権」 の異議を
申し立てると、答えに窮した裁判長は閉廷を宣言し、他の
裁判官との4日間にもおよぶ法律論争を繰り広げました。

 5月17日にようやく再開された法廷で、ウェッブ裁判長は
法廷管轄権忌避動議を却下する。その理由は将来に
宣告する
」 として冒頭陳述を開始します。

 前出の渡部氏は、この発言について 「裁判長も管轄権
の所在を明確に答えようがなかったとして 「管轄権がない
裁判は裁判ではない」 と断言しています。

 「極東国際軍事裁判所条例は、決して国際法を規定した
ものでもなく、また戦争犯罪というものを規定したものでも
ない」という英国の政治家モーン卿の発言にあるように、

 清瀬弁護人による上記2件の異議申し立ては、いずれも
国際法によって却下されたものではなく、国際法に準拠して
裁くとした東京裁判は占領軍が実施した国際法に違反した
一種の軍事行動に過ぎず、本質的には連合国の政治ショー
(パフォーマンス)だったのです。

 最後になりますが、

 判事11人のなかで、唯一、被告人全員の無罪を主張した
判事がいました。

 symbol2kirakirakirakira2 インドのパル判事(パール判事)です

 パル判事は、東京滞在中に観光旅行や宴会に出ることも
なく、一人帝国ホテルの自室にこもり、裁判資料4万5000部
、参考書籍3000冊を読破したといいます。 その結果として
提出されたのが、英文で1275ページ、和訳文で1219ページ
にもおよぶ、東京裁判の違法性と起訴の非合理の強調を
貫く 「パル判決」 と呼ばれる意見書だったのです。

 「裁判所条例といえども国際法を越えることは許されない
…… 国際社会において、戦争は …… 法の圏外にある …
… 一国家が他国家の征服支配の準備をなすことは最悪の
犯罪である、ということは現在ではその通りであるかもしれ
ない。 しかし、第二次大戦前には …… 国際社会はまだ、
こういう汚点を犯罪とするほどの発展をとげていなかった」
として、検察側が論告する「犯罪」事実、検事、弁護側双方
の主張と証拠を克明に比較して日本が戦争に踏み切った
のは、自ままな侵略のためではなく、むしろ、「独断的な
現状維持
」政策をとる西洋諸国によって、挑発されたため
である、と弁護側の論調をほぼ全面的に支持したのです。

 日本の対米開戦についても、ハル・ノートのようなものを
受け取れば、日本のみならず 「モナコやルクセンブルクで
さえも、米国に対し戈(ほこ)をとって立ちあがっただろう」
といい、非戦闘員の生命と、財産の無差別破壊が違法と
いうなら、原子爆弾投下の決定こそ「第一次大戦における
ドイツ皇帝の指令、第二次大戦におけるナチス指導者の
指令に近似した唯一のものだ」 と述べたのでした。

 要するに

 「裁く者の手も汚れている」

 というのが、パル判事の見解であり、判事は全被告の
全起訴事実に対する無罪を勧告したのです。

 しかしながら、パル判事の意見書は法廷で発表される
ことなく、コピーが関係者に配布されただけでした。

 そして、1948年11月4日、全被告に対する判決文の朗読
が始まったのです。

 繰り返しになりますが、勝者敗者峻別は …

 「勝者の敗者への報復劇」

 DEATH BY HANGING!dokuro は、

 いまなお執行中なのかもしれませんよ


 ★ 児島 襄 著 『東京裁判』 (上)(下)
 ★ DeAGOSTINI 『歴史のミステリー』86
  “東京裁判”は公正だったのか?
      その他を参考に構成してみました。

コメント一覧

透明人間2号
東京裁判はまぎれもなく戦勝国の手による「報復裁判」です。
極東国際軍事裁判条例によってA級戦犯が起訴されたのが、本文中にもあるように昭和天皇の誕生日である4月29日です。

 そして、東条英機以下7名のA級戦犯が処刑された日が12月23日で、当時の皇太子、現在の今上天皇の誕生日です。

 天皇の誕生日に起訴し、皇太子の誕生日に処刑を断行する。
これが復讐を意図した裁判でないとしたら、いったい何なのでしょう?
ココナン
歴史は勝者によってつくられることは明白な事実です。
敗戦国は圧倒的に弱い立場にあって決定的に悪者扱いにされるのです。
勝った国や勝者の行為はすべてが善で、敗れた国や敗者の行為はすべて悪という論理がまかり通る。 
その顕著な例が「東京裁判」なのです。
餃子ライス
子供の頃、A級戦犯って永久戦犯だとばかり思ってたっけな!
半熟マン
もし、東京裁判的なものをモチーフにした映画があったら、パル判事にスポットを当てた演出で正義はどっちにあるのかを問う構成にするだろうな。
皮肉のアッコちゃん
久々の労作ですね!
読むのに疲れちゃったけど、知らない事ばかりで、勉強になりました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事