このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
そもそも、この時代に確率の概念があった
のかどうかさえ、不明であり疑問なのですが
□
レオナルド・ダ・ヴィンチは自らが仕掛けた
壮大な「罠」の構造が解き明かされる確率を
どの程度に踏んでいたのでしょうか?
□
「う~む ・・・」
というのも、
確率は、いまでは中高生が数学の授業で
習うもので、それほど難しい概念のものとは
思われず比較的簡単なように見えますが、
その理論が発明されたのは 17世紀のこと
で、当時は必要不可欠ならざる概念でした。
その原点は、
会計学の父と言わしめるルカ・パチョーリ
(1445-1517)の提示した「点数の問題」で、
□
□
レオナルド・ダ・ヴィンチは自らが仕掛けた
壮大な「罠」の構造が解き明かされる確率を
どの程度に踏んでいたのでしょうか?
□
「う~む ・・・」
というのも、
確率は、いまでは中高生が数学の授業で
習うもので、それほど難しい概念のものとは
思われず比較的簡単なように見えますが、
その理論が発明されたのは 17世紀のこと
で、当時は必要不可欠ならざる概念でした。
その原点は、
会計学の父と言わしめるルカ・パチョーリ
(1445-1517)の提示した「点数の問題」で、
□
ルカ・パチョーリの肖像画1495年 wikipedia
これが、確率論が発明されることになった
キッカケであり、「歴史的瞬間」でした。
「点数の問題」とは、目標点数を先に獲得
した人が掛け金を総取りする賭博ゲームの
途中で突然ゲームが中断されたら、掛け金
はどうなるのか?という問題です。
たとえば、
Aが5点、Bが3点とった段階で火事が起き、
ゲームが中断されて再開できなかった場合、
賭け金はどうやって分けるのか。
単純に考えれば、Aが勝っていたのだから
Aの総取りでいいということになるでしょう。
でも、パチョーリはそれでは不当であるとし、
途中の点数が5:3なら掛け金も5:3の比率で
分けなければならないと考えました。
ちなみに、ルカ・パチョーリは修道僧にして、
数学者であり、ダ・ヴィンチの友人でした。
これが15世紀における見解です。
しかし、その後の16世紀に活躍した数学者
のニコロ・タルタリア(1499年または1500年-
1557年)はこれに異を唱えました。
□
ニコロ・タルタリア Wikipedia
彼は、「点数の問題」は私たちが思っている
以上にずっと難問だと言ったそうです。
時が流れ、科学革命時代になった17世紀。
「フェルマーの最終定理」で有名な数学者
で物理学者のピエール・ド・フェルマーと、
□
ピエール・ド・フェルマー wikipedia
数学者で哲学者であるブレーズ・パスカル
が、手紙で「点数の問題」を議論しました。
□
ブレーズ・パスカル ja.wikipedia.org
そして、2カ月間にわたるこのやりとりで、
2人はそれを完全に解決しました。
詳細は、
「老人と子供の命、どちらが大切か」
答えの出ない難問に答えを出すのは
数学的思考である
完全自動運転のプログラムに不可欠
PRESIDENT Online /PRESIDENT BOOKS
数学者キム・ミニョン
https://president.jp/articles/-/51288?cx_testId=7&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=2#cxrecs_s
を参照してみてください。
さて、
レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画に遠近法
を積極的に取り入れていますが、彼は当時
の最新技術を習得するために、友人であり、
数学者でもあった修道僧のルカ・パチョーリ
のもとを何度も訪ねています。
レオナルド・ダ・ヴィンチがルカ・パチョーリ
から数学(幾何)を学び、これがのちの作品
(罠の構築と仕組み)に強い影響を及ぼした
ことは、ほぼ間違いなさそうです。
『最後の晩餐』に用いられた遠近法による
表現や『モナ・リザ』等のスフマート(ぼかし)
は、当時としては、極めて画期的な最先端
の技術だったのです。
「私の芸術を真に理解できるのは
数学者だけである」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
ところで、
繰り返し上演される仮想の「時空劇」は、
「アルファであり、オメガである」が
ゆえに 因果律が無視される事態に遭遇する
と突如としてバランス(結晶化状態)が崩れて
アモルファス化します。
アモルファス www.mech.kanagawa-u.ac.jp
それが、
『受胎告知』での聖母マリアの右手に
見られるアナモルフォーズだったり、
『受胎告知』アナモルフォーズ fc2.com
『東方三博士の礼拝』での混沌
とした量子論的な「無」の世界と多次元
時空(異空間)を意図した構図であったり
するわけですが、
同時に、それは、
『最後の晩餐』における人物配置の
先駆けとなる実験的な結晶化への布石で
あって、
『最後の晩餐』での最大の「謎」
のひとつであるナイフの真の持ち主
に直結するアナモルフォーズにして、
異空間から投影されたメタモルフォーゼ
する人物たちの射影でもあるのですが、
『最後の晩餐』ヨハネ 『岩窟の聖母』マリア
マグダラのマリア
それらは因果律の乱れと、仮説としての
四次元立方体図(小)
超次元立体パズルにおける透過面上の
変化や流動性、またはその過程における
透過投影体(射影)でもあるのです。
四次元立方体図 d.hatena.ne.jp2
この辺りのことが意味不明の方は、
『ダ・ヴィンチの罠 次元枠1』
を参照してみてください。
たとえば、それは、
4次元立方体の各面(半透明の膜状面)
に相当する作品内の人物たちの振舞いや
四次元立方体図 Wikipedia
「え、俺っ !!」
明らかに首の長さに食い違いをみせる
失われた『レダと白鳥』の模写やデッサン
(ラファエロ)の中に見ることが出来ます。
『モナリザ』と『レダと白鳥』の模写デッサン(ラファエロ)
『レダと白鳥』模写チェーザレ・ダ・セスト
やけに首の短い白鳥と異様に長い首をした
ダ・ヴィンチの弟子のチェーザレ・ダ・セストに
よる『レダと白鳥』の模写のイメージは、
ラファエロのデッサンとダ・セストの模写の加工
ダ・ヴィンチが自ら廃棄処分にしたとされる
『レダと白鳥』におけるダ・ヴィンチ
のメタファ(暗喩)的なモチーフの双方が
彼の目算通りにそれらの模写やデッサン画
に反映されているように見受けられます。
言わば、これらは、
漫画 『ONE PIECE』(ワンピース)
の主人公ルフィーのように、
伸縮するヨハネの右腕はナイフを握り、
その手をガシっと抑え込んでいるのが、
ペテロの右手の習作
ペテロの右手というトリックです
その後、舞台は『最後の晩餐』から
イエスの顕現におけるガリラヤでの
朝餉の場面へと移り変わり、
画像元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
使徒ヨハネの身体は移動してイエスの
左側に枝垂れかかるように寄り添い、
ググっと伸びた左腕がテーブルの淵に
そっと置かれることになります(黄丸印)。
さらに、
ガリラヤでの朝餉にトマスはいないので、
この場面ではトマスは消えて、
トマスのものとされる左手(赤丸印)は、
トマスの左手と思われる素描
ヨハネに投影されたマグダラのマリアの
左手に変わります。
すなわち、これが『最後の晩餐』であるのに
窓の外が明るい理由であり、
『最後の晩餐』における謎のナイフを持つ
右手の正体であり、
テーブル(食卓)の縁に、それとなくそっと、
否、いかにもわざとらしく添えられたトマス
の左手に仕掛けられた「罠」でもあるのです。
この点に関する補足ページとしては、
『ダ・ヴィンチの罠 匙加減』
が参考になるかもしれません
大ヤコブの左手とトマスの左手と思われる素描
それにしても、どうして、
これらの習作がこうも都合よくピンポイント
で残されているのか
ペテロの右腕の習作
また、ちょっとしたメモ書きや手稿の中にも
これは、と思われる記述が散見されます。
実に、不自然で奇妙だと思いませんか
トマスの左手とされる習作
当然の帰結として導かれるのは、
よくよく考えてみるまでもなく、伏線や布石の
ための作品であるだけでなく、この辺りに「罠」
を仕組んであるので「刮目せよ」とばかりに
POP 吹き出し 宝の地図 illust-box.jp
まるで宝探しの地図における目印や符合の
如く、あるいは所謂(いわゆる)水先案内用の
暗号としての習作なのかもしれませんね。
たとえば、
このケースにおいては他の誰の手であるとも
言えないようにペテロの右腕の習作を用意
して、メモ書きにはナイフを持つ人物の存在
を臭わせているのです。
しかも、
その習作にしても、決して、ハッキリとは
その肝心要となる手首から先を描かずにいる
わけですね
ペテロの右腕の習作
要は、追及の余地を残しているのです。
つまり、それが彼一流の「罠」における
「匙加減」(さじかげん)なのです。
ユダの右手の場合もそうですが、巾着を
絞った口らしき部分だけは描いてあっても肝心
の袋の部分はないのです。
ユダの右手の習作
たとえば、メモ書きにある
「振り向いているもう一人の者は、手に
ナイフを握り、テーブルの上のグラスを
ひっくり返している」
この文に該当する人物は見当たりませんが
ユダの手の中にナイフがあったと仮定
すればメモの内容とほぼ合致します。
相違点はひっくり返すものがグラスなのか、
塩壺なのか、の違いだけです。
さらに言えば、
この巾着を絞った袋の頭と思われる部分が
ナイフの柄頭を描いたものであったとしても、
何らの不都合も不思議も感じないわけです。
しかも、
これがまた憎い演出だと思えるのですが、
その袋にあたる部分にペテロの右腕を
思わせるようなかたちのラフ・スケッチを
そっと差し込んでいるわけです。(黒枠内)
さあ、このパズルを「解いてくれ」と
言わんばかりのサービスぶりですね
はてさて、
究極の「ネバー・エンディング・ストーリー」
(終わりのない物語)を永遠に繰り返している
【時空劇】(仮想劇):『最後の晩餐』に
おいて、ウロボロスとなった魂の輪廻が
ウロボロスの蛇(切折り紙)by Kawai Msakazu
第二次世界大戦の戦禍から、この不朽の
名作(名画)を残す「奇蹟の中の超奇跡」を
演出してくれたのかもしれません。
「超奇跡」の詳細については、
『ダ・ヴィンチの罠 超奇跡』
『ダ・ヴィンチの罠 矛盾点』
などを参照してみてください。
畢竟するに、
朽ちかけていた『最後の晩餐』なくしては、
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
最後まで手もとに置いていた3枚の油彩画
だけでは、「罠」の輪郭さえ、朧気(おぼろげ)
で、到底、その存在の尻尾にすら触れること
が適わなかったに違いありません。
謂わば、それはそこに、
解かれなければならない謎の「罠」の存在
があると考えれば、合点がいくし、モヤモヤ
もストンと腑にも落ちるわけです。
「十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
・・・ って、ねえねえ、
ちょっと、待ってよ
いい子ね、ヒツジさんをイジメちゃだめよ
出典:muragon.com
出典:deskgram.net
これって、さあ、、
そうした演出(奇跡)が可能なのは、この世界
がバーチャル(仮想現実)だからじゃないの
シミュレーション世界での『仮想劇』だから、
起こるべくして起こった必然的な奇跡よ
「えっ !!」
何とも思わせぶりのイメージ操作ですが、
強引に、無理やり「仮想劇」に結び付けて
みました。
「う~む ・・・」
こりゃあ、体のいい「押し売り」じゃな
いま話題の統一〇〇の霊感商法、かも・・・
わしゃ、合同結婚式を挙げてもいいぞい
この 変態ジジイ が
出典:globe.asahi.com
(なんでトランプ元大統領が・・・)
・・・って、おいおい、
… to be continue !!
(… to be continued !!)
ではまた、次回に ・・・
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
(ゲロゲロ ・・・)
これが、確率論が発明されることになった
キッカケであり、「歴史的瞬間」でした。
「点数の問題」とは、目標点数を先に獲得
した人が掛け金を総取りする賭博ゲームの
途中で突然ゲームが中断されたら、掛け金
はどうなるのか?という問題です。
たとえば、
Aが5点、Bが3点とった段階で火事が起き、
ゲームが中断されて再開できなかった場合、
賭け金はどうやって分けるのか。
単純に考えれば、Aが勝っていたのだから
Aの総取りでいいということになるでしょう。
でも、パチョーリはそれでは不当であるとし、
途中の点数が5:3なら掛け金も5:3の比率で
分けなければならないと考えました。
ちなみに、ルカ・パチョーリは修道僧にして、
数学者であり、ダ・ヴィンチの友人でした。
これが15世紀における見解です。
しかし、その後の16世紀に活躍した数学者
のニコロ・タルタリア(1499年または1500年-
1557年)はこれに異を唱えました。
□
ニコロ・タルタリア Wikipedia
彼は、「点数の問題」は私たちが思っている
以上にずっと難問だと言ったそうです。
時が流れ、科学革命時代になった17世紀。
「フェルマーの最終定理」で有名な数学者
で物理学者のピエール・ド・フェルマーと、
□
ピエール・ド・フェルマー wikipedia
数学者で哲学者であるブレーズ・パスカル
が、手紙で「点数の問題」を議論しました。
□
ブレーズ・パスカル ja.wikipedia.org
そして、2カ月間にわたるこのやりとりで、
2人はそれを完全に解決しました。
詳細は、
「老人と子供の命、どちらが大切か」
答えの出ない難問に答えを出すのは
数学的思考である
完全自動運転のプログラムに不可欠
PRESIDENT Online /PRESIDENT BOOKS
数学者キム・ミニョン
https://president.jp/articles/-/51288?cx_testId=7&cx_testVariant=cx_1&cx_artPos=2#cxrecs_s
を参照してみてください。
さて、
レオナルド・ダ・ヴィンチは、絵画に遠近法
を積極的に取り入れていますが、彼は当時
の最新技術を習得するために、友人であり、
数学者でもあった修道僧のルカ・パチョーリ
のもとを何度も訪ねています。
レオナルド・ダ・ヴィンチがルカ・パチョーリ
から数学(幾何)を学び、これがのちの作品
(罠の構築と仕組み)に強い影響を及ぼした
ことは、ほぼ間違いなさそうです。
『最後の晩餐』に用いられた遠近法による
表現や『モナ・リザ』等のスフマート(ぼかし)
は、当時としては、極めて画期的な最先端
の技術だったのです。
「私の芸術を真に理解できるのは
数学者だけである」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
ところで、
繰り返し上演される仮想の「時空劇」は、
「アルファであり、オメガである」が
ゆえに 因果律が無視される事態に遭遇する
と突如としてバランス(結晶化状態)が崩れて
アモルファス化します。
アモルファス www.mech.kanagawa-u.ac.jp
それが、
『受胎告知』での聖母マリアの右手に
見られるアナモルフォーズだったり、
『受胎告知』アナモルフォーズ fc2.com
『東方三博士の礼拝』での混沌
とした量子論的な「無」の世界と多次元
時空(異空間)を意図した構図であったり
するわけですが、
同時に、それは、
『最後の晩餐』における人物配置の
先駆けとなる実験的な結晶化への布石で
あって、
『最後の晩餐』での最大の「謎」
のひとつであるナイフの真の持ち主
に直結するアナモルフォーズにして、
異空間から投影されたメタモルフォーゼ
する人物たちの射影でもあるのですが、
『最後の晩餐』ヨハネ 『岩窟の聖母』マリア
マグダラのマリア
それらは因果律の乱れと、仮説としての
四次元立方体図(小)
超次元立体パズルにおける透過面上の
変化や流動性、またはその過程における
透過投影体(射影)でもあるのです。
四次元立方体図 d.hatena.ne.jp2
この辺りのことが意味不明の方は、
『ダ・ヴィンチの罠 次元枠1』
を参照してみてください。
たとえば、それは、
4次元立方体の各面(半透明の膜状面)
に相当する作品内の人物たちの振舞いや
四次元立方体図 Wikipedia
「え、俺っ !!」
明らかに首の長さに食い違いをみせる
失われた『レダと白鳥』の模写やデッサン
(ラファエロ)の中に見ることが出来ます。
『モナリザ』と『レダと白鳥』の模写デッサン(ラファエロ)
『レダと白鳥』模写チェーザレ・ダ・セスト
やけに首の短い白鳥と異様に長い首をした
ダ・ヴィンチの弟子のチェーザレ・ダ・セストに
よる『レダと白鳥』の模写のイメージは、
ラファエロのデッサンとダ・セストの模写の加工
ダ・ヴィンチが自ら廃棄処分にしたとされる
『レダと白鳥』におけるダ・ヴィンチ
のメタファ(暗喩)的なモチーフの双方が
彼の目算通りにそれらの模写やデッサン画
に反映されているように見受けられます。
言わば、これらは、
漫画 『ONE PIECE』(ワンピース)
の主人公ルフィーのように、
伸縮するヨハネの右腕はナイフを握り、
その手をガシっと抑え込んでいるのが、
ペテロの右手の習作
ペテロの右手というトリックです
その後、舞台は『最後の晩餐』から
イエスの顕現におけるガリラヤでの
朝餉の場面へと移り変わり、
画像元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
使徒ヨハネの身体は移動してイエスの
左側に枝垂れかかるように寄り添い、
ググっと伸びた左腕がテーブルの淵に
そっと置かれることになります(黄丸印)。
さらに、
ガリラヤでの朝餉にトマスはいないので、
この場面ではトマスは消えて、
トマスのものとされる左手(赤丸印)は、
トマスの左手と思われる素描
ヨハネに投影されたマグダラのマリアの
左手に変わります。
すなわち、これが『最後の晩餐』であるのに
窓の外が明るい理由であり、
『最後の晩餐』における謎のナイフを持つ
右手の正体であり、
テーブル(食卓)の縁に、それとなくそっと、
否、いかにもわざとらしく添えられたトマス
の左手に仕掛けられた「罠」でもあるのです。
この点に関する補足ページとしては、
『ダ・ヴィンチの罠 匙加減』
が参考になるかもしれません
大ヤコブの左手とトマスの左手と思われる素描
それにしても、どうして、
これらの習作がこうも都合よくピンポイント
で残されているのか
ペテロの右腕の習作
また、ちょっとしたメモ書きや手稿の中にも
これは、と思われる記述が散見されます。
実に、不自然で奇妙だと思いませんか
トマスの左手とされる習作
当然の帰結として導かれるのは、
よくよく考えてみるまでもなく、伏線や布石の
ための作品であるだけでなく、この辺りに「罠」
を仕組んであるので「刮目せよ」とばかりに
POP 吹き出し 宝の地図 illust-box.jp
まるで宝探しの地図における目印や符合の
如く、あるいは所謂(いわゆる)水先案内用の
暗号としての習作なのかもしれませんね。
たとえば、
このケースにおいては他の誰の手であるとも
言えないようにペテロの右腕の習作を用意
して、メモ書きにはナイフを持つ人物の存在
を臭わせているのです。
しかも、
その習作にしても、決して、ハッキリとは
その肝心要となる手首から先を描かずにいる
わけですね
ペテロの右腕の習作
要は、追及の余地を残しているのです。
つまり、それが彼一流の「罠」における
「匙加減」(さじかげん)なのです。
ユダの右手の場合もそうですが、巾着を
絞った口らしき部分だけは描いてあっても肝心
の袋の部分はないのです。
ユダの右手の習作
たとえば、メモ書きにある
「振り向いているもう一人の者は、手に
ナイフを握り、テーブルの上のグラスを
ひっくり返している」
この文に該当する人物は見当たりませんが
ユダの手の中にナイフがあったと仮定
すればメモの内容とほぼ合致します。
相違点はひっくり返すものがグラスなのか、
塩壺なのか、の違いだけです。
さらに言えば、
この巾着を絞った袋の頭と思われる部分が
ナイフの柄頭を描いたものであったとしても、
何らの不都合も不思議も感じないわけです。
しかも、
これがまた憎い演出だと思えるのですが、
その袋にあたる部分にペテロの右腕を
思わせるようなかたちのラフ・スケッチを
そっと差し込んでいるわけです。(黒枠内)
さあ、このパズルを「解いてくれ」と
言わんばかりのサービスぶりですね
はてさて、
究極の「ネバー・エンディング・ストーリー」
(終わりのない物語)を永遠に繰り返している
【時空劇】(仮想劇):『最後の晩餐』に
おいて、ウロボロスとなった魂の輪廻が
ウロボロスの蛇(切折り紙)by Kawai Msakazu
第二次世界大戦の戦禍から、この不朽の
名作(名画)を残す「奇蹟の中の超奇跡」を
演出してくれたのかもしれません。
「超奇跡」の詳細については、
『ダ・ヴィンチの罠 超奇跡』
『ダ・ヴィンチの罠 矛盾点』
などを参照してみてください。
畢竟するに、
朽ちかけていた『最後の晩餐』なくしては、
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
最後まで手もとに置いていた3枚の油彩画
だけでは、「罠」の輪郭さえ、朧気(おぼろげ)
で、到底、その存在の尻尾にすら触れること
が適わなかったに違いありません。
謂わば、それはそこに、
解かれなければならない謎の「罠」の存在
があると考えれば、合点がいくし、モヤモヤ
もストンと腑にも落ちるわけです。
「十分に終わりのことを考えよ。
まず最初に終わりを考慮せよ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
・・・ って、ねえねえ、
ちょっと、待ってよ
いい子ね、ヒツジさんをイジメちゃだめよ
出典:muragon.com
出典:deskgram.net
これって、さあ、、
そうした演出(奇跡)が可能なのは、この世界
がバーチャル(仮想現実)だからじゃないの
シミュレーション世界での『仮想劇』だから、
起こるべくして起こった必然的な奇跡よ
「えっ !!」
何とも思わせぶりのイメージ操作ですが、
強引に、無理やり「仮想劇」に結び付けて
みました。
「う~む ・・・」
こりゃあ、体のいい「押し売り」じゃな
いま話題の統一〇〇の霊感商法、かも・・・
わしゃ、合同結婚式を挙げてもいいぞい
この 変態ジジイ が
出典:globe.asahi.com
(なんでトランプ元大統領が・・・)
・・・って、おいおい、
… to be continue !!
(… to be continued !!)
ではまた、次回に ・・・
出典元 レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
「え~、やだぁ、わたし妊娠するの」
(ゲロゲロ ・・・)