このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
いまを遡ること、約4000年前に、ユダヤ人
の父祖アブラム(アブラハム)は「神」
の言葉に従って、シュメールの主要都市
ウルを出て、“約束の地”とされていた
カナンへと移り住みます。
アブラハムの血統は、イサク、ヤコブ
(後に、イスラエルと呼ばれる)と続き、彼の
12人の息子たちがイスラエル12部族のもと
になるのですが、息子のうちの一人がユダ
で、この名前からユダヤ人という呼び名
が生まれます。
イスラエル12部族 ywhcken-shin.net
近代まで続くユダヤ人の迫害に関する
根本原因はイエス・キリストの受難に
端を発しますが、
出典:godarea.net
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は
「姉妹宗教」呼ばれていて、それぞれが
奉ずる「神」は、名こそ違えど同一です。
ユダヤ教成立以前には、「神」の名は
「ヤハウェ」や「ヤーヴェ」、または「エホバ」
などと呼ばれていましたが、ユダヤの戒律
では「みだりにその名を呼んではならない」
とされたので、ユダヤ教徒は滅多な事では
「神」の名を口にはしません。
イスラム教での「アッラー」は「神」の
名前ではなく、アッラーという言葉自体が
「神」を意味するアラビア語の普通の
名詞ですので、当然、「神」の名前を
口にすることはありません。
翻って、キリスト教ではどうでしょうか
出典:mayonez.jp
「勝利を得るものを、わたしの神の聖所
の柱にしよう。彼はもう決して外へ出る
ことはない。 わたしはその者の上に、
わたしの神の御名と、わたしの神の都、
すなわち、天とわたしの神のみもとから
下って来る新しいエルサレムの名前と、
わたしの新しい名前とを書き記そう」
『ヨハネの黙示録』3章12節
『ヨハネの黙示録』message-station.net
その結果、
父(神)と子(イエス・キリスト)と聖霊は、
一つの神が、三つの姿で現れたもので
あるという詭弁(三位一体)を弄して、
三位一体の図
やれ、天のお父様だの、イエス様だの、
仕舞いにはまったく何の関係もないのに
マリア様だのと、姦しいこと甚だしいと ...
果たして、
ダ・ヴィンチが、そう思ったかどうかは
わかりませんが、やたらと神の御名
を好んで口にすることは確かです
さて、
狡猾なる二面性を駆使して、エトス(倫理)
を完膚なきまでに喪失してしまった共同体は、
ダ・ヴィンチの時代にパトス(感情、情熱)が
作り出す欺瞞を芸術の域にまで高め、昇華と
還元のサイクル(循環)の過程で 嫉妬と憎悪
の胤をあまねく世界中の国々に撒き散らして
いたものと思われるのですが ・・・
その共同体(組織)こそがローマ・カトリック
教会(バチカン)であって、
「世界平和を乱しているのはイスラム教徒
(ムスリム)の中の原理主義者たちではなく
キリスト教こそが、その元凶ではないか」
予(かね)てより、そうした疑問に憑かれて
いる小生には、
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に見られる
不可解な「謎」の数々が、奇しくも「罠」
というかたちで、その答えを明示してくれて
いるように思えて仕方がないのです。
言い換えれば、
□
□
不可思議な「謎」の軌跡が絶妙なる
軌道を描いて、その答えにリンケージ
していると考えられるのです。
出典:deskgram.net
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
そこには、
綿密に計画され、巧妙かつ慎重に仕掛け
られた「ダ・ヴィンチの罠」の存在が
現にあるからに他なりません
そうした思いが、「このブログのシリーズを
スタートさせた」というようなことを、『ダ・ヴィンチの罠 異端者』
『ダ・ヴィンチの罠 異端者』
に記しましたが、
その意味では、レオナルド・ダ・ヴィンチは
明らかなる異端者であり、かつ確信犯
でもあるわけです。
そして、
同様の趣旨での「確信犯」が、イエス
を裏切るという屈辱的「汚れ役」をものの
見事に演じ切ったイスカリオテのユダなる
人物なのです。
振り返れば、
□
「えっ !!」
イエスを裏切ったとされる男の名前も、
□
イエスを拒絶して十字架へと導いたと
される民族の名称も、ユダとユダヤ人
であるのは偶然の結果なのでしょうか
それは違うとダ・ヴィンチは思ったのです。
イエスを裏切り、捕縛させたのがユダ
で、イエスを十字架につけろと催促した
のがユダヤ人だなんて ・・・
「そんなに都合のいい話があるものか」
ユダヤ人を貶めるための方便だろう
と勘繰ったダ・ヴィンチが、さもわざとらしく
銀貨入りの巾着袋をユダと思しき人物の
手に握らせたのは『最後の晩餐』での
重要なファクターのひとつかもしれません。
なんとなれば、
□□
出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net
最後の晩餐における段階ではユダは
まだ銀貨を手にはしていないのですから。
すべては、
イスラエル(ユダヤ人)が奉じる民族神を
異邦人に売り渡した稀代の天才ペテン師
の策略にして、本当の意味での裏切者に
よる「異端」の極みこそがパウロなる
偽預言者の存在であると看破し 喝破した
ものが『ダ・ヴィンチの罠』が持つ
もうひとつの側面なのです。
使徒パウロ
そこで、
イエス・キリストは「神」なのか
に関するレオナルド・ダ・ヴィンチの見解を
小生なりに推理するとなれば・・・
唯一絶対なる存在が「神」である以上、
そこには始まりもなく終わりもない。
ゆえに、生まれることもなく死ぬこともない。
然るに、
イエスは生まれ来た者であり、「神」
とは同一であろうはずはない。
仮に、
イエスが「神」の子であったとしても、
それは「神」の意志によって存在した
のであって 「神」のような唯一絶対的な
神性など有してはいない。
而して、
「解剖して分かったことだが、
人間は死ぬように
出来ているのだ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
ならば、十字架上で死んだイエスとは、
100%の人間であり、もし仮にイエスが
「神」ならば、死んだイエスを、一体、
誰が復活させたと言うのだ。
そもそも
イエスが、100%人間でなければ、
決して、死ぬことなど出来ないのです。
事実、「死」は当初より設計されていて、
「免疫細胞は、年を取ると自分自身を
攻撃するようにプログラムされている」
にもかかわらず、
「死」は、病気や痛みの苦しみから解放
させるためにあるとの詭弁を弄し、「死」
にそれらしい意味を持たせたり、パウロの
ように 「救世主」にして「神」の子なる
イエス・キリストを無理やりに創作して
傀儡の「神」とする輩もいる。
そして、
それをさらに昇華・発展させたものが、
三位一体の図
「父である神と、子である
イエスは同じ神聖を持つ」
とする所謂(いわゆる)ところの、
「父と子と聖霊」の3つの位格が1つ
となって、「唯一絶対神」が存在
するとした「三位一体」なのです。
出典:church.ne.jp
思えば、使徒パウロの出現がなければ、
キリスト教の教義はなく、異邦人への伝道も
行なわれずにイエスの共同体はユダヤ教
の一分派(ナザレ派)としてのみ、その名を
わずかに歴史に残すだけのちっぽけな存在
に終わっていたのかもしれませんが、
出典:blog.livedoor.jp
甘い蜜に誘われるひとひらの蝶(🦋)が、
迂闊にも見えない蜘蛛の糸に絡まるように、
パウロの思い描く、謀略の罠(シナリオ)
に掛かったイエスは、洗礼者ヨハネを
裏切り、贖(あがな)いの十字架にかかる
という大芝居の主役を演じてしまうのです。
出典:blog.goo.ne.jp
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
(わが神、わが神、なぜわたしを
お見捨てになったのですか)
出典:Wikipedia
そして、その延長線上には、結果としての
我々の知る現実世界があるのですが ・・・
出典:wikicom
はてさて、
それでは、何故にユダは“裏切者”に
されてしまったのでしょうか
そこには、
初期キリスト教団(旧ユダヤ教ナザレ派)
が、ユダヤ教の一分派から脱却するという
意図のもとに、ユダ=ユダヤ人という
構図を作り上げ、十字架上でのイエスの
死に対する責任をユダとユダヤ民族
に負わせることで、ユダヤ教世界と訣別し
、世界的大宗教への道を切り開くとともに、
異邦人伝道を容易ならしめるための犠牲
(いけにえ)にするというパウロの遠大な
計画があったとダ・ヴィンチは推理します。
先に、ユダはどうして“裏切者”という
『汚れ役』を引き受けたのか
きょうは、その経緯(いきさつ)について
考察すると書きましたが、
たとえば、
こういうことだったのかもしれません。
「過ぎ越し祭り」が始まる3日前までの
1週間に イエスとイスカリオテのユダが
極秘裏に話し合いをもっていたとする内容
の古文書が発見されています。
それが、
出典:Wikipedia
偽書・偽典とされる『ユダの福音書』
なる古史古伝(古代史の主要な資料とは
著しく異なる内容を伝える文献)です。
ユダの福音書(写本の最初のページ)
『ユダの福音書』によれば、イエス
の教えを真に理解しているのはユダだけ
であり、イエスはユダを他の使徒よりも
一段上の存在として、皆を導いて行くのは
彼の仕事だと語ります。
要するに、
最もイエスから信頼されていた弟子が
ユダであり、実際上のNo.2だったユダ
に対して、イエスは、さらに、
「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲
とすることで、すべての弟子たちを超える
存在になるだろう」と話し、イエスを包む
物質としての肉体をイエスから取り除き、
内なる真の自己、つまり「神」の本質を
解放するように諭したのでした。
つまり、これが、
出典:parallel-w.com
“裏切り”とされる行為の真実の一片
であり、決して イエスをサンヘドリン
(ユダヤ教最高法院)に売り渡したのでは
なく、素直にイエスの言葉に従った結果
が、捕縛されて たらい回しの裁判の末に
ゴルゴダの丘へ続く 「ヴィア・ドロローサ」
(悲しみの道)を辿り、贖いの十字架刑に
果てるという一連の磔刑事件の顛末です。
そのすべては、
出典:blog.goo.ne.jp
「完了した !!」
イエス自身の、否、パウロが描いた
周到なる奸計(シナリオ)に基づいての
ページェント(野外劇)であったとする
のが、ダ・ヴィンチが導き出した結論です。
イエスの死(磔刑) www.jizai.org
しかしながら、
『ユダの福音書』の存在はともかく、
その内容については、ダ・ヴィンチの知る
ところではなかったはずなのですが、
こうした推理や帰結の基にあるのは彼が
幼少期に体験したと思われる啓示的な幻
による影響が大きいものと考えられます。
さらに、『ユダの福音書』によれば、
イエスは「神」に祈りを捧げる弟子
たちを見て笑います。
ここでの「神」とは、天と地を創造した
アダムの創造 ミケランジェロ画
旧約聖書の「神」で、イエスは・・・
出典:shanti-phuia.net
その「真の姿を理解せよ」と
弟子たちに強く迫りますが、
出典:jcnews.tokyo
弟子たちは目を向けようとしませんでした。
そんな中で、ユダひとりだけがイエスの
前に立ち、彼のいた場所 地球の外に
存在する「神の国」を言い当てたのです。
そこで、前述のように、イエスはユダに、
出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net
「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、
私から物質としての肉体を取り除くことに
よって、内なる真の自己、つまり、『神』
の本質を解放せよ」
さすれば、「すべての弟子たちを超越する
存在になるだろう」と誘惑し、イエスを包み
込む殻としての肉体をイエスから取り除き
、内なる真の自己、つまり「神」の本質
を解き放つよう諭したのです。
すなわち、それは、
イエス自身を官憲の手先に引き渡して
処刑(肉体の死をもって完結)せよ、という
「裏切り行為」をユダに対して強要
していたということなのですが ・・・
そして、
ユダの接吻 ポール・ギュスターヴ・ドレ
このことによって、ユダが他のすべての
使徒や弟子たちからの憎悪と非難の対象
となることも、もとよりイエスの言葉として
『ユダの福音書』に記述されています。
ところで、
イエスの死後、初期のキリスト教内では
様々な教えを説く分派が乱立し、それぞれ
の教義の核となるべき『福音書』が個々に
存在していました。
その中で『新約聖書』に収められている
のは、「正典」と認められた、マルコ、マタイ、
ルカ、ヨハネの4つの福音書のみで、これら
の福音書が「正典」として承認されたのは、
西暦150年~200年頃とされていますが、
初期のキリスト教父であるエイレナイオス
(2世紀末のリヨンの司教)は、その著作物
『異端反駁』(西暦180年頃)のなかで、
エイレナイオス Wikipedia
『ユダの福音書』は、グノーシス主義
の「異端の書」であるとして、口を極めた
攻撃(批判)を加えています。
要は、
この「禁断の書」が多くの信者たちに
読まれていて、少なからざる影響を与えて
いたことへの不満の裏返しなのでしょうが、
正統をもって任じる一派(主流派)は激しく
これに反発し、何度も何度も攻撃を繰り返し、
最終的に勝利を得たということなのでしょう。
それにしても、
「私は渇く」 blog.goo.ne.jp
西暦30年頃の事とされるゴルゴダの丘で
の野外劇は見事なるパフォーマンスでした。
「私は渇く」 jcfa.exblog.jp
イエスが十字架にかかった時点では、
彼こそがユダヤ教における「異端者」で
あって、改心なき「汚れ役」を演じていた
わけですが ・・・
「完了した」 blog.goo.ne.jp
つまり、イエスの時代に、
正当のユダヤ教とされたサンヘドリン
(ユダヤ法の最高法院)や律法学者たち
から見て、「神の国」を説くイエスは
「異端」の際たる者であったわけです。
サンヘドリン(長老会)biblestory.jugem.jp
イエスはユダヤ教の世界の住人で、
ユダヤ人たちを対象に宣教活動をして
いましたので、彼には異教徒伝道とか、
共同体を組織化して、独自の教会組織
(教団)を作り、その教えを世界的規模
にまで発展させ、それを未来の社会に
向け、広範に伝道していくという発想は
ありませんでした。
あくまでも、ユダヤ教の改革者にして、
サンヘドリンに対し、「異端者」で
あったというだけなのですが、
パウロの巧妙な奸計(罠)に嵌まり、
その最大の「汚れ役」=「裏切者」
をNO.2のユダに引き受けさせるという
大芝居を打ったわけです。
こうした事態は、パウロの計画上に
おいては織り込み済みのことでしたが、
むしろそれはパウロにとっては望む
べくもないほどの絶好なる展開であった
と、ダ・ヴィンチには思われたのです。
次回では、そのあたりにも言及の幅を
広げてみたいと考えますが、
天才ペテン師パウロが思い描く虚構
の物語に踊らされてはたまりません。
それは現代において、現実に起こった
新型コロナの騒動とも共通します。
ひょっとすると我々は何者かが描いた
虚構のパンデミックシナリオに踊らされ、
振り回されているのかもしれません
でもさ、これって、まるで、
「黙示録の世界よね」
「バッタの大群に疫病の大流行」
やっぱり、
「心配だわ」
「不安ウイルスの曝露じゃな !!」
「え~、やだぁ、わたし妊娠したの
(んなわけないがな)
こっちは「統合失調症か」
所詮(しょせん)、
パウロたちの描くシナリオは
「虚構(フィクション)」なんじゃが
フィ、フィ、フィクション
・・・ って、おいおい、
(ゲロゲロ ・・・)
コ、コロナじゃなくて、鼻炎ですから・・・
… to be continue !!
(… to be continued !!)
こりゃあ、まるっきり、
『ダ・ヴィンチの罠 異端者』
のデジャヴを見てるようだぜ。
(ホンマかいな)
「ヒッ、ヒッ、ヒッ」
20200807mispronnunciation-w640