このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
「既存のものや主流に代わり得る(何か)」
を意味するオルタナティブ(alternative)
という言葉を、ここ最近、見聞きする機会が
増えてきているように感じます。
もともとの意味は、「AとBから1つを選ぶ」
要するに「二者択一」ということですが、
日本語では、そのような使われ方は稀で、
専ら、「Aに代わるB」というような意味合い
での用法が普通です。
この場合のAには、「既存や主流の何か」
、すなわち「旧態依然」とした制度や技術に
対するBなる新制度や新技術の導入という
ような意味で、オルタナティブ・テクノロジー
などの概念が登場したわけです。
差し詰め、
『ダ・ヴィンチの罠』における内容は、
レオナルド・ダ・ヴィンチのもう1つの素顔を
暴いた「オルタナティブ・セオリー」です。
地球という星に棲まうすべての生き物
にとっての邪魔者は “コロナ騒動”に
跋扈するウイルスやバクテリア類ではなく、
われわれ人間だったのかもしれません
新型コロナウイルス(COVID-19)
総じて言えば、我々、
人類は誕生以来、自然との共生や共存の
道を歩むことなく、主に西欧諸国においては
常に「自然を克服する」という義のもとに
自然に挑戦する姿勢を取り続けてきました。
西欧(キリスト教圏)における龍退治とは、
出典:popcultureplaypen.com
宇宙論的には、カオス(混沌)をコスモス
(秩序)へと変えることを意味していました。
自然の驚異や力を象徴する龍との戦い
は、人間が自然と格闘をして困難を克服し
土地を開墾する、換言すれば 混沌なる力
が支配する自然界を人間が制御し、自在
に コントロールすることを標榜し指向する
ことを意味していたのです。
その点に関しては、
『ダ・ヴィンチの罠 目的地』
『ダ・ヴィンチの罠 小宇宙』
などを参照してみてください。
さて、
今日の新型コロナ(感染爆発)の脅威も自然
への挑戦による驕った“人間の欲望”に対する
しっぺ返しであることは言うまでもありません。
出典:kokusai-enkaku-kyoiku.co.jp
グローバル化される前の地球環境であれば、
新型コロナも武漢で感染爆発があったとしても
被害は周辺の地域への若干の拡大にとどまり
「中国南部で風土病(肺炎)が流行して多数の
死亡者が出た」との情報が、ゆるやかに世界
へと伝播しただけに過ぎなかったことでしょう。
要は、
人間のレベルで正否や是非を識別し、正邪
や正誤を判断し、善や悪を論じたとしても、
結局はエゴという枠から抜け出せない以上、
自然破壊にストップがかかるということはなく、
いずれは手痛い「しっぺ返し」を食らわされる
ことになると、そう予見していたと受け取れる
言葉がダ・ヴィンチの手稿に散見されます。
「人間の巧妙さが、自然が創造するものより
も美しくシンプルな、あるいは 正確な発明を
することは決してできない。 なぜなら自然の
女神の創造物には 何ひとつ欠けるところが
なく、何ひとつ過分なものがないからである」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
今で言うエコロジー(ガイア理論)の思想
を持っていたダ・ヴィンチは、
「自然は自己の法則を破らない」
要するに、
「法則を破るのは、常に人間だ」
と言いたかったのです。
ついでに言えば、「自然の女神」という
言葉からして、キリスト教的な表現ではなく、
「地母神」(ガイア)からの発想ですね
おそらく女神の存在がキリスト教における
魔女を創造させたのだと思われますが、
『受胎告知』 聖母マリア部分
彼が『受胎告知』に、魔女のものらしき
“謎の肢”をこっそりと描き込んだ裏側には、
そうした思いがあったのかもしれません
この件については、
『ダ・ヴィンチの罠 謎の肢』
を参照してみてください。
ところで、
『ダ・ヴィンチの罠 異端者』
において、異端という切り口からの考察
を試みてみたわけですが、
初期ルネサンス期におけるダ・ヴィンチの
評価は「異端児」や「問題児」そのもの
だったのかもしれません。
6年間にわたるヴェロッキオ工房での修行
を終えて、画家として独立後間もない時期に
『キリストの洗礼』 ヴェロッキオ工房制作
『キリストの洗礼』(ヴェロッキオ作)
の創作を手伝い、左端の天使や風景(背景)
の一部などを描くことで、早くも大器の片りん
を見せつけたものの 移り気で無頓着な性格
が災いし、制作途中での仕事(作業)放棄を
立て続けに連発することになります。
そんな折も折、ローマ教皇シクストゥス4世
はシスティーナ礼拝堂の壁画創作のために
フィレンツェの才能に溢れた若き画家たちを
ローマに招聘しますが、くだんのダ・ヴィンチ
には声がかかることはありませんでした。
この時、呼ばれたのはダ・ヴィンチと同様
にヴェロッキオに弟子入りをしたペルジーノ
をはじめ、ボッティチェッリやギルダンライオ
らの芸術家たちで、彼らは一連の内装部分
におけるフレスコ壁画を手掛けています。
それでは、ここで質問です。
約束や時間をキチンと守り、真面目で
実直で信頼のおける協調的な人物
気まぐれで自分勝手で、周囲のことを
気にせずに、約束や時間を破る人物
こうした2つのタイプの人がいたとしたら、
あなたはとのどちらを好むでしょうか
おそらく、大部分の人は前者のの方を
選ぶでしょう。
確かに、友人としてはの方が好ましい
に相違ありません。
但し、このことが“コロナ禍”の日本社会
で大きな問題になっているのです。
日本人は真面目で協調性がありますが、
それゆえに他人と違った行動をとることが
容認されず、その場の空気で人々を厳しく
縛りつける同調圧力が威力を発揮します。
出典元:ameblo.jp
一方で、こうした社会は 窮屈で息苦しい
ばかりではなく、その場の空気を読めない
人間は変人扱いの上に嫌われて、のけ者
にされ、果ては、精神的な病魔に侵された
障害者とされることも少なくありません。
社会通念上、常識の範囲にある決め事、
たとえば、
時間やルールで拘束するのならまだしも
その場の雰囲気や流れに乗れない人間を
排除排斥する精神構造が「自粛警察」を
生みだし、村八分的な行動を誘発して独自
の規制や制限を設けてしまうのです。
他方で、真面目で協調性に優れ、全員が
協力して行動することが得意な日本人は
目標達成力が極めて高い。 言い換えれば、
「現場力」が強いとも言えるのです。
出典元:sankeibiz.jp
“コロナ禍”の現在において、世界と比べ、
感染者の数や死亡者の数が極めて少ない
のは、そうした「現場力」が一定の成果を
もたらせていると言えなくもありません。
しかしそれは、
農耕民族がゆえの性格や属性のなせる
ワザかもしれませんが、「現場力」の強さ
がイノベーション(革新・刷新)という点では
大きくマイナスに作用するのも事実です。
経営学的には、 のような人がいないと
新しい技術や発想は生まれないとの指摘
もあります。
「気まぐれで周りのことなど
まったく意に介さない人間」
と聞いて、言を俟たないのは、われらが
レオナルド・ダ・ヴィンチですが、一部では
彼のことをある種の「障害者」であった
と見る向きもあるようです。
例えて言えば、
「ADHD」(注意欠陥・多動性障害)や
「サヴァン症候群」が疑われるそうで、
ダ・ヴィンチの並はずれて突出した能力は、
その障害とは対照的な鬼才や偉才である
とされたわけです。
おそらくは、
ダ・ヴィンチもそうした矛盾や葛藤のなか
で壮大な「罠」の発想を得たのでしょう。
このあたりの考察については、
『ダ・ヴィンチの罠 異端児』
を参考にしてください。
我々の目に真実は、たった一つだけの
ように見えますが、今、我々に見えている
世界は現実の一部分で、「真実」は一つ
ではないのかもしれません。
ダ・ヴィンチは、そうした考えを基本ベース
に数々の「罠」を作品に組み込みました。
この「罠」は、実際に感知可能な現実の
世界とオカルトの世界のほかに 解析能力の
有無、言わばリテラシー(読解力)の優劣
によって、その理解に大きな違いが見られる
という特徴を持っています。
但し、ここでは情報を伝える側のリテラシー
(適切なる表現)は完全に度外視され、むしろ
誤解を生む恐れのあるような微妙なタッチの
描写に終始していますが、
『洗礼者聖ヨハネ』 の鏡絵 deskgram.net
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
それこそが、「罠」としてのダ・ヴィンチの
狙いでもあったのです。
「えっ !!」
予定によると、今回は・・・
ペテン師パウロが描くシナリオと、
野外劇の汚れ役(裏切者)を引き受けた
ユダの顛末に迫るんじゃなかったの
そ、そのはずだったと思うが ・・・
「予定は未定で決定にあらず」
結局、
「 に代わる 」になったんだから、
「オルタナティブ」ってことよね
・・・ って、おいおい、
… to be continue !!
(… to be continued !!)
出典:true-ark.com
むむむ ・・・