見出し画像

透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 ピエタ

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 ピエタ(改)』です。

 (以下、本文)

 

 まずは、この二頭の犬の絵をご覧ください。



  アナタは誰の作品だと思いますか

 ああ、アレね!

 そうです。 あの絵です。

 ヤコポ・バッサーノの『二匹の猟犬』
思い浮かべた方も多かったでしょう。


   『二匹の猟犬』 ヤコポ・バッサーノ

 左の一頭がマーキングをしている微笑ましい
瞬間をスナップしたのが、誰であるのかは後で
お話しするとして、



 このうちのどちらかの一頭の名前
パトラッシュである可能性があるのです。

 そう、あの

 『フランダースの犬』名前です。

 そして、

 ネロと愛犬パトラッシュが夢に見ていた絵画、



 それが、アントワープ大聖堂に飾れている
ピーテル・パウル・ルーベンス

  
   ピーテル・パウル・ルーベンス

 『十字架昇架(キリストの昇架)


   『キリストの昇架』 1609-1610年

 『十字架降架(キリストの降架)


   『キリストの降架』 1612-1614年

 二つの三連(トリプティック)祭壇画です。

 同郷のルーベンスに憧れて、画家への道を
ひそかに夢見ていた少年ネロは、貧しい祖父
との2人暮らしでしたが、裕福な少女アロアと
は遊ぶことを禁じられ、祖父は亡くなり、放火
の疑いをかけられて仕事も失い、住んでいた
小屋からも追い出されてしまいます。

 すべての希望を絵のコンクールに託します
が、社会にありがちな裏取引によって落選、

 遂にはノートルダム大聖堂のルーベンスの
絵の前で老犬のパトラッシュと共に力尽きる
という悲しいお話ですが、

 『フランダースの犬』の物語の中で、
最も重要な最期のクライマックスを飾るのが



 ルーベンス『十字架昇架』



 『十字架降架』の二つの祭壇画です。

 二つの絵画のうちでネロが最初に見るのは、
『キリストの昇架』ですが、



 この時にはパトラッシュは、まだネロのもとに
駆け付けていません。

 その辺りを掻い摘んで話すと、

 猛吹雪の中、あてもなく歩き続けるネロの前
に、アントワープの大聖堂が見えました。



 寒い中、裸足でさまよいながらも大聖堂まで
やって来ると何故か閉じられているはずの扉
が開いていたのです。

 何かに導かれるようにして大聖堂に入ると、
いつもは覆いで隠されて、お金を支払わない
と見ることができなかったルーベンスの絵画
のカーテンが開いているのです。

 こうしてネロが最初に見ることになったのが、
『キリストの昇架』です。



 感慨深く見つめるネロ ・・・

 通常は銀貨1枚ないと観覧できないのです。

 もうひとつの祭壇画にも駆け寄るネロ ・・・



 こちらが『キリストの降架』です。

 「とうとう僕は見たんだ、
  なんて素晴らしいんだろう」




 「マリア様、ありがとうございます。
 これだけで、僕はもう何んにもいりません」

 そうつぶやくとその場に倒れ込むネロ ・・・



 ネロを探し求めて彷徨い歩くパトラッシュが
カテドラルの入口までたどり着くとうつ伏せに
倒れているネロの姿に気づくわけです。

 ようやくにして

 見つけたネロのもとに最後の力を振り絞り
ながらヨロヨロと近寄る老犬のパトラッシュ。



 「パトラッシュ、僕は見たんだよ。
 一番見たかったルーベンスの二枚の絵。
 だから僕はいま、すごーく幸せなんだよ」

 「パトラッシュ、疲れたろう ・・・ 僕も
 疲れたんだ。 なんだかとても眠いんだ」



  こうして、少年ネロと愛犬パトラッシュは
飢えと寒さで息絶えてしまうのです。

 これが

 最初で最後となったルーベンスの絵画と
ネロとパトラッシュの落涙必至の物語での
「ラストシーン」直前の一コマですが ・・・



 クライマックスではネロがコンクール用に
描いていた天使のスケッチのような展開で



 まるで ネロのスケッチの中から抜け出て
きたかのような大勢の天使たちに導かれて
ネロとパトラッシュは天国に旅立つのです。





 不条理で理不尽で悲劇的で、言いようのない
悔しさの残る最後でしたが、



 最終回の副題『天使たちの絵』の如き、
天使の愛に包まれたフィナーレでした。

 さて、

 『フランダースの犬』の最終話を

 ここまで引っ張ったのにはわけがあります。

 この不条理理不尽悲劇的
最期を遂げる人物と言ったら、

 そう、

 真っ先に思い浮かぶのがイエスですね。


     『復活』を果たしたイエス

 畢竟するに、

 19世紀後半にイギリスの女流作家ウィーダ
(本名はマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメーという
女性で、ウィーダは著作専用のペンネーム)
により、1872年に発表された児童文学作品
『フランダースの犬』の少年ネロは
イエス・キリストのメタファとして実話をもとに
意識的に投影されたものと考えられます。

 ベルギー北部のフランダース(フランドル)、
正確にはアントワープ(フラーンデーレン地方
のアルトウェルペン
)郊外の村が話の舞台で、
ネロが15歳、アロアは12歳であったとされて
いますが、アニメでは10歳にも満たない幼い
少年少女として描かれています。 

 ここで、

    
    アントワープの聖母大聖堂

 重要なファクターとして、聖母大聖堂にある
ルーベンスの二つの絵画が登場することは、



 ベルギーのアントワープ近郊の村が物語の
舞台であることからも必然であるかのように
思われるかもしれませんが、ネロがイエスの
メタファであること以外にも、この絵の中には
秘密があると思われるのです。
 
 ところで、前回での

     

 悪源太(源義平)は平清盛の命令で京都
六条河原で斬首(享年20)にされた経緯が
なんとなく洗礼者ヨハネを彷彿させますが、



 この物語では、ネロをイエスに重ねている
だけでなく老犬のパトラッシュはルーベンス
『キリストの昇架』の絵に出てくる



 磔刑に処されるイエスを下から不安そうに
見守る犬(赤丸印)のメタファでもあるのです。


   出典:www.patrasche.net

 そこで、

 冒頭での二頭の犬の絵ですが ・・・


   『二匹の猟犬』 ヤコポ・バッサーノ

 ヤコポ・バッサーノの『二匹の猟犬』
でのポインターらしき二頭の犬と比べると、



 こちらはいかにも、可愛く思えませんか

 左の犬は片足をあげておしっこをしている
ところで、子犬なのか、成犬なのかは、正直
わかりませんが、なんとなく顔が幼く見えて、
ビーグル犬か何かの子犬かと思われます。

 マーキングする行為をわざわざ描くことに
何か特別な意味があるのかも ・・・

 とも考えましたが、

 ここは深読みせずにちょっと警戒しつつも
「出物腫物ところ嫌わず」な愛犬の無邪気な
仕草を描写したと素直に思うことにします。

 おそらくは、この「おしっこ犬」の名前
パトラッシュなのでしょう。

 名付け親は、もちろん、この絵画を描いた
ピーテル・パウル・ルーベンスです。

 そして、


   出典:www.patrasche.net

 『キリストの昇架』で心配そうに
見上げる赤丸印の犬の名前も、またもや
パトラッシュといって、当時、実際に
ルーベンスが飼っていた犬だそうです。

 このビーグル犬らしき子犬がその犬とは
思えませんが、代々の飼い犬に同じ名前
をつけることは洋の東西を問わずよくある
話ですから ・・・

 そういうことにしておいてくださいase2

 大の犬好きだったウィーダが、この
聞きかじり『フランダースの犬』
創作する際にパトラッシュという名前
を即座に採用したであろうことは些かも
想像に難くありませんよねpeace
 

 ルーベンスは犬派の系統なのか、彼の描く
『最後の晩餐』にも犬が登場します。


         up_slow
 こちらの犬はユダの足もとで大好物の骨に
夢中でかぶりついている様子ですが ・・・

 このギャップは何なのでしょう。

       
      (対比じゃねーか)

 そうですね

 ユダは報酬(骨)に誘惑される強欲で大食
といった「七つの大罪」にも数えられる
悪徳なる持ち主で、それを
投影させているようにも思われますが、

 「地獄の沙汰も金次第」といった
ユダの面持ちが、それらをにもにも
表現しているようでもあります。

    
    『最後の晩餐』 ルーベンス

 一方の『キリストの昇架』での犬は、
数人の女性と使徒ヨハネを除く、十二使徒を
含めた弟子たちのほとんどがイエスを見限り
見捨てて逃げてしまったわけで、ゴルゴダの
丘でのイエスの最期を見守り見届けることが
出来ずに悲嘆する多くの弟子たちの複雑な
思いを代弁しているとともに、別の意味では
その忠信を象徴しているようでもあるのです。



 揺れ動き逃げ去った弟子たちの信仰心に
反して、一途な忠信(忠誠心と信仰心)の
発露がそこに見られるわけですね。



 要するに、

 『最後の晩餐』ではユダの足もと
での大食で強欲な邪悪なる象徴として、

 『キリストの昇架』では十字架
の下から見守る忠信の僕(しもべ)としての
神聖なる象徴として、ルーベンス
「犬」を描いていると思われるのです。

 つまり、これまでのところは

 「聖邪」「善悪」という対立する
概念を「犬」というひとつの対象を介して
同じように表象しているわけですが、

 もうひとつ、がこっそりと登場している
場面を見てみましょう

 ルーベンスの『エマオの晩餐』です。


 up 
 ここに犬がいるのがわかりますか

 こちらは二元論的な象徴としてではなく、
師と仰ぎ、揺るぎない信仰と帰依を誓った
はずの弟子が、その師を見限り見捨てる
人間のエゴと保身に対する怒りと諦めの
心を牙として秘めているようにも感じます。

 シェパードだと思われますがオオカミや
ドーベルマンのようにも見えますし ・・・

 ルーベンスのアンチテーゼでしょうか

 然は然りながら、

 それは已むに已まれぬ葛藤であって、
小生如きがそのことを、否や、見捨てて
逃げ出した弟子たちのことを非難できる
人間など、そもそもいるでしょうかeq

 捕らえられたなら、彼らには間違いなく
極刑が待っています。

 この段階ではまだイエスを完全には
理解できていなかったのだろうし、信仰も
付け焼き刃で、おざなりなものであったの
かもしれません。

 しかし、イエスの磔刑後の復活
よって、自らの罪を悔い改めた弟子たち
イエスに対する信仰忠信
揺るぎないものとなっていくわけですが、


     『復活』を果たしたイエス

 このことにこそ、ダ・ヴィンチは胡散臭い
もの感じ、そこにイエス「罠」
本質を嗅ぎ取っていたのですが ・・・

 それは、

 きょうのテーマではありませんので、
話を元に戻しますが、その前に一言だけ
付け加えるとすれば、にして、ユダ
にして、告発者たりうるダ・ヴィンチの
最高傑作が壁画『最後の晩餐』
おけるシステマティック「罠」
構造にあるのです。

 参考になるのかは怪しいですが、

『ダ・ヴインチの罠 告発者』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/526.html

 を参照してみてください。

       

 それにしても、

 イエス絡みの宗教画には、食事のシーン
と並んで、犬や猫がよく登場します。

 ヤコポ・バッサーノの親子やルーベンス
以外にも ティツィアーノ、ギルランダイオ、
ポントルモ、ベルナルディーノ・ルイーニ、
コジモ・ロッセリ、ほか多数の画家たちが
その寓意は別にしても絵の中に犬や猫を
描き、犬と猫の共演も少なくありません。

 一部を紹介すると、


    『エマオの晩餐』 ティツィアーノ

   
『食卓のイエス・キリスト(最後の晩餐)』 ティツィアーノ


   『最後の晩餐』 ティツィアーノ


  『最後の晩餐』部分 ギルランダイオ

 
    『エマオの晩餐』 ポントルモ

    
 『最後の晩餐』右側部分 コジモ・ロッセリ


 こうしてみるとユダの周りには猫ばかり
ではなく、犬だけの場合や犬と猫との共演
(主導権を争う競演のほかに友情出演)も
あるようです。 


 すなわちこれらは、

 犬だから義に溢れ、猫だから義に疎いと
いうことではなく、犬であろうと猫だろうと、
彼らにも二面性(多面性)があるわけです。

 だからそこに一方的な寓意を押し付けて
固定化してしまうのは間違いであるという
のが小生の意見であり、バッサーノ親子や
ルーベンスをはじめとする、一部の少数の
画家たちの考えでもあるのだと思いますが、

 要は、鑑賞者次第ということですねpeace

 さて、次回では、本筋に戻って、


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
と息子であるフランチェスコとレアンドロ兄弟
の同名作品との比較から

 
 『最後の晩餐』 レアンドロ・バッサーノ

    

 
『最後の晩餐』 フランチェスコ・バッサーノ

 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
システム化された「罠」に迫ろう
と考えていますが、

 悪魔の使いとされる生き物においても


 『最後の晩餐』ギルランダイオの猫

 『受胎告知』シーンなどに
が登場するのを目撃しますし ・・・

 まずは、

 これらを先に解決する必要がある
のかもしれません







 これらは『受胎告知』の絵画に登場
する猫ですが、それぞれ誰の作品でしょう。
 

 これも、ある意味で、
     
       
      (印象操作でしょ)


 はいはい


 ここですよ !!


  『エマオの晩餐』Ⓐ   『エマオの晩餐』Ⓑ


       『エマオの晩餐』Ⓐ
    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫

   ・・・ って、おいおい



       『エマオの晩餐』Ⓑ
   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

  「果たして、どうなるものやら」

  

   「先が思いやられるわい」


 … to be continue !!



 ピエタ(慈悲)ねぇ ・・・

   
      (しょうもな ・・・) 
    

コメント一覧

ピンクの綿菓子
『最後の晩餐』や『エマオの晩餐』などイエスキリストが登場する場面に、犬や猫がこれほど描かれていたとは知りませんでした。

単にユダを特定する判断材料としての存在だけではなく、そこには作者なりの意図がはたらいているのでしょうね。

それにしても、ルーベンスの飼い犬の名前がパトラッシュとはトリビア的にも「へぇー!」でした。
むらさき納言
ハチ公ではダメで、ポチでなきゃならない理由は『陰謀論』のコメント欄でのココナンくんの言うP(ポチ)というイニシャルが必要だった可能性が高いと思われます。
江戸川ケイシ
ありがとう。ポヨヨンさん!
ポチは必要ということですね。

それと「ここ掘れ、ワンワン」で出てくるものは大判小判がザックザックですから、猫に小判→豚に真珠→求めよさらば与えられん→しつこく嗅ぎまわって探し求めるSNOOP DOG→スヌーピーとなるわけですが、そこから先が見えません。

ハチ公ではダメでポチじゃなくてはならない他の理由を探してみますが、分かった人がいたら教えてください。
ポヨヨン
おめでと! お年玉だよ。 かくし玉じゃないよ。

ここ掘れ、わんわん!!!

江戸川ケイシ
うーん。 何とも言えませんね。

犬としての要件やメスとしての条件は必要だったのでしょうが、不可欠なものだったのかについては判断できません。

ただ、忠犬と言えばハチ公ですし、名犬と言えばラッシーでしょうから、ハチ公がいないことも気になるし、

つまり、絶対にポチでなければならなかったのか?ということですが・・・

それと、ラッシーについては主人公(飼い主)のひとりである少年の名前がジョン(ヨハネ)であることも気になります。

中途半端な回答しかできずに申し訳ありません。
むらさき納言
ケイシさん、ありがとうございます。

キティやミッフィーだと犬以外という「仲間はずれ」は成立するけど、メスということでラッシーの存在が消えてしまうわけですね。

それって、ラッシーは必要条件だということでしょうか?

そう言えば、なんとなくルーベンスの『キリストの昇架』に登場する犬がコリーのように見えなくもないのですが・・・
江戸川ケイシ
遅くなってごめんなさい。 一番大事なキーワードを忘れてました。

「仲間はずれ」です。

まだ、まとまっていませんが、これまでのところでは、

ポヨヨンさんのつぶやきでは、列挙した七匹のうちのどれか一匹とは言っていますが、それが「仲間はずれ」だとは断言していません。

そして、どうやらその一匹がスヌーピーだと言っているようなのですが・・・

ココナンさんの言うようにスヌーピー以外の他の六匹は、それぞれに他の六匹と「仲間はずれ」になる要素を持っています。

プルートは、ディズニーのその他大勢のキャラクターのひとつですが、飼い主が人間以外のミッキーマウスである点が他と決定的に違います。

ラスカルは、犬ではなくアライグマです。

ヨーゼフは、『アルプスの少女ハイジ』(主人公が少女)に出てくるセントバーナード犬です。

パトラッシュは、唯一の老犬で主人公とともに死んでしまいます。

ラッシーは、実写ドラマや映画もあり、アニメのシリーズもあるので難しいですが、メスのコリー犬で、Lassieとは英語で「お嬢さん・少女」を意味する愛称、つまり、唯一のメスなのです。

ポチは、言うまでもなく日本の昔話に登場する
定番の日本犬です。

そして、問題のスヌーピーですが、他と違う点はひとつしかありません。

それは、他の六匹のように他と違う要素を持っていない、言い換えれば「仲間はずれ」にならない唯一の存在だということです。

つまり、それが「仲間はずれ」の要素なのですが・・・

要は、ペットでもノラでもない完全なる自由を求める「仲間はずれ」たちに対して「この指、止まれ」と呼びかけているのだと思うのですが、それが、ダ・ヴィンチの罠や洗礼者聖ヨハネとどのようにつながるのかはまだわかりません。

ただ、ポヨヨンさんのつぶやきが単なる無意味な思いつきでないことだけは確かだと思います。

皆さんの助言や協力があれば、きっと解けると思いますが、きっとポヨヨンさんがヒントをつぶやいてくれると期待しています。
ゴスペル999
探偵ごっこはイブのイブまでってことは、一昨日までってこっちゃな!

不明不詳はん、何か隠し玉でも出すんかいな!?
むらさき納言
どうしてキティやミッフィーだと仲間はずれが成立しないのかがよく分かりません。
それが、スヌーピーだと言うというつぶやきにあらわれているということも。

他の6匹と同じくスヌーピーも仲間はずれになる理由も含めて教えてください。

そして、出来れば、そのことが何を意味し、ポヨヨンさんのつぶやきとどう関連するのかも知りたいと思います。
江戸川ケイシ
「かくれんぼするもの、この指、止~まれ!」でしょ。(10/15)

「遠目には猫のような犬だけど、犬とわかったとたん、もう犬にしか見えないよぉ!」
「首だけトリオの3人もなんか似てる」(10/16)

「犬目線、猫目線なのニャー」(10/28)

「きょうはハロウィン。 ジャパニーズにはブタに真珠じゃ、ブー!」(10/31)

「なんか古文の授業みたい。ちーがーうーだーろー!」
「わんわん、にゃんにゃん」(11/10)

「黄門様と助さん格さんみたい!」(11/13)

「スヌーピー、プルート、ラスカル、ヨーゼフ、パトラッシュ、ラッシー、ポチのどれか一匹だよ!」(11/16)

「そうだよ。 ウィトルウィウスはサスケだよ!」(11/21)

「この指、と~まれ」は娘と孫とおばあちゃん!」(11/24)

「どっちが犬で、どっちが猫でも『この指、と~まれ』・・・ネッ。 ココナン」(11/25)

「『ちーがーうーだーろー!』わんわん、にゃんにゃん、ペットでもノラでもないよ! 自由なのら・・・」(12/7)

「ビーグル犬ならスヌーピーだよ。パトラッシュじゃないよぉ!」(12/9)

「みんな『この指、止まれ」だよ! でも止まってくれないこともあるよ。 かくれんぼ嫌いなのかも」(12/18)

「だから、さあ、スヌーピーだって言ってるじゃん! SNOOPY!」(12/19)

漏れがあるかもしれませんが、ポヨヨンさんのつぶやきを時系列でまとめてみました。

まとめて読むと単なるつぶやきではなく、なんらかの意図を持ったつぶやきであることがわかります。

キーワードは「かくれんぼ」、「この指、止まれ」、「自由」、「スヌーピー」でしょうか?

件のペットの名前の羅列ですが、ラスカルを使うならキティやミッフィーでも良さそうですが、やはり、ラスカルでなければならなかったようです。

理由は、むらさき納言さんが言っていたように聖ヨハネと関連するのかもしれませんが、キティやミッフィーがダメなのは女の子の名前だからで、仲間はずれが成立しなくなるからです。

それが「だから、さあ、スヌーピーだって言ってんじゃん! SNOOPY!」に
あらわれていると思うのですが・・・
不明不詳
覗き見の 変装マニアか スヌーピー

   探偵ごっこは イブのイブまで

(詠み人知れず)
ポヨヨン
だから、さあ、

スヌーピーだって言ってんじゃん!

SNOOPY!
江戸川ドイル
スヌーピーはともかく、パトラッシュが他と違う点がわかったよ。

他はすべて若いか、精々が壮年だろうけど、パトラッシュだけがヨボヨボのジジイだってことさ!

だから、どうだって言われても困るけどね。

兄貴によれば、スヌーピーも仲間はずれになるらしいけど、その理由は教えてくれない。

最新の「帰納法」読んだけど、これも一種の帰納法的な分析になるのかな?
むらさき納言
のけ者や仲間はずれと言ったらユダを思い出すけど、スヌーピーやパトラッシュはどこが他と違うの?

もしも、それぞれが他と違う要素を持っているのなら、そこに何があるというのでしょうか!?
ココナン
言われて思ったんだけど、この組み合わせって奇妙だよね?

スヌーピー、プルート、ラスカル、ヨーゼフ、パトラッシュ、ラッシー、ポチのどれか一匹・・・

間違い(のけ者)はラスカルだけじゃなくて、ポチだけが日本犬で、プルートはディズニーのその他大勢のキャラクターのひとつだし、主人公が女の子(ハイジ)なのはヨーゼフだけだし、実写ドラマはラッシーだけ・・・

結局、それぞれが何かしらの理由で他とは違う(のけ者)になりそうだし、むらさきさんの言うようにもっと深い意味が潜んでいるのかもしれませんね?
ゴスペル999
ピンポン♪ さすがケイシはんやなぁ。 図星やでぇ!

むらさきはんのラスカル、いや、ポヨヨンはんのつぶやくラスカルのことなんやけど。

この名前の由来がまたごっつええ感じやねん!

ならず者、ごろつき、悪党で、可愛らしいイメージとは大違いや、まあ、可愛く言えば、いたずら小僧、ヤンチャ坊主なんやけどね・・・

なんやこの辺のニュアンスの違いがおもろいなあ、なんて思てな・・・
むらさき納言
ケイシさんのコメントにあるスヌーピーの名前の由来は興味深いですね。
それで意を強くしたんですが、ポヨヨンさんが、そのつもりで言ったとすると、やはり『告発者』でのつぶやきにはもっと違う意味や意図が含まれていたのかもしれません。

例の犬の名前を並べたつぶやきですが・・・

ココナンくんが言うように間違い探しならラスカルで決まりですが、この時にはPPRが誰なのかが話題でした。

結局、ルーベンスの絵からパトラッシュが答えだということで皆さん納得しているようですが、2号さんの「ポヨヨンさんはわかっていて、つぶやいているのでしょうか?」という言葉も気になるし、そもそも、犬の名前の中にわざわざラスカル(アライグマ)を持ってくること自体が不自然です。

単純ミスとは思えないのは、何でも水で洗う習性のあるアライグマであることです。

つまり、水で洗い清めると言えば、洗礼者聖ヨハネが思い浮かぶからですが、もっと深い意味があるのかもしれません。
江戸川ケイシ
ゴスペル999さんの言う、スヌーピーはキツイという意味は、偶然か否かは別にして「プロビデンスの目」ともつながるわけで、ポヨヨンさん、「そりゃあキツイよ!」って、ボヤいたんだと思います。

何故なら、スヌーピー(Snoopy)とは、Snoop(ウロウロと嗅ぎまわる、詮索する)から名付けられた名前だし、得意の変装でも毎年の復活祭では色のついたイースターエッグを配るイースター・ビーグルとしても活躍しているわけで、問題の「最後の晩餐」や「エマオの晩餐」とも無関係だとは言えないからです。
むらさき納言
ルーベンスが描いた子犬がビーグル犬ならパトラッシュという名前じゃなくて、スヌーピーだって言いたいだけでしょ。

「ちーがーうーだーろー!」というフレーズを使ってポヨヨンさんが言いたいことは、ペットでも、ノラでもないけど自由であることに意味があるんだってことだと思います。

ここでは「ちーがーうーだーろー!」がありませんから、文脈としても別なのだと思いますが、

ちなみに、イタリアでは野良猫は「ガット・リベロ(自由猫)」と呼ばれるそうですよ!

「ガット・エランテ(野良猫)」なる言葉も一応はあるようですが・・・

蛇足でしたが、参考にでもなれば幸いに存じます。
江戸川ドイル
パトラッシュでもなく、ペットでもノラでもなく、自由だってポヨヨンちゃんは言うけど、スヌーピーはペットだよ!?

だから、キツイって・・・

ゴスペル氏がいうのは、そういう意味だと思うけどな!
ココナン
スヌーピーはキツイって、冗談だよね!ってことですか?

じゃあ、パトラッシュは一体何だったの?ってことですからね。

ポヨヨンさんのつぶやきは気分屋の気まぐれっぽいから、気にしない方がいいのかも・・・

でも、そう装ってるふうでもあるしなあ???
ゴスペル999 
プロビデンスの目を意識してからというもの、正面のイエスと手前左右の弟子たちとで形成される三角形が気になって仕方あらへんのや。

つまり、「エマオの晩餐」でのトライアングルとの類似性なんやけど・・・

そこへ持って来て、ポヨヨンはんのスヌーピーはキツイで!

この意味わかるかなあ? わからへんやろな?
ポヨヨン
ビーグル犬ならスヌーピーだよ。

パトラッシュじゃないよぉ!
江戸川ドイル
「プロビデンスの目」は左目のデザインで、元をたどればエジプト神話のホルスの左目だけど、ラーの右目とは違う。

むらさきさんの言う「覗き見る猫の目がプロビデンス(ホルス)の目を意図している」のならば、我、関せずな様子の犬が、ラーの右目なのかもしれない。

ふと、思ったんで、先に宣告しときま~す♪
むらさき納言
陰謀論のような戯れ言に、みのるさんは関心ないと思いますよ。

今、スルーしてるのも、意図があるなんて言うから裏に何かあるように勘繰られるわけだけど、今までの経緯からすると自分の意見やコメントの内容が、2号さんにとっての越権行為=迷惑行為になると自粛してるんだと思いますよ。

そんなことはないと思うんだけど・・・

「プロビデンスの目」はフリーメーソンと結びつけられるけど、古くからあるデザインだし、キリスト教における三位一体と神の目を組み合わせたもので、神の意思としてすべてを見通し
監視しているという意味です。

ですからポントルモに他意はないと思いますが、覗き見る猫の目がプロビデンスの目を意図しているとなると大変ですね!

すべての出来事は「神の配慮によって起こっている」わけで、問題はそれが何かで、『ダ・ヴィンチの罠』もそのことと決して無関係ではないと感じています。
江戸川ケイシ
ティツィアーノの犬だけの場合もそうですが、マニエリスムの大家ポントルモの犬と覗き見る猫についても、ゴスペルさん同様、みのるさんの見解と言うか、解釈を訊いてみたいと思います。

ヤコポ・ダ・ポントルモの『エマオの晩餐』には犬と猫の他にも壁に「プロビデンスの目」も描かれていて、キリスト教の摂理=神の全能の目を意味しますが、この目は、陰謀論とも微妙に絡んできますので、『疑似餌』のコメントでのゴスペルさんじゃないですが、むらさき納言さんの意見も、みのるさんと合わせて訊いてみたいですね!
ゴスペル999
そう云やあ、以前にみのる氏は猫だけをユダの側に置く場合と犬をユダの側の置いてその位置を猫が狙う場合があって、ルーベンスの犬は特殊で、犬はあくまで神の側で肉の誘惑に負けたとか言っとったが、犬だけがユダの側にいるティツィアーノの場合はどうなるんや?

スルー中のみのる氏は答えへんかも知れんけど出来れば聞いてみたいわ。

このままじゃ、みのる式の解釈が不利やからスルーしてるんとちゃうか?と思われるだけやで!
ココナン
もうひとつのルーベンスの犬って、「キリストの昇架」の犬だったんですね。

だけど「エマオの晩餐」の犬もアリですよね!?

それより、いつもなら真っ先にみのるさんが明快に答えを寄せてくれるんだろうけど・・・

僕なりに調べてわかりました。

上から、フェデリコ・バロッチ、ルーベンス、ロレンツォ・ロットですね。

猫と受胎告知というミスマッチに、どんな解釈が成り立つんだろう?
むらさき納言
犬が人類で、猫がサタンという基本的な図式に変更はありませんが、眠っているネコちゃんたの絵を見ていると、ややもするとその気持ちが揺らいでしまいます。

でも、ギルランダイオやロレンツォ・ロットの猫の絵で元に戻されます。

やっぱり、そうだよねって・・・  

もちろん、バッサーノ親子の猫でも同様ですが、2号さんの考えは少し違うのかもしれませんね。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事