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別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
昨今の世界を見るにつけて思うことは、
理性(ことわり)の空白が続くなかで、
感性(たましい)の病状は悪化への
道塗(どうと)を走る暴走車の如くに、
一途(いちず)にアクセルペダル
を踏み込んでいるかのような情勢です。
それは、
出典:www.2cb.info
まるで、
終末へのカウントダウンを歓呼
する人々が大挙して待ち望むゴール
へと向かうフォミュラー・カーの呻る
ようなスピードのエキゾースト・ノート
となって、「G」(加速度重力)の快感
に狂い哭くオオカミの遠吠え🐺
の如き 唸り声と化しています
さて、
「ダ・ヴィンチの罠」を無意味
に響くだけの遠吠えを繰り返す非道
の輩どもの宴の餌食としないためにも、
(まさに北朝鮮的イントネーションですが)
ここでは、
なんとしても「罠」の封印を解いて、
大いなる謎を解明しなくてはなりません。
だから、さあ、
(前置きが長いっちゅうの)
そ、そうですね
早速、本題に入りましょう。
ナイフを握る手が、ペテロではなく、
ヨハネであるとした場合に持ち上がる
矛盾としての二本の右手の謎ですが ・・・
二本ずつある左右の腕を大きく広げた
有名なダ・ヴィンチの絵がありましたよね。
そうです。ほら、
その斬新なデザイン性が人々の視覚に
強烈なメッセージとして訴えかけてくる
不思議な図解と言えば、皆さんご存じの
『ウィトルウィウス的人体図』
ですが、一度見たら忘れられない奇妙な
円と方(四角)と素っ裸で手足を広げる
男性が図案化(図式化)されています。
精巧な人体描写とデザイン的な図柄
のもとは、タイトルにもあるように、
古代ローマの建築家、ウィトルウィウスの
『建築論』をベースに、彼の比例
の原理を図解したもののようですが、
初めて、この絵を観た時に感じたことは、
これは『サスケ』(作画 白土三平)に
出てくる「分身の術」ではないのかと、
一人が二人・・・
出典:ameblo.jp
二人が三人、四人、五人、十人・・・
出典:blog.goo.ne.jp
そして、
出典:ameblo.jp
十四人、十五人、十六人と・・・
それでは、それを、
ウィトルウィウス的人体図で
見てみましょう。
両足を閉じて、両手を横に広げた人体と
両手を上に広げた人体とで、一人が二人。
両足を広げて、両手を横に広げた人体と
両手を上に広げた人体とで、二人が四人。
次に、
両足を閉じ、右手が上、左手が横の人体
と両足を広げ、同じ右上・左横の手の人体
とそれぞれの手が逆になる人体とで、八人。
続いて、
右が横で左が下、左が横で右が下となる
足のパターンとその逆のパターンに、左右
の手が横と上とになるそれぞれのパターン
とを加えて、合計で十六人になります。
それを順列組合せの要領で記号化すると、
両手両足で4パターンずつあるので、
右横左横の手を「A」、右上左上の手を「B」
、右上左横の手を「C」、右横左上の手を「D」
同様に、
右下左下の足を「」、右横左横の足を「」
、右横左下の足を「」、右下左横の足を「」
とすると、
A A A A
B B B B
C C C C
D D D D
の合計、16パターンができあがります。
さらに、この人体図が、
反転させたウィトルウィウス的人体図
鏡文字のテキストであることから、
反転させると、その倍の三十二人となり、
もっと言えば、
広げた足が男性で、閉じた足が女性である
とすると、さらに倍の六十四人になります。
中央を境に左右でそれぞれに反転した画像
さらに、さらに、
人体図を回転させて、一度ずつ変化させる
だけで、その360倍=23040の人体パターン
となって、事実上無限に近い数の人体表現が
可能ということになります。
出典:aabbp.blog116.fc2.com
(かなり強引な展開ではありますが )
つまり、
ウィトルウィウス的人体図は
手足を広げた人間の肉体が円形にも方形
にも、そのいずれの形にもおさまるもので、
理想とする人体比例を見い出すこと
は理想的な建築につながるものと考えた
「ウィトルウィウスの理論」を具象化し、
図式化したものであるわけですが、
古代ローマ期にはまったく絵図面はなく、
記述による内容説明だけのものでした。
ここでウィトルウィウスについて
もう少しだけ触れておくと、
彼はすべての構造は円と正方形を操る
行為になるとして、人体は理想的な比例
関係にあり、円形と正方形の考え方から
人体の中心はへそであり、その部分に
コンパスを置いて円を描くと、指先と爪先
が円に内接し、足底から頭頂までの長さ
と広げた両手の長さを比べると正方形の
ように等しいと説いたわけです。
この場合の半径(へそから下)の長さと
両手を広げた長さの比率が、1:1.618、
いわゆる、黄金比となるわけです。
ギリシャ人は、
神々の意思は造形物に現れている。
よって、理想的な人体が存在し、人体の
各部位には理想とする比例関係があり、
建築学とは、人と神々の意思を明らかに
して、人工物と神的なるものを結びつける
ものであると認識したのです。
そうした考えをもとに、古代ローマ期の
建築家の夢想的とも思われる人体理論、
たとえば、
掌(手のひら)の幅は指4本分の幅に
等しい。
足の指先から踵(かかと)までの長さ
は掌の幅の4倍に等しい。
肘(ひじ)から指先までの長さは掌の
幅の6倍に等しい。
頭頂から顎(あご)の先までの長さは
身長の8分の1に等しい。(八頭身)
両腕を広げた長さは身長に等しい。
肩幅は身長の4分の1に等しい。
… 等々、
「ウィトルウィウス的人体図」
に書き込まれている人体各部位の比率は、
まだまだいろいろとあって、これはほんの
一部に過ぎませんが、
ここでの解説にはまったく意味をなさない
ものですので、詳しい内容を知りたい方は、
他のサイト等で調べてみてください🙇
果たして、
ダ・ヴィンチがそうした考え方にどこまで
与していたのかはわかりませんが、
彼の理論を具現化し、普遍化させたのが
「ウィトルウィウス的人体図」
であったことは間違いありません。
そうです。
表向きは確かにその通りで、人体に宿る
比例の原理を簡潔に表した図解でしょう。
であるならば、こうした、
スケッチ風のタッチにしては綿密
すぎるくらいに手の込んだ顔の描き方は
いったい何だと言うのでしょうか
人体図と名乗るからには、身体の
各部分の図解が主体のはずです。
しかるに細部に至るまで丁寧に描かれて
いる顔にはなんらかの意味や目的が
あったに違いありません。
そこで、
人体図を半分に切り、左右で反転させた
2枚の画像をもう一度見てみましょう。
こちらはオリジナルと比べて身体は男性の
姿そのものですが、顔は何気に女性っぽい
感じがしませんか
逆に、こちらの画像は身体は女性のようでも
顔は厳(いか)つい男性の表情をしています。
これは、
『ダ・ヴィンチの罠 聖と邪』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/424.html
での『モナ・リザ』に内包した右半分が
女性の顔立ちで左半分が男性的であることと
同じ手法が使われているということです。
それは、『聖アンナと聖母子』での
聖アンナや『洗礼者聖ヨハネ』にも
つながる話で、中性的、あるいはどっちつかず
の中間的な表現描写であると言えます。
『聖アンナと聖母子』『モナ・リザ』『洗礼者聖ヨハネ』
要するに、それらは、
プラトニズムでいう「二つがひとつ」
という概念によるもので、
もともとの人間は、男と男、女と女、男と女、
という属性を有していましたが、現在の人間
はどちらか一方の性しか持ちえずに肉体化
しているために、失ったもう片方の性を追い
求めて魂の迷走が続いていると ・・・
この辺りの事柄については、
『ダ・ヴィンチの罠 小宇宙』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/429.html
『ダ・ヴィンチの罠 創世記』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/491.html
などを参考にしてください。
つまり、こういうことです。
「ウィトルウィウス的人体図」
は、その名の通りにウィトルウィウスの理論
を図式化(図解化)したものですが、その
内実はプラトニズムの体現にあって、
「二つがひとつ」であるという実相を
具象化し、具体化する目的を主眼に
置いた人体図であったというわけです。
これで漸(ようや)く『最後の晩餐』
でのヨハネと少しだけつながりましたね。
ヨハネも男であり女であり、人間
である複数の人物を熱演しています。
『最後の晩餐』のヨハネ 『岩窟の聖母』のマリア
聖母マリアとマグダラのマリア
マグダラのマリア
しかし、だからと言って、
右腕が2本あることの説明にはなりません。
それには、さらなる証拠となり得るものが
必要となります。
たとえば、
イエスを境に右側(赤丸)と左側(青丸)
とで見事なまでに回内と回外の手に
回内(右手)と回外(左手)のイエス
出典:hatenablog.com
描き分けられている中にあって、他とは違う
すべて回内で描かれている手 hatenablog.com
手が一つ二つ描かれていたとした場合には
すべて回外で描かれている手 hatenablog.com
何の意味のない単なる偶然の結果である
と結論付けられてしまうのが普通です。
しかしながら、
わずかな例外のなかにこそ注目すべき
カギがあると考えて、調べを進めるうちに
例外であるはずの手の素描を見つけ
たとしたならばどうでしょうか。
しかも、ごく限られた数しか存在しない
はずの単体の部位の素描のなかに、
そのイレギュラーな手の存在が
あったとしたならどうでしょう
まさに、そんな発見があったのです
もちろん、極々、内輪(私的)な狭い範囲内
での話ですので、専門家でもない門外漢の
たわごとでしかないのかもしれません
見る(調べる)ことができる資料の絶対数が
違うので、特定の作品を示す単体の部位
の素描など、膨大な数の資料を調べれば、
わんさかと出てくるものかもしれませんが、
ほとんどすべての人物の手がそれぞれに
回外で描かれている中において、
すべて回外で描かれている手 hatenablog.com
他と違う手をした大ヤコブの左手と
トマスの左手があるのですが ・・・
円内にある大ヤコブの左手の斜め
下にトマスの左手があります。
つまり、
回外の手ばかりの中で2つの例外
となる大ヤコブと、トマスの左手が、
数少ない単体の部位の素描のなか
から見つかったということにでもなれば
大ヤコブの左手と思われるデッサン画
ナイフがヨハネの手にあったとする
極めて蓋然性の高い傍証(状況証拠)
となるわけです。
この辺りの事情が呑み込めない方は、
『ダ・ヴインチの罠 蓋然性』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/508.html
『ダ・ヴインチの罠 無頼漢』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/509.html
などで、その趣旨を確認してみてください。
そして、
大ヤコブの左手と目される素描に
ついては上記のように存在するわけです。
あとは、残るトマスの左手の素描が
見つかればパーフェクトなわけですね。
今までに紹介した
『最後の晩餐』での単体素描は、
ペテロの右腕、
ヨハネの両手、
ユダの右手、
そして、
大ヤコブの左手の4つでしたが、
果たして、
トマスの左手と思しきテーブルの淵に
親指を隠す素描が遂に見つかったのです。
これで、チェックメイト !!
「コンプリートです」
と言いたいところですが、先に記したように、
この仮説の蓋然性に一定程度の
担保が得られただけでヨハネの二本
の腕の存在を裏付けるものではありません。
そこで、次回では、
「ウィトルウィウス的人体図」
におけるモデルの人物が、有史以前から
未来に亘るまでの全人類を代表する者、
すなわちそれが「人間」そのもの、
あるいはまた人間を創造するうえでの
ひながたとなったモノを表象して見せた、
かつての神々(人間)の姿であるとする
神話的(聖書的)な推理に絡めて、
ヨハネの二本の腕の謎に迫ること
ができればと考えています。
トマスの素描(左手)は思いがけない
発見でしたが、ダ・ヴィンチの「罠」の
考察はまさに「再発見」の道です。
「二つがひとつ」という概念をもつ
「ウィトルウィウス的人体図」が
出典:mnsatlas.com
「すべてはひとつ」であるとする
ダ・ヴィンチの「罠」におけるリレーで
の第三走者的な存在であって、
まさにそこから最終のアンカーである
『最後の晩餐』にバトンをつなぐ
役目としての「人体図」であったのかと
あらためて確認をする「再発見」
であったという、お粗末な顛末です。
(ごちゃごちゃとうるせえんだよな)
そう言えば、予告にあった
「フィボナッチ数列はどうなったんじゃ」
「1.1.2.3.5.8.13.21.34.55...」
前の2つの数を足すと次の数になるから
「二つでひとつという意味では」
「そりゃあ、再発見じゃ」
この自然界に君臨する黄金の比率の螺旋を
形成するフィボナッチ数列が「二つがひとつ」
であるという意味を持ったプラトニックな数列
であったとは ・・・
「プラトニズムですョ」
なるほど rediscoveryって、
嬉し泣きですか😂、 悔し泣きですか
ところで、『岩窟の聖母』においても、
登場人物たちのほとんどすべてが
回内の手(白丸印)で描かれています
が、ひとつだけ微妙な手があります。
それは、印のない大天使ウリエル
の幼児(聖ヨハネ)を支える左手です。
おそらく相応の意味があると思われますが、
現時点では分かりません。
洗礼者聖ヨハネとイエスとの関係において
重要な意味を持つものと考えられますが
もし、ルーブル版とロンドン版のウリエルの
手が互いに違っているとすれば、より強固な
推論が成り立つのですが ・・・
残念なことに、
鮮明な画像が見つかりません
ん !!
出典: www.lets-bible.com
宇宙スーパーウェーブ blog.goo.ne.jp
… to be continue !!
+
アンドロメダ銀河 天の川銀河
理性(ことわり)の空白が続くなかで、
感性(たましい)の病状は悪化への
道塗(どうと)を走る暴走車の如くに、
一途(いちず)にアクセルペダル
を踏み込んでいるかのような情勢です。
それは、
出典:www.2cb.info
まるで、
終末へのカウントダウンを歓呼
する人々が大挙して待ち望むゴール
へと向かうフォミュラー・カーの呻る
ようなスピードのエキゾースト・ノート
となって、「G」(加速度重力)の快感
に狂い哭くオオカミの遠吠え🐺
の如き 唸り声と化しています
さて、
「ダ・ヴィンチの罠」を無意味
に響くだけの遠吠えを繰り返す非道
の輩どもの宴の餌食としないためにも、
(まさに北朝鮮的イントネーションですが)
ここでは、
なんとしても「罠」の封印を解いて、
大いなる謎を解明しなくてはなりません。
だから、さあ、
(前置きが長いっちゅうの)
そ、そうですね
早速、本題に入りましょう。
ナイフを握る手が、ペテロではなく、
ヨハネであるとした場合に持ち上がる
矛盾としての二本の右手の謎ですが ・・・
二本ずつある左右の腕を大きく広げた
有名なダ・ヴィンチの絵がありましたよね。
そうです。ほら、
その斬新なデザイン性が人々の視覚に
強烈なメッセージとして訴えかけてくる
不思議な図解と言えば、皆さんご存じの
『ウィトルウィウス的人体図』
ですが、一度見たら忘れられない奇妙な
円と方(四角)と素っ裸で手足を広げる
男性が図案化(図式化)されています。
精巧な人体描写とデザイン的な図柄
のもとは、タイトルにもあるように、
古代ローマの建築家、ウィトルウィウスの
『建築論』をベースに、彼の比例
の原理を図解したもののようですが、
初めて、この絵を観た時に感じたことは、
これは『サスケ』(作画 白土三平)に
出てくる「分身の術」ではないのかと、
一人が二人・・・
出典:ameblo.jp
二人が三人、四人、五人、十人・・・
出典:blog.goo.ne.jp
そして、
出典:ameblo.jp
十四人、十五人、十六人と・・・
それでは、それを、
ウィトルウィウス的人体図で
見てみましょう。
両足を閉じて、両手を横に広げた人体と
両手を上に広げた人体とで、一人が二人。
両足を広げて、両手を横に広げた人体と
両手を上に広げた人体とで、二人が四人。
次に、
両足を閉じ、右手が上、左手が横の人体
と両足を広げ、同じ右上・左横の手の人体
とそれぞれの手が逆になる人体とで、八人。
続いて、
右が横で左が下、左が横で右が下となる
足のパターンとその逆のパターンに、左右
の手が横と上とになるそれぞれのパターン
とを加えて、合計で十六人になります。
それを順列組合せの要領で記号化すると、
両手両足で4パターンずつあるので、
右横左横の手を「A」、右上左上の手を「B」
、右上左横の手を「C」、右横左上の手を「D」
同様に、
右下左下の足を「」、右横左横の足を「」
、右横左下の足を「」、右下左横の足を「」
とすると、
A A A A
B B B B
C C C C
D D D D
の合計、16パターンができあがります。
さらに、この人体図が、
反転させたウィトルウィウス的人体図
鏡文字のテキストであることから、
反転させると、その倍の三十二人となり、
もっと言えば、
広げた足が男性で、閉じた足が女性である
とすると、さらに倍の六十四人になります。
中央を境に左右でそれぞれに反転した画像
さらに、さらに、
人体図を回転させて、一度ずつ変化させる
だけで、その360倍=23040の人体パターン
となって、事実上無限に近い数の人体表現が
可能ということになります。
出典:aabbp.blog116.fc2.com
(かなり強引な展開ではありますが )
つまり、
ウィトルウィウス的人体図は
手足を広げた人間の肉体が円形にも方形
にも、そのいずれの形にもおさまるもので、
理想とする人体比例を見い出すこと
は理想的な建築につながるものと考えた
「ウィトルウィウスの理論」を具象化し、
図式化したものであるわけですが、
古代ローマ期にはまったく絵図面はなく、
記述による内容説明だけのものでした。
ここでウィトルウィウスについて
もう少しだけ触れておくと、
彼はすべての構造は円と正方形を操る
行為になるとして、人体は理想的な比例
関係にあり、円形と正方形の考え方から
人体の中心はへそであり、その部分に
コンパスを置いて円を描くと、指先と爪先
が円に内接し、足底から頭頂までの長さ
と広げた両手の長さを比べると正方形の
ように等しいと説いたわけです。
この場合の半径(へそから下)の長さと
両手を広げた長さの比率が、1:1.618、
いわゆる、黄金比となるわけです。
ギリシャ人は、
神々の意思は造形物に現れている。
よって、理想的な人体が存在し、人体の
各部位には理想とする比例関係があり、
建築学とは、人と神々の意思を明らかに
して、人工物と神的なるものを結びつける
ものであると認識したのです。
そうした考えをもとに、古代ローマ期の
建築家の夢想的とも思われる人体理論、
たとえば、
掌(手のひら)の幅は指4本分の幅に
等しい。
足の指先から踵(かかと)までの長さ
は掌の幅の4倍に等しい。
肘(ひじ)から指先までの長さは掌の
幅の6倍に等しい。
頭頂から顎(あご)の先までの長さは
身長の8分の1に等しい。(八頭身)
両腕を広げた長さは身長に等しい。
肩幅は身長の4分の1に等しい。
… 等々、
「ウィトルウィウス的人体図」
に書き込まれている人体各部位の比率は、
まだまだいろいろとあって、これはほんの
一部に過ぎませんが、
ここでの解説にはまったく意味をなさない
ものですので、詳しい内容を知りたい方は、
他のサイト等で調べてみてください🙇
果たして、
ダ・ヴィンチがそうした考え方にどこまで
与していたのかはわかりませんが、
彼の理論を具現化し、普遍化させたのが
「ウィトルウィウス的人体図」
であったことは間違いありません。
そうです。
表向きは確かにその通りで、人体に宿る
比例の原理を簡潔に表した図解でしょう。
であるならば、こうした、
スケッチ風のタッチにしては綿密
すぎるくらいに手の込んだ顔の描き方は
いったい何だと言うのでしょうか
人体図と名乗るからには、身体の
各部分の図解が主体のはずです。
しかるに細部に至るまで丁寧に描かれて
いる顔にはなんらかの意味や目的が
あったに違いありません。
そこで、
人体図を半分に切り、左右で反転させた
2枚の画像をもう一度見てみましょう。
こちらはオリジナルと比べて身体は男性の
姿そのものですが、顔は何気に女性っぽい
感じがしませんか
逆に、こちらの画像は身体は女性のようでも
顔は厳(いか)つい男性の表情をしています。
これは、
『ダ・ヴィンチの罠 聖と邪』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/424.html
での『モナ・リザ』に内包した右半分が
女性の顔立ちで左半分が男性的であることと
同じ手法が使われているということです。
それは、『聖アンナと聖母子』での
聖アンナや『洗礼者聖ヨハネ』にも
つながる話で、中性的、あるいはどっちつかず
の中間的な表現描写であると言えます。
『聖アンナと聖母子』『モナ・リザ』『洗礼者聖ヨハネ』
要するに、それらは、
プラトニズムでいう「二つがひとつ」
という概念によるもので、
もともとの人間は、男と男、女と女、男と女、
という属性を有していましたが、現在の人間
はどちらか一方の性しか持ちえずに肉体化
しているために、失ったもう片方の性を追い
求めて魂の迷走が続いていると ・・・
この辺りの事柄については、
『ダ・ヴィンチの罠 小宇宙』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/429.html
『ダ・ヴィンチの罠 創世記』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/491.html
などを参考にしてください。
つまり、こういうことです。
「ウィトルウィウス的人体図」
は、その名の通りにウィトルウィウスの理論
を図式化(図解化)したものですが、その
内実はプラトニズムの体現にあって、
「二つがひとつ」であるという実相を
具象化し、具体化する目的を主眼に
置いた人体図であったというわけです。
これで漸(ようや)く『最後の晩餐』
でのヨハネと少しだけつながりましたね。
ヨハネも男であり女であり、人間
である複数の人物を熱演しています。
『最後の晩餐』のヨハネ 『岩窟の聖母』のマリア
聖母マリアとマグダラのマリア
マグダラのマリア
しかし、だからと言って、
右腕が2本あることの説明にはなりません。
それには、さらなる証拠となり得るものが
必要となります。
たとえば、
イエスを境に右側(赤丸)と左側(青丸)
とで見事なまでに回内と回外の手に
回内(右手)と回外(左手)のイエス
出典:hatenablog.com
描き分けられている中にあって、他とは違う
すべて回内で描かれている手 hatenablog.com
手が一つ二つ描かれていたとした場合には
すべて回外で描かれている手 hatenablog.com
何の意味のない単なる偶然の結果である
と結論付けられてしまうのが普通です。
しかしながら、
わずかな例外のなかにこそ注目すべき
カギがあると考えて、調べを進めるうちに
例外であるはずの手の素描を見つけ
たとしたならばどうでしょうか。
しかも、ごく限られた数しか存在しない
はずの単体の部位の素描のなかに、
そのイレギュラーな手の存在が
あったとしたならどうでしょう
まさに、そんな発見があったのです
もちろん、極々、内輪(私的)な狭い範囲内
での話ですので、専門家でもない門外漢の
たわごとでしかないのかもしれません
見る(調べる)ことができる資料の絶対数が
違うので、特定の作品を示す単体の部位
の素描など、膨大な数の資料を調べれば、
わんさかと出てくるものかもしれませんが、
ほとんどすべての人物の手がそれぞれに
回外で描かれている中において、
すべて回外で描かれている手 hatenablog.com
他と違う手をした大ヤコブの左手と
トマスの左手があるのですが ・・・
円内にある大ヤコブの左手の斜め
下にトマスの左手があります。
つまり、
回外の手ばかりの中で2つの例外
となる大ヤコブと、トマスの左手が、
数少ない単体の部位の素描のなか
から見つかったということにでもなれば
大ヤコブの左手と思われるデッサン画
ナイフがヨハネの手にあったとする
極めて蓋然性の高い傍証(状況証拠)
となるわけです。
この辺りの事情が呑み込めない方は、
『ダ・ヴインチの罠 蓋然性』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/508.html
『ダ・ヴインチの罠 無頼漢』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/509.html
などで、その趣旨を確認してみてください。
そして、
大ヤコブの左手と目される素描に
ついては上記のように存在するわけです。
あとは、残るトマスの左手の素描が
見つかればパーフェクトなわけですね。
今までに紹介した
『最後の晩餐』での単体素描は、
ペテロの右腕、
ヨハネの両手、
ユダの右手、
そして、
大ヤコブの左手の4つでしたが、
果たして、
トマスの左手と思しきテーブルの淵に
親指を隠す素描が遂に見つかったのです。
これで、チェックメイト !!
「コンプリートです」
と言いたいところですが、先に記したように、
この仮説の蓋然性に一定程度の
担保が得られただけでヨハネの二本
の腕の存在を裏付けるものではありません。
そこで、次回では、
「ウィトルウィウス的人体図」
におけるモデルの人物が、有史以前から
未来に亘るまでの全人類を代表する者、
すなわちそれが「人間」そのもの、
あるいはまた人間を創造するうえでの
ひながたとなったモノを表象して見せた、
かつての神々(人間)の姿であるとする
神話的(聖書的)な推理に絡めて、
ヨハネの二本の腕の謎に迫ること
ができればと考えています。
トマスの素描(左手)は思いがけない
発見でしたが、ダ・ヴィンチの「罠」の
考察はまさに「再発見」の道です。
「二つがひとつ」という概念をもつ
「ウィトルウィウス的人体図」が
出典:mnsatlas.com
「すべてはひとつ」であるとする
ダ・ヴィンチの「罠」におけるリレーで
の第三走者的な存在であって、
まさにそこから最終のアンカーである
『最後の晩餐』にバトンをつなぐ
役目としての「人体図」であったのかと
あらためて確認をする「再発見」
であったという、お粗末な顛末です。
(ごちゃごちゃとうるせえんだよな)
そう言えば、予告にあった
「フィボナッチ数列はどうなったんじゃ」
「1.1.2.3.5.8.13.21.34.55...」
前の2つの数を足すと次の数になるから
「二つでひとつという意味では」
「そりゃあ、再発見じゃ」
この自然界に君臨する黄金の比率の螺旋を
形成するフィボナッチ数列が「二つがひとつ」
であるという意味を持ったプラトニックな数列
であったとは ・・・
「プラトニズムですョ」
なるほど rediscoveryって、
嬉し泣きですか😂、 悔し泣きですか
ところで、『岩窟の聖母』においても、
登場人物たちのほとんどすべてが
回内の手(白丸印)で描かれています
が、ひとつだけ微妙な手があります。
それは、印のない大天使ウリエル
の幼児(聖ヨハネ)を支える左手です。
おそらく相応の意味があると思われますが、
現時点では分かりません。
洗礼者聖ヨハネとイエスとの関係において
重要な意味を持つものと考えられますが
もし、ルーブル版とロンドン版のウリエルの
手が互いに違っているとすれば、より強固な
推論が成り立つのですが ・・・
残念なことに、
鮮明な画像が見つかりません
ん !!
出典: www.lets-bible.com
宇宙スーパーウェーブ blog.goo.ne.jp
… to be continue !!
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