大乗(安全)は小乗(安心)を兼ねることが出来るのか
このタイトルには、相当の 無理 があるのかもしれません
が、まずは輪郭だけでも大雑把に捉えてみてください。
… と(本題に入る)その前に、ちょっとだけ
先の 『ウサギとカメの物語 <1>~<7>』 で
「この世の中は、八百長で成り立っている」 ということを
イソップは、『ウサギとカメ』 の物語を通して我々に
伝えているのだと 1号 さんは結論づけたけど …
なるほど、「世の中は、いつわり(八百長)とカン違いから
出来上がっているのかも …」 と思えないこともありません。
なぜなら、
蒸し返すつもりは、更々(さらさら)もないのですが …
些(いささ)かならずとも、牽強付会・我田引水的な展開だと
申し上げなければならないでしょうね。
いえ、何って 『オオカミ少年の物語』 の完結篇
での結論ですよ。
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/233.html(参照)
ある資料によると、イソップの原典では、羊は食べられても
、羊飼いの少年が食べられることはないとの事 …
それは、原典に限らず、タウンゼント版(74)、ペリー版(210)
、シャンブリ版(318)、チャーリス版(44)、キャクストン版(6.10)
、その他 … 西洋に古くからあるイソップ寓話集には羊飼い
の少年が犠牲になるような話はないのです。
たとえば、タウンゼント版では …
少年は、村の近くで羊の番をしていたが、退屈になると、
「狼だ!」、「狼だ!」 と叫ぶことがよくあった。
村人たちが駆けつけると、少年は、皆の慌てた様子を見て
笑った。 そんなことが、何度も続いた。
ところが、ついに、本当に狼がやって来た。
少年は、恐怖に駆られて叫んだ。
「お願いだ。 助けてくれ。 狼が羊を殺しているんだ!」
しかし、少年の声に耳を傾ける者は誰もいなかった。
こうして狼は、羊を一匹残らず引き裂いた。
教訓:(嘘つきが本当の事を言っても、信じる者は誰もいない)
… と、まあ、これが一般的な話の内容ですね。
羊飼いの少年も村の羊も襲われてはいません。
だからと言って、1号 さんの見解(安心と安全を確保する
ための警告的な物語であるとする推論)にケチをつけよう
としているわけではありません。
なにゆえに、主人公の少年や村の羊までが犠牲となって
しまう話が流布し一般的な内容として定着していったのか
… という点にこそイソップ物語の秘密があるからです。
イソップ物語(寓話)は、イソップが創作した話だけではなく
古(いにしえ)よりの民話や当時における昔話など、類似する
他の物語を雪だるま式に吸収合併しながら膨張し膨大な数
となったわけですが、それらすべてにイソップの名が冠されて
『イソップ寓話集』 として集大成されたのです。
イソップには何か特別の予知能力のようなものがあって、
『イソップ物語』 はそうした潜在的な力を抽象化した
<予言の書> なのだと、しきりに1号 さんが言う
理由はまさに、そこにある気がするのです。
BC6世紀頃に民衆(聴衆)に向けて発せられたイソップの
物語(言霊)は、いつしかさまざまな文化圏へと広がり、その
土地の人々に伝承・翻訳されてゆく過程でいかなる文化圏に
おいてもその文化に違和感のないようなアレンジが施されて
、砂漠に水が滲み込むように浸透していったのです。
あるいは、それぞれの文化圏には、それ以前より独自に
類似する物語が伝承されていて、それがイソップ物語として
合体・融合したのかもしれません。
いずれにしても、そこには人類に共通する人間としての
心の働きが神話的要素と原初・原始的な心理の原型として
の 「魂」 を共振させたのでしょう。
つまりは、それこそが、ユングの言う 「集合的無意識」
や 「シンクロニシティ」 なのかもしれません。
人類共通の 知的財産(パブリック・ドメイン)としての
『イソップ物語』 の価値はそこ(無意識の予言体系)
にこそあるのです。
それぞれの地域に独特の風土や気質が生まれるように、
それぞれの文化圏の人々の潜在的な意識が無意識下の
集合体としてそれぞれの 『イソップ物語』 を創造し
形成しているのです。
いずれ起こりうる災害や危機といったものを、その時代の
人々が無意識のうちに感じ取って、微妙に物語を変化させて
いるとも言えなくはないのです。
ですから、羊飼いの少年も、村人の財産である羊たちもが
犠牲となってしまうようなストーリーが日本で一般的なのだと
したら、そこには日本人が無意識下で感じ取っていた何かが
原典をそう改変させたのかもしれません。
おそらくは、それが、1号 さんの言う
イソップ の 予知能力 の 正体 なのでしょう。
だとしたら、
原典と違うとか結末が捏造されているなどと指摘するのは
的外れなことであって、その差異を分析することの方が有益
なのかもしれないのです。
そこで、現在の日本に戻ってみれば、
東日本大震災の復興どころか復旧さえも儘(まま)ならない
なかで、福島第一原発の事故による放射能汚染が日本人の
安心 と 安全 を脅かしています。
安全性の追求に対しては、さまざまな分野において、
究極に近いレベルにまで高める努力がなされてはいますが、
どこまで突き詰めていっても 「絶対(100%)安全」
なものはこの世には存在しないのです。
にもかかわらず、
この世界では<安心・安全>を謳(うた)っている
建造物や構造物や商品類で満ち溢れています。
そこには一定のルールがあって<安全>のレベルが
、科学的・技術的に評価・検証することが可能だからです。
でも、<安心>には科学的・技術的な評価も検証も
無意味であって、各個人の 「心」 の安寧に帰結する問題
なのです。
そこでは個人差が大きく作用するので、<安心>を
共有できる<安全>がなかなか見つからないのです。
たとえ、99.99%の<安全>が科学的・技術的に保証
されたとしても、いや、仮に小数点以下に 9 がいくつ並んだ
としても<安心>できない人はいるでしょう。
しかし、その反面において、そうした人々でも …
何の躊躇もなく公共の交通機関(電車やバス)を利用し、
駅やバス停でそれらが来るのをじっと待っています。
安全な乗り物だと思い込み、それがその場所に必ず来る
ものと信じきって皆んなが皆んな待っているのです。
青信号で渡るのも、信号が青色ならば大丈夫、車は来ない
(停車する)と思っているから平気で渡ることができるけど …
この地球上で100%安全な物も場所も存在しないのです。
「列子(天瑞)」 の故事にある中国古代の杞の国の人
のように、いつか天が崩れ落ちてくるのでは
… といった具合に不安と心配で、じっと家にこもっていた
としても、宇宙のどこかから飛んできた隕石に直撃されない
とも限らないわけです。
そこには、単に確率の問題だけで片づけることのできない
ような不安が広がっているのです。
まさに、日本人が<杞の国の人>と化しているのです。
ただ、それを<杞憂>だとして片付けられない現実が
いまの日本にはあるのです。
きょうはきょうで、7月7日の 七夕 だというのに …
原発再稼動の説明番組内での、九州電力の指示による
やらせメールに九州電力の社長の関与を匂わす報道が、
テレビ、ラジオ、そして新聞紙上を賑わせています。
七夕 に 九電 とは、泣く(七・九)に泣けません。
「世の中は、いつわり(八百長)と
カン違いから出来上がっている」
ならば、すべてが カン違い であって欲しい
と願うのは、透明人間2号 だけでしょうか
いいえ、きっと、織姫 と 彦星 も同じでしょう。
今年も 酒涙雨 (さいるいう 催涙雨)の
七夕(たなばた) となってしまいました
さて、『小乗(安心)と大乗(安全)』 に関する
記事として書き始めたわけですが、まわり道をした果てに
本題の入口付近にて、すでに紙幅が尽きてしまいそうです。
輪番制での 「気まぐれ日記」 が原則なのですが、
次回も引き続きまして 2号 が担当させていただきます。
タイトルは『大乗は小乗を兼ねる』(仮称)です。
果たして、大(安全)は小(安心)を兼ねるのでしょうか
いたるところにカン違いの症状(小乗)が診られますが、
ほんとうに 大丈夫(大乗ぶ)なのでしょうか
可能性はゼロではありません。大いに憂慮すべきでしょう。
なんちゃってね
最新の画像もっと見る
最近の「ノンジャンル」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事