紀元前600年前後に生まれ、同 550年頃に奸計により
謀殺されています。
生まれはトラキアらしいのですが、サモス島で奴隷として
働きながら機知に富んだ寓話を語り始めると、その才能に
よって人気を得るようになり、主人からも重用されるような
身分となったのです。
後に解放されて自由人となったとされていますが、ほとんど
伝説上の人物で、かのソクラテス(BC 470-399)の時代には
すでに歴史上の人物とされていたようです。
そのソクラテスはBC 399年と伝えられる刑死の際に
、パイドン、クリトン、ケベス といった弟子たちを前にして、
イソップ風に寓話を用いて死に臨んでの心境の一端を吐露
したというようなことが、プラトンの対話篇 『パイドン』 に
記されています。
つまりそれは、
その当時のアテナイ人にとっても、それから2500年以上
も経過した現代の私たちにとっても、イソップの寓話および
イソップ風の語り口は各人の共通の常識、共有の知的財産
(パブリックドメイン)であったことの証明ではないでしょうか。
イソップが単純な物語という形式を借りて表白した知恵の
言葉(言霊)に、ソクラテスも同感と敬意を寄せていたことは
疑いようもなく、プラトン(BC 427-347)にしても、大遠征で
天下に勇名をとどろかしたマケドニアの大王アレキサンダー
(BC 356-323)の師でもあったアリストテレス(BC 384-322)
といった偉大なる哲人たちもイソップには一定の評価をして
いたようです。
サモス島ではクサントスという名の哲学者の奴隷であった
イソップでしたが、最終的にはイアドモンに買い取られた後に
解放されたようなのですが …
幸いにイアドモンは理解ある主人でしたので、解放前より
ある程度まで自由になる時間を与えられていたイソップは、
町々を巡りながら生き方の知恵や考え方の手本になる物語
などを、主に擬人化した動物たちを登場させて単純でわかり
やすい <たとえ話> にして語っていたわけですが、晴れて
自由の身となってからは、さらに拍車がかかり周辺の諸国を
まわってはさまざまな物語を創作していました。
そんな噂を聞きつけたリュディア王のクロイソスはイソップ
を宮廷に招き入れ厚遇します。
そして、クロイソス王の名代として …
デルフォイ(太陽神アポロンの神殿のある場所)に遣わされ
たことから、かの地で事件(謀殺)が起こります。
『ウサギとカメの物語 <3>』 のなかでも触れた
ように、イソップ自身がそのことに気づいていたのかどうかは
別にしても、彼には何か予知能力のようなものがあった
のではないかと思われるのです。

そして、知ってか知らずか、
潜在する意識のなかで醸成されたその想いは物語のなか
で想念(言霊)となって展開されていくのです。
事件(謀殺)の顚末は、『鷲と甲虫』 という物語の
なかでウサギとしてのイソップが …
そして、『オオカミ少年』 の物語のなかでは嘘をつく
羊飼いの少年としてのイソップが主役として登場しています。
<オオカミ少年>とは、実はイソップ自身のこと
だったのです。
ですから、物語のように少年の飼っていた羊のみならず
少年の命も、そして村の羊たちも襲われ殺されていくような
悲惨な結末を誰よりも恐怖していたのは、誰あろうことか、
他ならぬイソップ本人だったのではないでしょうか。
「オオカミが来た」 と叫ぶ少年の姿は、そのまま、
あちこちの町で寓話を語り聞かせているイソップ自身の姿を
物語のなかに投影・体現させているのです。
そこには、
「ウサギとカメが … 云々」、「アリとセミ(キリギリス)が …
云々」 と、表向きには子供向けの内容で、その実、裏では
イソップに見えた真実の世界と未来の出来事を物語(言霊)
にして残こそうと奔走しているイソップの姿があったのです。
八百長社会の現実に「真実を見抜く目と耳の必要性」を
『ウサギとカメ』 の物語として説き、無常観を背景に
して、「生きるとは何か


未来の世に問いながら、個々の自由なる選択と自己責任に
よるところの自主・自立・自助を基本とする独立した生き方
を示唆しているのが、『アリとセミ(キリギリス)』 の
物語だったのです。
『北風と太陽』 は、人類の歩み(進化)と地球環境、
つまり自然破壊や環境汚染による未来世界への警告に
主眼が置かれた物語ですし、「金のタマゴを生むニワトリ」
の話も、「牛の真似をしてお腹がはじけてしまったカエル」も
「肉をくわえた犬」や「キツネとツル」の話もそれがポピュラー
であろうとなかろうとイソップの語った物語には、それぞれに
まったく別の意図(予言的潜在意識)が隠れているのです。
『オオカミ少年』 に話を戻せば、腑に落ちないまま
に、悲しいまでのクライマックスを迎えるイソップの最期
(崖から突き落とされる末路)は、死に方こそ違っていても
羊飼いの少年の最期を彷彿させるのに十分です。
オーバーラップ するのは、そこに濡れ衣的な 誤解 を
生ませる先入観 があることです。
その辺りの経緯については、『鷲と甲虫の物語』

に譲ることにして、前稿 <10> で指摘した次の5つの疑問点
(違和感)を検証することで謎を推理・解剖してみましょう。

物語だったのかもしれません。
結果として少年の言葉どおりに「オオカミが来た」ことからも
嘘に主眼が置かれているとは考えにくいと思われます。
<嘘をつく行為>の戒めとしての教訓は、あくまでも子供用
の表向きの話にすぎないでしょう。

注意があってもおかしくはないし、むしろ当然のこととして
必要でしょう。
少年が嘘つきならば、何故、度重なる嘘に対して誰も叱咤
(注意)しなかったのか 不思議ですよねぇ。
村はずれに暮らす少年がなんらかの異変や村への危険を
知らせる役目を負っていたと考えれば、うなづけなくもない話
なのですが …

しての番犬(牧羊犬)の配備がないことが不思議です。
番犬がいたら、この話は成り立ちません。
狼のニオイを嗅ぎつけて騒ぎ出すからです。
しかし、牧畜の民なら番犬を置かないわけはありません。
現に、『狼どもと羊の群れ』 という話のなかで、犬たちは
重要な鍵をにぎる役割を演じています。
物語の構成上、不要だと言ってしまえばそれっきりですが、
真意を気づかせるための、イソップからのサイン(シグナル)
だったのかもしれませんね。

察知するための重要な場所にもかかわらず見張り番など
の存在や大人の介入がないのは不自然です。
その役割を

とすれば問題は解決します。

は懲罰的な意味合いよりも先入観によって人を信じない
ことへの危険性を訴えているとする方がより自然です。
ここが、もっとも重要なポイントですが、少年の言った嘘に
対する懲罰的な意味合いであるならば、少年の飼う羊たち
が襲われるだけで十分に事足りるはずです。
少年までが襲われて食べられてしまうような必然性はない
し村人たちの羊にまで被害が及ぶのはいかんせん行き過ぎ
でしょう。
言語道断の所業だと言えます。
そうであるならば、先入観や思い込みで左右されてしまう
ような心の危うさを指摘する話であるとする方が 断然 に
説得力 があると思うのです。
先入観から人の言葉を信じないことの危険性と裏腹な関係
にある(公式発表やマスコミ報道などを)不用意に信じ込んで
しまうことへの大いなる危険性を 『オオカミ少年』 は
同時に物語っているのかもしれません。
必死になって無実を訴えつづけるイソップの声を無視する
デルフォイの市民たちと「オオカミが来た

つづける羊飼いの少年の言葉を無視する村人たち …
そして、悲劇 は繰り返されたのです。
嘘 だとか、安全 だとか、神話 だとか

そういった思い込みや 先入観 に惑わされて …
まるで、21世紀 の現代 日本 に起こった
西暦2011年3月11日 からつづいている
大災厄 のように


これにて、
『オオカミ少年の物語』 は、一応の完結です