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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 先駆者

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 先駆者(改)』です。

 (以下、本文)

 

 トランプ大統領が登場して以降、俄かに
使われ始めた言葉がいくつかありますが、

 なかでも、

 ネット上において姦しいのは 「PC」
「フェイク・ニュース」です

 「フェイク・ニュース」は虚偽の情報
からつくられた報道やニュースということで
容易に理解できるのですが、

  「PC」とは何でしょう

 パーソナル・コンピューター(パソコン)の
略語ではありませんよ

 英語で「PC」(political correctness)と
略されるのは、

 「ポリコレ」(ポリティカル・コレクトネス)
「政治的正しさ」と訳される言葉です。

 正確には、トランプ大統領の登場以前、

 1990年前後の米国で大々的に使用され
始め 民主党政権下のオバマ大統領時代
に、差別・偏見をなくす目的で一般化への
拍車が掛かったようなのですが、

 もともとは 原則にこだわりすぎる左派の
姿勢を同じ左派系のメディアがやり過ぎだ
として内部批判する際の常套ワードとして
用いられていたものを、やがて右派サイド
が左派を否定する際に批難語として利用
するようになったのです。

 本来は社会で共有すべき良識や行動を
指す言葉であったものを、振りかざされた
「正義」や押しつけがましい「正しさ」
を安易に強要するだけの言動に対して、

 それを揶揄する目的で使用するように
なったというわけなのですね

 日本では、フェミニズムに反発する言説
LGB‐T(性的マイノリティの総称)に
関する発言などで頻繁に目にしますが、
 
 頻発される「ポリコレ」の大部分は
フェミニズム批判の文脈のなかでの攻撃
(口撃)のようです。

 さて

 反抗期の只中にある若者たちに限らず、
また洋の東西を問わず、とかく いい加減
で 適当な生き方を良とする者にとっては
耳が痛いというか、「ごり押し」とまでは
いかずとも、どこか胡散臭く、説教めいて
感じるものに「BC」があると思います。

 正直なところ、果たして、

 BC=ビブリカル・コレクトネス
(biblical correctness)なる言い回し方法
があるのかどうかはわかりませんが、



 「聖書によるところの正しさ」

 言わば「聖書的な正しさ」です。

    

 と、言っても、

 「ジャスティス」(justice)=「正義」
という意味ではありません。

 もっとも、英語版の聖書には「justice」
自体がほとんど出てこないそうで、

 日本語版で「正しさ」「義」 または
「正しい」とか「正義」と訳される箇所
は、英語では「ライチェス」(righteous)
「ライチャスネス」(righteousness)
になっているとのことですが ・・・

   

 おっと、いかん、いかん、のっけから
話が横道に逸れてしまいそうですase2

 symbol2kirakira2 「正義」については ・・・

 『聖書』では日本的な意味合いでの
「ジャスティス」ではないという点だけ
を一旦、理解しておいてもらって、詳細は
後日、別の機会に触れることにして、



 「BC」(biblical correctness)に
戻したいと思います。
 
 『聖書』に親しむことの少ない日本人
からすれば、『聖書』と聞けば、

 「右の頬を打たれたら、
       左の頬を向けろ」


 とか、

 「信じる者は救われる」

 とか、

 「汝の敵を愛せよ」

 とか、

 これらはすべて『新約聖書』が出典
の言葉ですが日本人には、否、おそらくは
世界的にも間尺に合わないものなのです。

 要するに、矛盾だらけだからです

 頬を叩かれたら、殴り返すか、逃げ出し
たくなるし、信じる者だけが救われるのは
不公平だし、敵を愛する時点で、敵はもう
すでに敵ではなくなっているだろうし ・・・

       

 つまり、

 「BC」には、欺瞞偽善の薫りが
プンプンと漂うだけでなく、矛盾する事柄
奇跡を演じるイリュージョン故に
辻褄合わせや腑に落とすための合点の
いかない押し売りの正しさがあるわけで、

 「PC」と同様に、それを、

 非難揶揄するようなニュアンスが
やんわりと込められているわけです。

 そんな「BC」の中には、イエス
メシア計画に則った一連の出来事、


 『キリストの洗礼』 ヴェロッキオ工房

 ヨルダン川での洗礼に始まり、ユダ
の裏切りや磔刑(十字架上での贖い)、


  『Christ of Saint John of the Cross』
    『十字架の聖ヨハネのキリスト』
     サルバドール・ダリ

 そして、


 『Crucifixion(磔刑)』サルバドール・ダリ

 センセーショナルな復活などですが、


   イエスの復活 出典:true-ark.com

   イエスの復活 出典:true-ark.com


 それらの端くれに洗礼者ヨハネ
「斬首刑」妖女サロメ奸計
顛末として案内されているのです。


 『洗礼者ヨハネの斬首』 カラヴァッジョ(1608年)

  『洗礼者ヨハネの斬首』部分 カラヴァッジョ

  『洗礼者ヨハネの斬首』部分 カラヴァッジョ

 1世紀初期(AD30年頃)のユダヤ社会
における主役の座から準主役を経て


 『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』 カラヴァッジョ(1609年)

 ガリラヤ地方の一領主に絡んだ単なる
脇役悲劇にまで貶められた事件は、


 『洗礼者の首を持つサロメ』カラヴァッジョ(1605年)

 本当にただの端役にすぎない人物の


  『サロメ』 ベルナルディーノ・ルイーニ

 悲劇(斬首事件)だったのでしょうか

   
『サロメ』部分 ベルナルディーノ・ルイーニ

 少なくともイエスは、否、福音書記者は
そのように思わせたいと考えたに違いない
とダ・ヴィンチは想像したわけです。

 「あなたがたによく言っておく。およそ女
から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより
偉大な者は現れなかった。しかし、天の国
で最も小さい者でも彼よりは偉大である」

   (マタイの福音書11:11)

 このように、『新約聖書』において、

 真打ちであるイエスの登壇前の前座
露払いの如く彼をあしらっているのは、

  
  『初代教皇ペトロ』 ルーベンス画

 福音書の記者及びペテロパウロ
始めとする初期キリスト教団の意向であり、

  
 キリスト教のドグマを確立したパウロ

 当時、なお、人気に翳りを見せようとは
しなかった洗礼者聖ヨハネ存在
矮小化しようと画策した結果であって、

 『聖書』(当時は旧約のみ)での最後
預言者であったマラキの言を利用
して、「先駆者」という絶妙にして、

 
   『旧約聖書:マラキ書』

 実に収まりの良い旧約時代の最後の
最後を飾る人物として、

   
 『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ

 四福音書の記者たちによって、巧妙
仕立て上げられたストーリー(物語)が、
洗礼者ヨハネに起こる出来事であり、

  

 新約時代への橋渡しをする先導的
と言えば すこぶる聞こえの良い「前座」
たる「先駆者」というプロットにある
「預言者」として、洗礼者ヨハネ
預言者エリヤに代行させたのです。

 それが、

 ダ・ヴィンチの見立てたシナリオであり、
彼が心密かに称えるキリスト(救世主)
洗礼者ヨハネ姿でもあるのです。

   
   『洗礼者聖ヨハネ』1513‐1516年

 この辺りの推理・考察に関しては、

 『ダ・ヴィンチの罠 預言者』

 を参考にしてみてください。

 ところが

 何故か、ダ・ヴィンチの時代においても、


 『洗礼者聖ヨハネ』 アンドレア・デル・サルト

 そして、また


 『洗礼者聖ヨハネ』 アンドレア・デル・サルト

 現在でも 人知れずに人気が高いのは
イエスよりも洗礼者ヨハネのような
気がしてなりません。

 それは、



 ダ・ヴィンチがそう感じたのと同じように
洗礼者ヨハネに共感以上の感覚・・・

 つまり、

 シンパシーとも、エンパシーとも違う
スピリチュアル(霊的で神聖)な思いを
抱く者が絶えないことからも窺えますが、

  
   『洗礼者聖ヨハネ』1513‐1516年

 やはり、そこには、


 『サロメ』部分 ベルナルディーノ・ルイーニ

 ダ・ヴィンチの作品を介して、



 ペテロが隠し持つナイフと、



 ユダの一途な思いと、



 イエスユダに抱く思惑と、



 そして、顔と手だけ描かれたトマス
指し示す「謎」の問い掛けの意味 ・・・

 すなわち、そこに、

 秘匿されるくべき真実一端
垣間見せてくれるトリッキー「罠」
が仕組まれているというわけですがpeace

 その解釈については、

 「レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋」を
運営する「みのるさん」の見解と部分的
に一致しますので、


 出典:レオナルド・ダ・ヴィンチの小部屋

 分かりやすい画像をお借りすることに
いたしました。

 但し、一致するのは、

 顔と手だけのトマスに、斬首された
洗礼者ヨハネの首がメタファ(隠喩)
としてイメージされているという点だけで

   
『サロメ』部分 ベルナルディーノ・ルイーニ

 それも複合する場面の中の1シーンに
おけるワン・カットに過ぎないものです。

 もちろん、

 人差し指のサインナイフなどにも
複合し重層するが隠されていますが、

 それらはまた別の機会とします。

 さて

 今回は予告とは随分と違った予定外
の展開(内容)になってしまいましたが、

 次回こそは師弟関係にあったとされる
洗礼者ヨハネイエスの間の確執
や葛藤、そして軋轢する仲での諍いなど
について言及したいと考えています。

 そして、

 それが「斬首刑」に至る経緯
何らかの影響を及ぼしたのか否か

 ・・・ ですね

    

 ところで

 聞くところによると、イエスが語るに、

 「自ら洗礼を受けた師であるヨハネ
 に対して『天の国で最も小さい者も
 アンタよりは偉大だ』とは、イエスも
 よう言うよなあ」
ase2

  

 「悪しざまに貶(けな)してる
      ようなものよね」




 「差別や偏見かしら」

 いやいや、こりゃあ、

 「PC」でも「BC」でもない。

 

 フェイクニュースだぜ !!

     

     「何 !!

     
     「ホンマかいな」

 「解剖して分かったことだが、
 人間は死ぬように出来ている」


 そして、



 「自分の芸術を真に理解できる
    のは数学者だけである」




    (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 … to be continue !!

 symbol2 洗礼者ヨハネ獅子吼します。

  荒れ野で清貧なる生活を送る彼は、
 みすぼらしくもその身にラクダの毛皮
 を纏(まと)い、人々に罪あるを宣告し、
 悔い改めのメッセージを咆哮しつつも、
 洗礼によって 人々を神の道に導いて
 いたのですが、

  そんな最中に突如イエスが洗礼を
 受けにやって来たというストーリーが
 イエスの公生活の始まりです。

  それが、

   

  マルコ、マタイ、ルカの共観福音書
 に共通する記述です。

  しかし、
 
  本当のところはどうなのでしょう

  それは

  「ダリ(誰)にもわからない
 
  ということで ・・・


 『最後の晩餐』サルバドール・ダリ(1955年)

 正十二面体を模ったダリの世界観とは 、



 実に興味をそそられる作品ですね


 『ハイパーキューブの十字架』サルバドール・ダリ


 『ハイパーキューブの十字架』サルバドール・ダリ


 『Crucifixion(磔刑)』サルバドール・ダリ


 『Christ of Saint John of the Cross』
   『十字架の聖ヨハネのキリスト』
     サルバドール・ダリ

コメント一覧

むらさき納言
そうはならなかったみたいですが( ^ω^)・・・

まだまだ未来のことはわかりませんよね?
ココナン
国防総省(ペンタゴン)も、その一つだけど、それらの組織やトランプ大統領の他にも、カギとなる人たちで構成される正十二面体(ドデカへロドン)が人類を救うことになったら、ダリの描いた『最後の晩餐』は一躍にして「予言の絵」になりますね!?

五角形が構成する12人のキーパーソンによる正十二面体組織(Dodecahedron)、これもまた、「D」ですが・・・
江戸川ドイル
穿ち過ぎかもしれないけど、何か、この頃から2年近い未来の出来事をすでに予見していたような?

そのぅ、つまり五角形(ペンタゴン)の存在が米次期大統領の決定において重要な鍵を握っているというか・・・

DSや隠されていたデクラス機密解除(Declassify)も含め、ここのところ「Ⅾ」の秘密が爆裂中だしね!
むらさき納言
『濡れ衣』、『福音書』と順調に続いてから、もうかれこれ三週間になるけど、新たな記事の更新がありません。

ケイシさんたちが言うように、コメントが記事に抵触していて、内容の変更修正に追われているか、それとも、「二度あることは三度ある」じゃないけど、また似たような失敗をして意気消沈しているのか?

どうも前者臭いのですが・・・

だとすると誰のコメントでしょう?

「Ⅾの秘密」が想定外に進展しちゃったとか・・・?
透明人間2号
いやはや面目ない。「打たれ弱いとは心外な!」と言いたいのですが、痛いところを突かれています。

どの程度の長文になったら危険なのかの見当はつけられますが、今回の失敗は画像の多さにあったと思われます。

確かに、文章も長いのですが、より臨場感を高めようとスライド画像を駆使してアニメーション効果を狙ったのが間違いで、そこに大幅な文字数オーバーの原因があったものと・・・

打たれ強く切り替えの素早いむらさき納言さんに負けないように気分を入れ替えて、鋭意作成中ですので、今しばらくお待ちください。

きょうは、いつもより時間が取れそうなので、何事もなければ、なんとか夕方までには仕上げたいと思っていますが、保障の限りではありません。

なお、同じような文章構成での投稿は無理なので、タイトルを『斬首刑』から『濡れ衣』に変更する予定でいます。
むらさき納言
五芒星の中心にできる五角形が結界に守られた空間で、そこが天国という発想は面白いです。

当然、正十二面体の面には『黙示録』に言う12人の長老、もしくは、十二使徒が結界を護るようにはり付いているとか(笑)

ところで、2号さんにおかれましては、またもやご愁傷さまなことで、お悔やみ申し上げます。
せっかく順調にペースアップして来ていたのに、意外と打たれ弱いんですよね。

前回も立ち直るのに1年近くかかってるし、

ま、今回は一時的なものと思いますが、感覚でわかるでしょ。

30000字がどの程度のものか、くらいは・・・
透明人間2号
おはようございます。 いや、こんにちは、が適切かな?

心中穏やかならぬケイシさんと危機感が共有できているかと問われると、やや楽観視している
てまえ、否と言わざるを得ません。

皇統は男系の男子が原則ですが、過去にもあったように男系の女性天皇一代に限るのならば、例外的に認めても良いと考えています。

但し、あくまで例外であって、今日、後継の皇嗣殿下や悠仁親王がいらっしゃる以上、愛子天皇はあり得ません。

楽観視と表現したのは、この問題が国民的な
レベルにまで降りて来た段階で、大多数の国民には、事の本質が理解できると思っているからです。

さて、週一ペース近くに回復したと評価された記事の更新ですが、「令和」を迎えてからまだ初日(初回)の更新が出来ていません。

「好事魔多し」のたとえ通り、むやみやたらにすらすらと筆が進み、これで良しと投稿したら、
 
「記事本文が長すぎます。全角30000文字以内で入力してください」のメッセージとともに、快調にとばして仕上げた文章が前回の下書きの段階にまで戻ってしまったのです。

雲散霧消のトホホな顛末に意気消沈している小生ですが、気を取り直して返信コメントを綴っている次第です。

似たような失敗やアクシデントには枚挙にいとまがなく、おのれの馬鹿さ加減に嫌気がさしますが、

同じ文章はもう書けないと思うので「逃がした魚は大きい」感がタップリの反省ザルが現在の姿です。
江戸川ケイシ
五芒星の中心が描き出す五角形、つまり、結界のバリアで守護された閉ざされた空間、それが天の国であり、その外に無限の宇宙空間が広がっているのが、この物質世界のすべてです。

そんなイメージでしょうかね? まあ、ダリにも分からないということのようですが・・・

ダ・ヴィンチの考える聖書の欺瞞性、おそらくは『新約聖書』の、という註釈が必要でしょうが、その観点からは2号さんが推理する[PC]や[BC]には、むらさき納言さんが指摘する通りのドロドロが裏にあるのかもしれません。

ローマ法王にも女性はなれませんが、万世一系の重みは、その比ではありませんし、そもそも男女同権(平等)とかの話とは次元の違う問題です。

同意見と知ってホッとしてます。
むらさき納言
いつもの冷静なケイシさんとは思われない切迫した何かを感じますが、深読みし過ぎです。

2号さんの更新ペースが上がったのはグッドニュースですが、「令和」になってからの更新はまだありません。

GW(10連休)が影響しているのかもしれませんね。

2号さんもケイシさんも、

偽善や欺瞞性に満ちた表向きの正義を振りかざすものが「ポリコレ」で、裏を返せばドロドロとした偽りの魂=塊魂にすぎないと言いたいんでしょうね。

諌言すれば、その代表が「聖書」だとでも言いたげに聞こえるのですが・・・

ちなみに、私も女性宮家の創設には反対の立場です。

イエスの正当性を裏付ける系譜も、基本、男系ですよね!

側室とは違う意味で、娼婦や、異邦人の女や、人妻が絡んできますけど、男系で遡って、アダムに繋がります。

それはそうと、正十二面体にはどんな意図やカラクリがあるのでしょうか?
江戸川ケイシ
今年の3月、4月と平成時代の最後を飾る時間の中で、月に1回程度にまで落ち込んでいた更新のペースが週1に戻り、且つ内容も濃いものを意図した構成になっていました。

濃いというのは、罠に直結するエッセンスが濃縮されているという意味ですが、そのことに気づく人は少ないようで、このページの投稿コメントは現時点では自分だけです。

「義」=「罪」の対立概念、これは他者に対して、義(ただ)しい、すなわち、誠実で偽りのない態度で臨むことや、そうした態度が可能である魂の状態をいいます。

誤ったままに氾濫する現在の「PC」ポリコレ事情を左翼リベラルによる「イエス・キリスト計画」と同種のものだと見立てて、警鐘を鳴らすと同時に、洗礼者ヨハネの斬首のような悲劇が起こらないことを祈るばかりですが、

令和の時代を迎えて、俄かに足許を揺るがすかのような女系天皇容認の愚に不安はつのるばかりです。

この意を汲んで欲しいけど、他ページのコメントを見る限りでは、表層にのみ捉われているようです。

きっと2号さんならば、この危機感が共有できているものと信じています。
江戸川ケイシ
ペテロのナイフは洗礼者ヨハネの首を斬った刀のメタファで、ユダの思いは救世主によるユダヤの解放にあって、イエスの思惑はユダの思いを巧みに利用してのメシア計画だと言うわけですね。
つまり、イエスキリスト計画による謀略に洗礼者ヨハネの斬首刑が関係していると言いたいようですが・・・
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