から丸々1ヶ月が経過します。
人智を超えた大災害は致命的で、その傷痕はあまりにも
深く福島第一原発事故は、いまなお収束のめども立たない
ままに現在進行形の危機が危機を呼び、さらに増幅させる
といった複合災害となっています。
2011年3月11日 この悪夢のような 3.11 は …、
我々にとって忘れ難い鎮魂・慰霊・追悼の日
として日本の歴史にながらく刻まれることになるでしょう。
88年前の9月1日が 《防災の日》 となったように …
「天災は忘れた頃にやってくる」 のか
それとも、「忘れなくてもやってくる」 のか
… と問われれば、そりゃあ、自然現象のひとつだから、
「忘れなくてもやってくる」 と答えることになるでしょう。
でも、いまだからこそ 「天災は忘れた頃にやってくる」
という言葉をもう一度じっくりと噛み締めてみたいのです。
この言葉は、著名な随筆家で物理学者の寺田寅彦
(1878年~1935年)が言ったとされていますが …、
実は、弟子であった中谷宇吉郎(物理学者)が1940年の
ある日に新聞社から365日分の名言を集めた「一日一訓」
というコラム集の9月1日の名言と解説を依頼された折に、
この日が関東大震災の日であることに因(ちな)んで恩師
である寺田の言葉として9月1日の名言としたそうなのです。
もちろん、彼は恩師の言葉だと信じて疑わなかったわけ
ですが、そのものずばりの文言は寺田寅彦の著書や随筆
からは見つかっていません。
おそらくは、師弟間で災害時の心構えや対策などについて
語り合った際にふっと口を吐いて出た言葉だったのか
あるいは、「天災と国防」 という寺田寅彦の随筆の
なかの文章が 「天災は忘れた頃にやってくる」 という名言
を想起させたのか
いずれにしても、恩師の言葉であるかのように思い込んで
いたわけです。
この 「天災と国防」 というエッセー(1934年)は、1929年に
始まった 《世界恐慌》 のなかにあって政治も経済も不安定
な時代背景(関東大震災からは12年目の年で、2年後には
2・26事件が起こる時期)に書かれたこともあって、天災より
も国防のほうにより重点が置かれていますが、地球物理学
を専門としていた寺田寅彦は、日本独自の風土を数千年と
いう長いサイクルで考えていたことがわかります。
いくつか抜粋してみましょう。
日本は、 ― (中略) ― 気象学的地球物理学的にもまた
極めて特殊な環境の支配を受けているために、その結果と
して特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない
運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならない
はずである。
わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは
一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼし
ていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の
試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた
諸相が作り上げられたことも事実である。
しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつ
も忘れられがちな重大な要項がある。それは文明が進めば
進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増す
という事実である。
文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする
野心を生じた。 そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗する
ようないろいろの造営物を作った。 そうしてあっぱれ自然
の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に
檻(おり)を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して
高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産を
滅ぼす。 その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗
する人間の細工であると言っても不当ではないはずである。
災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積
させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているもの
はたれあろう文明人そのものなのである。
もう一つ文明の進歩のために生じた対自然関係の著しい
変化がある。 ― (中略) ― いわゆる国家あるいは国民と
称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化が
著しく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が
系全体に対してはなはだしく有害な影響を及ぼす可能性が
多くなり、時には、一小部分の障害が全系統に致命的と
なりうる恐れがあるようになったということである。
戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなく
はないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を
中止させるわけには行かない。 その上に、いついかなる
程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知
することができない。 最後通牒も何もなしに突然襲来する
のである。 それだから国家を脅かす敵としてこれほど
恐ろしい敵はないはずである。
以上を要約すれば …、
日本は地理的位置や気象学的に特殊であるため
に、常に地震、津波、台風などの脅威にさらされて
いることを忘れてはならない。
自然への畏敬と随順、風土への適応と態度など
日本人特有の柔軟なる諸相がある。
文明が進めば進むほど天然の暴威による災害は
その激烈の度合いを増す。
文明科学は自然に対して反抗的、攻撃的、征服的
であるがゆえに天然からのしっぺ返しが大きくなる。
すべてがシステマチックに分化して有機的に結合し
さらにグローバル化されてゆくために一部の損害が
システム全体に波及する。
国防において予告もなく襲来する天災に匹敵する
外敵はいない。
… といったところでしょうか。
なんだか妙にピッタリと当てはまるようなのですが、今の
日本や世界の状況と …。
たとえば、今回の大震災を経済的産業的な立場や視点
から見ると、東北地方に集中する部品その他の工場壊滅
による供給の問題が世界中のメーカー(製造業)に大きな
影響を与えることとなっています。
所謂(いわゆる)サプライチェーン(供給連鎖)の問題です。
77年も前に書かれた内容がそっくりそのままに今日の姿
(現在の日本や世界的に起こっていること)を予言している
ようにも思えます。
予言と言えば、イソップですが、前回の <1> のなかで
『オオカミ少年』 の話は、「オオカミが来た」 と叫ぶ
ことで、慌てふためく村人たちの様子を見ては面白がって
いる嘘つきの子供の話などではなく、常に、起こりうる危機
に備えて警戒を怠ることなく準備しろという警告の物語で
あると、1号 さんは結論付けています。
その理由を訊くと、一般に解釈されているような少年の嘘
に対する戒めの物語ならば少年もしくは少年が飼っている
ヒツジだけが被害にあうべきものであるのにもかかわらず、
村人たちのヒツジも相当程度の被害を受けているわけで、
「オオカミが来たぞ」 という嘘についても、結局は実際に
オオカミが襲って来たことからも嘘ではないことになります。
嘘をついてはいけないことを強調したいのならば、襲って
来るのはオオカミ ではなく、トラ やライオン などの
他の猛獣(捕食動物)でなくてはならないとしているのです。
例の如く、「イソップ物語はある意味で 【予言の書】 だから
『オオカミ少年』 の物語の 謎 を 推理 せよ」 との
1号 さんからの業務命令的な指令ですが 2号 としては、
寺田寅彦 先生の方が予言的にも的中していると思える
のですが …
それでは 2号 が、
オオカミ少年 となるまえに、ひとこと …
嗚呼、天才(1号さん)は忘れたくてもやってくる
本当は、天災 (人災)なんですけどね …
このあとのことは、透明人間5号 にお任せです。
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