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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 反乱劇

 ユダヤ教徒の考える「終末」とは、「長らく続いてきた
悪の時代が終わるとき」です。

 この「終末思想」という観念は、日本人には実に理解
し難いものです。

 キリスト教にも「終末思想」がありますが、ユダヤ教
の「終末思想」とキリスト教の「終末思想」とは互いに
大きく異なる性格のものです。

 ユダヤ教における「終末思想」とは、概して言えば、
おおよそ次のようなものであると考えられます。

 ユダヤに伝わる話では、メシア(救世主)が出現する
場所は、ツファット(ガリラヤ湖の北側に位置する町)、
ベツレヘム(エルサレムの近郊にある町)、ティベリア
(ガリラヤ湖西岸の町)のいずれかだとされています。

 その場所(登場の地)に現れ出でた人物は、預言者に
よって祝福を受け、初めてすべてのユダヤ教徒にメシア
として認められるのです。

  そして、その時期は、

 ユダヤ教徒にとって「地上の悪」が絶頂に達する時に
 、神ヤハウェがメシアを地上界へと派遣するそうです。

  かつて、イスラム教徒により封鎖された「黄金の門」
(イエスが入城したエルサレム神殿跡の東門)が開き、

   黄金の門 (オールド シティ) - ツアーとアクティビティ | エクス ...
   封鎖された黄金の門 www.expedia.co.jp

 メシアが軍勢を率いて、その門からエルサレム神殿に
入城します。

黄金の門
   symbol2 黄金の門とは、エルサレムの城門の中で 唯一 閉ざされている門です。

   イエスはこの門からエルサレムに入城しました。ユダヤ教では救世主が
   終末黄金の門を通り入城するといわれています。それを阻止するため
   イスラム教徒が門を閉ざしたのです。

 こうして、

  メシアの軍勢とサタンの軍勢(ユダヤ教徒を迫害して
きた諸々の勢力)は、地上と霊界とで戦闘を繰り広げる
ことになるのです。

  メシアの軍は、サタンの勢力を滅ぼし、神ヤハウェは
は最終的に勝利を収めます。

 このようにして、

 「終末期」が到来し、長い間 続いてきた悪の時代は
終わり、その後、行方不明であったイスラエル10部族が
約束の地であるカナンに戻ってきて、メシアを王とする
あたらしい「新イスラエル王国」が実現するのです。


 ソロモン神殿(内部構造)meigata-bokushin.secret.jp

 天界に保存されていたエルサレムの霊的本体は地上
に降りて「新イスラエル王国」の首都となり、復活した
「ソロモン第三神殿」を中心に、神ヤハウェとメシアに
よる神権政治が開始され、それと同時に、ユダヤ教徒が
永遠に繁栄する時代が始まるのです。

 
   ソロモン神殿 sumiremainte.jugem.jp

 この時点で、神ヤハウェによる世界創造活動はすべて
完了し、世界は滞りなく完成したことになります。

 そして、

 これ以降、地球上の全地がユダヤ教徒にとっての楽園
となるのだそうですが ・・・

 これが、ユダヤ教徒の「終末思想」なのです。

 熱狂的なユダヤ教徒の一部は、ソロモン第三神殿の
模型を造りあげ、現在もなお、メシア(救世主)出現の
ときを一日千秋の思いで待ち望んでいるそうですよ!

  
   パラノイアか?       う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

 さて、

 前回に引き続いて、「バル・コクバの乱」と称される
第二次ユダヤ戦争(AD132-135年)の話を始めたいと
思いますが、

 その前に第一次ユダヤ戦争(AD66-70年)の残滓と
呼ぶには、余りにも  悲惨な結末を迎えた史実に名高い
熱心党の残党によるマサダ要塞での籠城の顚末など、

   
       マサダの砦の跡

 エルサレム攻囲戦の流れからの名残り多い幾つかの
事象面について触れておきたいと考えます。

  AD70年3月、将軍ウェスパシアヌスの息子ティトゥス
に率いられたローマ軍8万人は、遂にエルサレム攻囲戦
(第一次ユダヤ戦争の決戦)を開始します。


  『エルサレムの包囲と破壊』デイビット・ロバーツ(1850年)

 エルサレム神殿は、基礎部分(神殿の丘)だけを残し
 、徹底的に破壊し尽くされ、業火のなかで消滅します。

 その基礎部分の西側の壁が「嘆きの壁」です。


             『嘆きの壁』 israel.bona.jp

 エルサレム市街は3つの大きな塔と西側の城壁だけを
残し、ローマ軍によって徹底的に破壊され、AD70年の
9月7日に完全に鎮圧されたのでした。

 エルサレムから逃れたユダヤ反乱軍(熱心党)の一部、
およそ千人弱はマサダ要塞に逃げ込み、籠城します。

 このマサダ要塞はヘロデ大王が造ったもので、周囲を
絶壁に囲まれた岩山の要塞砦です。


          マサダの要塞砦の跡 worldheritagesite.xyz

 AD73年、8千人のローマ軍が難攻不落のマサダ要塞
を総攻撃します。

 籠城していたユダヤ教徒は2人の老婆と5人の子供を
残し、ほぼ全員が自害します。

     
      ティトゥス・フラウィウス・ヨセフス

 第一次ユダヤ戦争を記録したフラウィウス・ヨセフス
(AD37年-100年頃)は、その著『ユダヤ戦記』の中で
エルサレム攻囲戦での死者数は110万人(そのほとんどが
ユダヤ教徒)で 、捕虜や奴隷にされたユダヤ教徒の数は
9万7千人と記しています。

 ローマ軍の司令官ティトゥスはエルサレム神殿の黄金
 の宝物を戦利品とし、ローマに凱旋します。

 また、この時、司令官ティトゥスはユダヤ教徒7万人
を奴隷としてローマに連行したと言われています。

 この戦争後、エルサレムにはローマの軍隊が常駐する
ことになり、ユダヤ属州の多くのユダヤ教徒がこの地を
去って、外国に移住します。 こうした状況のなかでも、
ユダヤ教徒たちのメシアを待望する強い思いは、決して
衰えることはありませんでした。

 それから60年近い時を経た、AD130年、ローマ皇帝
ハドリアヌスは、エルサレムをローマ風の名に置き変え
て、「アエリア・カピトリーナ」と呼ばせます。

 さらに、

 エルサレム神殿の跡地にローマの神ジュピターを祀る
神殿を建設し、AD132年には割礼を禁止します。

 こうした仕打ちに、同年 ローマ帝国の支配に反対する
ユダヤ教徒が、「星の子」を意味するバル・コクバという
人物を先頭に押し立て、ユダヤ属州で再びローマ帝国に
戦いを挑んだのです。

 それが、


           「バル・コクバの乱」 japaneseclass.jp

 第二次ユダヤ戦争(AD132年~135年)と言われる
「バル・コクバの乱」なのです。

バル・コクバの乱 - Bar Kokhba revolt - JapaneseClass.jp
        「バル・コクバの乱」 japaneseclass.jp

 この戦いに参加したユダヤ教徒たちは、バル・コクバを
メシア(救世主)だと信じます。 バル・コクバがメシアで
あると信じられた最大の理由としては、ユダヤ教のラビ
(ユダヤ教の指導者)の中でも最も偉大なラビのひとりに
数えられているアキバ・ベン・ヨセフがバル・コクバのこと
をメシアだと認めたからです。

  
     アキバ・ベン・ヨセフ bokete.jp

 メシアと信じられたバル・コクバのもとには、日を追う
ごとにユダヤの民衆が結集し、その数は50万人強に膨れ
上がります。

 AD132年、バル・コクバはこの大勢力を率いて反乱軍
を立ち上げ、当初は日の出の勢いで戦勝していきました。

 しかし、

 戦闘が長期化するにつれて、物量や人材で劣るユダヤ
の反乱軍は、各地で苦戦を強いられるようになり、ひとつ
、またひとつと拠点を撃破されていったのです。

 そして、開戦から3年が経過したAD135年には、

 ローマ皇帝ハドリアヌスの命を受けた将軍セヴェルス
との戦闘によって、メシアだと信じていた バル・コクバ
はあえなく戦死し、アキバ・ベン・ヨセフも捕らえられて
処刑され、ユダヤ反乱軍は完全に制圧されたのでした。

 この反乱劇で戦死したユダヤ教徒の数はおよそ58万人
と言われ、多くの高官たちが死刑となり、わずかに生き  
残った1万人のユダヤ人の捕虜は奴隷としてローマ帝国
の各地に売り飛ばされてしまったといいます。

 さて、

 ここで万能皇帝と言われるハドリアヌスの影の部分に
ついて少し触れるとすれば、


           万能皇帝ハドリアヌス anc-rome.info 

  ローマ皇帝ハドリアヌスは、ユダヤ教徒のエルサレム
への立ち入りを禁じ、神殿の丘の表土を剥ぎ取って 捨て
去り、エルサレム南門にユダヤ教徒が忌み嫌う豚の彫刻
を施して、ユダヤ教徒の信仰を愚弄し、ユダヤ教禁止令を
発布して、ユダヤ教の信仰とユダヤ暦の使用を禁じます。

 さらに、

 ユダヤ教の指導者たちを殺し、ユダヤ教の書物を神殿
の丘の穴に廃棄して、その穴を埋め、「ユダヤ」という地名
を「パレスチナ」に変えて、ユダヤ文化の根絶を図ったの
でした。

 ユダヤ教禁止令を破る者は死刑にされたわけですが、

 ユダヤ教徒はバル・コクバの乱で敗北してから200年
近くに亘り、エルサレムへの立ち入りを禁じられたうえ
にエルサレムを遠望することさえも禁じられたのです。

 禁止令を破ってエルサレムに立ち入る者は皆、死刑
を覚悟しなければならなかったというわけです。

 こうした状況のなかで、パレスチナのユダヤ教徒の
大多数はこの土地を見限って、地中海沿岸の各地域や
西アジア・インドなどに移住します。

 こうして、 

 第二次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)は幕を閉じ、
本格的なディアスポラ(民族離散)が始まるのでした。

 ユダヤ教徒が神殿跡地への立ち入りを許されるように
なったのは4世紀になってからですが、それが許される
のは、エルサレムがローマ軍によって破壊された記念日
だけのただ1日であり、ユダヤ教徒はこうした嫌がらせ
にも似た屈辱に泣き続けるわけです。

 ユダヤ教徒の神殿跡地への立ち入りが許可されて以来、
「嘆きの壁」はユダヤ教徒の燃えるようなメシア待望の
熱い思いと民族的怨念を吸い込み続けて、今日に至って
いるのです。

【世界遺産】嘆きの壁 | エルサレムの旧市街とその城壁群
          『嘆きの壁』 worldheritagesite.xyz

 第一次・第二次ユダヤ戦争での敗北によるセム系民族
の大規模なる国外離散は移住した各地において、異教徒
との親和的交流を断ち、ユダヤ教徒のみで共同体を作り、
周囲の社会に同化することなく、ただひたすらにメシア
の出現を待ち望んでいるわけですが ・・・

 結局のところ、

 ユダヤ教徒は3世紀以降、バル・コクバが指導したよう
な大規模な反乱を終ぞ起こせなかったのです。

 AD313年に、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は
民心を掌握するためにキリスト教を公認します。

 同392年、ローマ皇帝テオドシウス1世はキリスト教
をローマ帝国の国教とし、異端とされた三位一体を否定 
する立場の他のキリスト教の宗派や異教を禁止します。 

 この当時のユダヤ教徒から見れば、キリスト教徒たち
はユダヤ教の聖典の中身を盗んだ無法者でした。

 「自分たちこそが、神ヤハウェによって選ばれた民族」
だと信じているユダヤ教徒にとって、「世の中の動きは
一体、何を意味しているのか? 自分たちユダヤ教徒は
なぜ苦しまなければならないのか?」 

 「バビロン補囚以来、政治的にも地政学的にも不幸の
渦中に置かれている自分たちユダヤ民族を絶望のどん底
から解放してくれるメシア(救世主)を、神ヤハウェは
なぜ早く地上界へ派遣してくれないのか」ということが
次第に彼らの大命題となっていったのでした。

 ユダヤ教徒は各地の共同体に籠もりながら、これらの
謎を解明しようと努めました。

  このようにして、

 ユダヤ教における内面化と内実化が漸次、促進されて
いき、 神ヤハウェの真意を探ろうとするユダヤ教の神秘
思想である「カバラ」がいよいよ誕生するのです。

 symbol2  以上、

『ユダヤ教徒の「終末思想」と ユダヤ教神秘主義思想「カバラ」』
(www1.s-cat.ne.jp)より、抜粋・引用・構成してみました。

 次回では「カバラ」について、もう少し深掘りした
考察をしてみたいと考えていますが ・・・

 果たして、どうなるのでしょうか!?

     ま、まさか、お前さん!
 
「両方にベットしておらんじゃろな」

   

  
  「で~たぁ、バカラ賭博の奥義 !」
 
      そ、そっち なの?
  
  いやいや、バカラとは、フランス発祥の 
   高級クリスタルブランドのことじゃろ!

       画像元: domani.shogakukan.co.jpは 
      なんでやねん!
             
  バカラじゃなくて ・・・      カバラなんすけど、  
 
    ・・・ っておいおいおい

                
 なるほど、バカラと、       カバラねぇ  (^▽^;)(^^ゞ        

 
       なんだかなぁ!    

… to be continued !!

   symbol2 ダ・ヴィンチの推理は続きます。

 

コメント一覧

aidman
エルサレムの東側の壁には、黄金の門といわれる閉ざされた不思議な門があります。
この門は、イエスがエルサレムに入城した時に、この門を通って城内に入ったとされる場所です。
その後、AD70年にエルサレムがローマ軍に占領されたとき、この城壁と門は破壊され、その後、1543年にイスラム教徒のサルタン・スレーマンが城壁を再建したときに、弓形の門や飾りを元通りに再建したのですが、妙なことに、すぐに石を積み上げて、そこを塞いでしまったそうなのです。
ユダヤ教では救世主が終末に黄金の門を通り入城するといわれています。それを阻止するためにイスラム教徒であったサルタン・スレーマンは、慌てて門を閉ざしたのでしょう。

 キリスト教ではそれを利用して、エゼキエル書44章1-2節に預言されたことが成就したと喧伝します。

「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここから入ってはならない。
イスラエルの神、主がここから入られたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない」と、確かにそう書かれていますが、これはエゼキエルが幻で見たように栄光の主が東の門を通って入られたので、この門は普段は閉じたままにするように、そして、唯一、君主だけがその場所でいけにえの食事をとるために、そこに入るのを許されていたということなのです。

黄金の門は、今もそこにありますが、ひっそりと堅く閉ざされたままなのは、聖書の預言の正確さを証ししているというわけではないのです。
小吉
本文より、
「イエスはこの門からエルサレムに入城しました。ユダヤ教では救世主が終末に黄金の門を通り入城するといわれています。それを阻止するためにイスラム教徒が門を閉ざしたのです」

え! そんなこと「あり」なの!?

え? でもそこイエスが通ったんだよね。

どういうこと??????
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