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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 反乱軍

 老中 松平信綱は決断する。
「山田右衛門作、助命」。

 こうして、彼は1人生き残ったのです。

 前々々回の『ダ・ヴィンチの罠 伴天連』の続編として
の今回は〝島原の乱〟唯一の生き残りで、否応なきまま
に、時代に、権力に、翻弄され続けたひとりの南蛮絵師
の人生にスポット・ライトをあて、小生なりの視点から
フォーカスしてみたいと考えています。

 ところで、

 彼の命が助かったのは、密かに幕府軍と内通していた
ことによる酌量があったからでしょうか!?

 それは 、切支丹(キリシタン)であるにもかかわらず
仲間を裏切ったってコトですか?

   え! 

 いやいや、そうではありません。

 ここでは、彼がキリシタンであるかどうかは関係ない
のです。山田右衛門作(えもさく)にとって、一番大事
だったのは、自らの信仰ではありません。

 彼にとってのプライオリティ(優先順位)のトップは
いかにして、大事な妻子を、無事に生かすことができる
かということでした。

 そもそも、山田右衛門作は〝島原の乱〟に自ら積極的
に参加したわけではありません。当初、彼にはそんな気
などまったくなかったのです。

 一揆勢に息子を人質に取られて、やむを得ず従ったと
いうのが偽らざる真実のようです。

 要するに、無理矢理に参加させられたわけですね。

 そうした事態は、彼ばかりではなく、彼が住んでいた
とされる「口之津村(くちのつむら)」以外の場所でも、
同様のことは起こっていたとされます。

 家を焼き払うと脅され、家族を人質に取られ、自らの
意志ではなく、半ば強制的に参加させられたキリシタン。

 それが山田右衛門作(やまだえもさく)でした。

 しかしながら、皮肉にも、そんな彼は一揆勢から重宝
される存在になるのです。

島原藩
            島原藩 www.touken-world.jp

 〝島原の乱〟は、九州諸藩内の島原藩と唐津藩のある
天草諸島を中心に起こりました。

 時は、

 江戸時代の初期にあたる寛永14年(西暦1637年)10月
のことで、日本史上最大級の切支丹(キリシタン)蜂起
と言われています。

 直接的なキッカケは、領民(百姓)の酷使や重い年貢
に飢饉などの影響が加わり、これらにキリシタンの迫害
が加味されて、領民の不満が一気に高まったことに起因
するとされていますが、小生の見方は少し違います。

 多分に陰謀論的で非常識な色彩を帯びてきますが、

 諸大名の改易(お家の取り潰し)や減俸(石高の削減)
あるいは転封(国替え)などによって、浪人の憂き目を
見ることになった元士族の連中が中核となったある種の
クーデター的な武装蜂起であり、非合法的に、かつ公然
と、暴力的な手段を行使して、政権を転覆させることを
試みた反乱劇であったものと推察したのです 

 現実に、島原の元領主であった有馬晴信の家臣たちは
、有馬晴信が島原を去ったのちも島原に残りました。

 しかし、新たに国替えとなった松倉重政が自分の家臣
を大勢率いて来たことで、有馬晴信の家臣たちは厳しい
立場に立たされ、その結果武士の身分を剥奪され、百姓
へと転じて領民たちを指揮するようになるわけです。

 そのため、彼らの身分は百姓であってもそれは形だけ
のものでした。

 彼らは武器の使用に熟達した兵士であったため、領民
たちの中で力を持ったのです。

 領民たちは、旧有馬氏の家臣たちのもとに集まり始め
、やがて組織化していった結果、一揆勢に加わります。

 天草でも小西行長らの改易政策により発生した大量の
浪人を中心に一揆が組織されていったことにより、島原
と天草で呼応するように一揆は膨れ上がっていきました。

 一揆と反乱は似て非なるものというよりも、本質的に
異なります。

一揆を起こす農民のイラスト   天草四郎
一揆を起こす農民 irasutoya.blogspot.com 反乱を起こした天草四郎 jitanda.com

 確かに、初動の出来事やキッカケは、前述したような
一揆的な色合いのモノでしたが、総大将に天草四郎時貞
が選出されて以降は、明らかなる反乱軍と化したのです。

 さて、

 この反乱軍の指導者として知られるのが、弱冠16歳の
天草四郎時貞で、彼は数々の奇跡を起こしたカリスマで
あり、領主の悪政に苦しむキリシタンを救済するために
反乱を指導したと言われてきました。

 天草四郎に率いられた約3万7000人の反乱軍は、原城
を占拠して領主に対抗します。

 反乱を知った幕府も急ぎ兵を派遣しますが、反乱軍は
およそ5ヵ月間にわたって抵抗を続けたわけです。

島原の乱 (しまばらのらん)とは【ピクシブ百科事典】
        島原の乱(ピクシブ百科事典) dic.pixiv.net

 ところで、

 実際に、天草四郎は反乱軍の先頭には立っていたもの
の、反乱劇の首謀者ではありませんでした。

 戦闘を指揮したことも確かにありましたが、実質的な
指揮権は別の者たちが握っていたのです。

 そもそも、島原の人々が反乱(一揆)を起こしたのは
キリシタン弾圧だけが原因ではないことは前述の通りで
、領主による過度の重税など、圧政に苦しむ農民たちに
よる蜂起がその発端でした。

 そしてこの蜂起に、幕府によって棄教させられた大勢
元キリシタンたちが参加したことで、一躍、宗教運動の
様相を呈し、一揆は一気に拡大していったのでした。
    
(ここで親父ギャグかよ!)      う~む  (^▽^;)(^^ゞ

 天草四郎はこうしたムーブメント(騒動)の後で蜂起
に加わっており、端から一揆勢を牽引しリーダーシップ
を発揮していたわけではありませんでした。

 それでは、これまで、彼が反乱の首謀者だと思われて
きたのはなぜでしょうか?

 それは、主君を失った浪人や農民たちを束ねる庄屋が
天草四郎を担ぎ上げたからです。

 原城で捕縛された旧有馬家の家臣である山田右衛門作
によると、天草に集合した5人の浪人勢によって、四郎
を旗頭にしようと画策されたようで、その後、有馬地域
の村々が相談し、天草四郎をリーダーとすることが決定
したのでした。

 浪人たちが天草四郎を担ぎ上げた目的は元キリシタン
を結集させて宗教闘争を演じることと一揆勢の士気向上
を企図して、反乱をクーデター化することでした。

 その結果として一揆軍(反乱軍)は3万人以上の規模
の大軍に膨れ上がり、各村々から集められた武器で武装
した彼らの勢いは、幕府を苦しめることになるのです。

 かつて我々が学校で教わった話では、反乱軍(一揆勢)
は全滅したとされてきましたが、それは間違いです。

        

 実際には、相当数の農民が原城を脱出していたことが
複数の史料からわかっています。

 このことは、幕府軍が主に農民たち一揆勢の殲滅まで
は目指しておらず、女・子どもや投降者を赦免するよう
軍令で決めていたからでした。

 また、

 一揆勢の皆が皆、宗教運動に熱心で積極的だったわけ
ではなく、情勢を見極めて逃亡する者たちの数も決して
少なくはありませんでした。

 必ずしも熱狂的な信者たちばかりが集結していたわけ
ではなかったのです。

 さらに天草四郎に関する情報は誤解だらけで、奇跡を
起こしたカリスマというのは後世の脚色であり、実像は
よくわかっていないのです。

 彼の素性を記した一次史料は極めて少なく、戦闘など
の経過を伝える史料にもほとんどその姿を現さないため
に本当に実在したのかと疑問視する声もあるほどですが
、天草四郎の目撃情報は確かに存在してはいるのです。

 例えば、熊本藩の家老が大坂城代に宛てた手紙による
と、久留米の商人が戦闘中に四郎を目撃しています。


         天草四郎時貞 osaya.org

 それによると四郎は馬に跨り、服装は白い組の着物に
袴姿で、頭には苧(からむし)を三つ組にして緒で喉下
に留め、額には小さな十字架を立てていました。

 そして、

 手に御幣を持って、一揆軍を指揮していたと言います。

 こうした詳細な記述から、少なくとも天草四郎が存在
したことだけは間違いないだろう、と言われています。

 さて、

 『天草征伐記』をひも解けば、山田右衛門作のことを
「学問道徳の男、文章の達者」と評価する一連の記述が
見つかります。

 どうやら〝島原の乱〟における彼は、「絵師」という
よりも「学問に秀で、文章にも達者」な部分を買われて
いたようで、それがために、山田右衛門作は四郎時貞の
近くに置かれ、色々と頼りにされていたというのです。

 だからこそ、

 幕府方としては、自軍にとって欲しい情報を内通して
きた右衛門作からの言質によって、十分に入手すること
ができたのかもしれませんが ・・・

☆A60和本明治12年(1879)天草の乱写本「天草征伐記」9
      「天草の乱」 写本 『天草征伐記』9 www.geo-zs.si

 その辺りの様子を勝手に想像するとすれば、

 反乱が4か月目に突入した頃の山田右衛門作はと言う
と、本丸の守備隊長の1人として2000人を率いていたと
される一方で、嘉永15年1月の中旬にはすでに幕府軍に
矢文(やぶみ)を飛ばして接触していたとの記録もあり
、反乱軍(一揆勢)に参加するに至った経緯を事細かく
説明しています。

 城内の様子を知らせる見返りに、自分と家族の生命の
保障を要求していたと言いますし、

 また、山田右衛門作のように、半ば強制的に一揆軍に
参加させられた人々も多くいたことや、それこそ村ごと
巻き込まれた地域もあることなど ・・・

 そうした意味では、〝島原の乱〟の一揆勢の内部には
「強硬派」だけではなく、従わざるを得なかった人たち
の中には、武力での抵抗を不本意と考える「和平派」も
数多く存在していたのです。


 幕府方に届かなかった壷井家所蔵の矢文(有馬キリシタン遺産記念館) oratio.jp

 山田右衛門作は、そんな和平派の人々を助けることを
考えていたのでしょうか?

 幕府軍の総攻撃が行われる9日前の寛永15(1638)年
の 2月18日に山田右衛門作が放った矢文には、

 「城中には心ならずも籠城した者もいる」と、それを
示唆する内容が含まれていますし、また、反乱劇を終結
させるための具体的な申し出もなされていました。

 最終的に、幕府軍の総攻撃で反乱軍は崩壊したものの、
天草四郎のリーダーシップで統率されたキリシタンたち
は手強く、為政者は宗教勢力の恐ろしさを目の当たりに
したとされています。

 こうして鎮圧の1年後には、ポルトガル人が日本から
追放された上、我が国は「鎖国政策」のもとに置かれる
ことに繋がっていくのでした。

 ここで、細かい補足を入れるとすれば、

天草四郎
          天草四郎時貞 www.touken-world.jp

 〝島原の乱〟の首謀者たちは、湯島にて会談を行ない、
キリシタンの間でカリスマ的人気を誇っていた当時16歳
の天草四郎を一揆のリーダーに据えることを決定します。

 本名は「益田四郎」、諱(いみな)は「時貞」と言い、
キリシタンであったため洗礼名を持ち「ジェロニモ」と
名乗っていましたが、改宗運動によって見せかけの棄教
をしていたことからも一揆の際には「フランシスコ」と
名乗り、一般には「天草四郎時貞」として知られていく
ことになります。

 彼の出生については諸説あって、俗説では豊臣秀頼の
庶子だったのではないかと言う説もあります。

豊臣秀頼
           豊臣秀頼 www.touken-world.jp

 ミステリアスな人物で、優れた教養を持ち、水の上を
歩いたなど超自然的な力を持っていた逸話もありますが、
真偽のほどは定かではありません。

 一揆勢は、多くの村々や周囲の人たちにキリシタンに
なるように迫り、従わない者たちに攻撃を加えました。

 キリシタンになる者は仲間の信者として迎え入れるが、
ならない者は皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なく
キリシタンになったと言います。

 通常の一揆では、メンバーに加わることのみを周囲に
強要するものであったのに対し、島原の一揆勢が通常と
異なったのは改宗を求めた点です。

 運動の内容は穏やかなものではなく、寺社への攻撃や
僧侶、神職の殺害など苛烈な内容でした。

 彼らは、キリシタンの弾圧に赴いた代官を斬り殺すと
周辺の村々に代官や出家した者、神職の人間を皆殺しに
するよう触れ回り、寺社の人間だけにとどまらず、旅人
までも殺してしまいました。

 そのような状況下で、嘉永14年(1637年)12月11日、
有馬村のキリシタンたちが代官所に押し寄せて、代官の
林兵左衛門を殺害した事件が皮切りとなって、日本史上
最大級の切支丹(キリシタン)蜂起〝島原の乱〟が勃発
したのでした。

    ふむふむ

           
 画像 www.pinterest.jp          (う~む・・・)

  以上、参考資料 : 日本史の謎検証委員会編『図解最新研究で
  ここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社 2022年版、
  ブログ引用元:mag.japaaan.com & www.touken-world.jp 
  intojapanwaraku.com  から適宜に、抜粋、加筆・修正・編集
  いたしました。 

 というわけで、今回の記事はここまでとしますが、

 原城内の土牢の中で発見された山田右衛門作は、どう
なったのでしょうか?

 救出された山田右衛門作は、長い取り調べを受ける中
で、これまでの〝島原の乱〟における経緯や戦いの状況
などについての詳細なる供述を始めます。

 後に、その内容は『山田右衛門作口書』として、原城
の内部を把握する資料となりました。

 結局、山田右衛門作は島原に残ることなく、松平信綱
に連れられて江戸へ上ることになるのですが、当時の彼
の年齢は66歳です。

 この歳で故郷を離れるのは、さぞや辛かったのだろう
と思われますが、最愛の妻子を失った山田右衛門作には、
そんなことなど、どうでもよかったのかもしれません。

 その後、彼は松平信綱の屋敷で絵を描いて暮らしたと
聞いていますが、もともと絵師であったため、その腕を
買われての助命だったのかもしれませんね!

 果たして、

 どんな思いで、晩年(余生)を過ごしていたのか!? 

 小生の知るところではありませんが、齢83歳の人生を
彼はまっとうしたのでした。(合掌)

 山田右衛門作が最愛の妻子を失くしたわけは、幕府軍
からの文が彼に届かずに、城内の夜廻りの者に発見され、
四郎時貞の元へ送られます。

 これを読んだ四郎時貞は激怒して、彼の目の前で妻子
を見せしめに処刑したのです。

 本人は手枷、足枷をされ、土牢の中に閉じ込められた
という次第だったわけですね。

 原城内に立て籠った一揆軍の中の「和平派」の動きや
救出された山田右衛門作の江戸での暮らし振りについて
は、次回以降のどこかで、案内したいと考えています。

 さて、次回では、

 「天草四郎時貞」が、「イエス・キリスト」と同じく
海面(水の上)を歩いたとする奇跡を受けて、第14回目
となる絵画展では「水上歩行」をテーマにした展示作品
を集めてご紹介したいと思います。


            水上歩行 christianpure.com

   水の上を歩いてる・・・?

     どうやら、この男は、何も、
 わかってませんな! 

  これは一種のイリュージョンなんじゃ!
 
      幻覚や錯覚ってこと?
 
 奇術や手品みたいな意識的な錯覚じゃな!
 
 「どんな技(わざ)か、知っとるか!?」
 ええ  
 
  「舞台装置や演出があるんでしょ!」
 
      そのとおりじゃ!?
 
   じゃが、詳しくは言えんがのぅ!

        なんでやねん!
       
  (そりゃそうだろ!)           う~む  (^▽^;)(^^ゞ 
   
         なんだかなぁ! 

 グローバリズムの氾濫と反乱(Photo by NASA on Unsplash )eleminist.com     

  … to be continued !! 
Descriptive image related to クリスチャンはどのようにして霊的攻撃から自分と家族を守ることができるのか?
          水上歩行のイメージ christianpure.com

         「乱と変」の違い chugaku-rekishi.mobi

 ちなみに、「」と名前がつくのは、そのときの幕府や朝廷など権力に対して反乱を
 起こしたが、鎮圧されてしまった戦いのことです。 成功した場合は「」となります。

     symbol2 ダ・ヴィンチの推理は続きます。
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